03:私の生きている現実
遠い昔の夢を見た。
そのときの自分はあまりに幼く愚かで、努力すれば夢は叶うと信じていた。
痛かった。苦しかった。惨めだった。不甲斐なかった。
それでも足掻き続ければ光はある、と。諦めずに進み続ければ不可能ではないんだ、と。まるでお伽噺のような言葉を吐いて、いつだって笑って前を向いた。
だから、自分は――。
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頬が濡れている、と理解したのは、私の覚醒に気づいた女中が蒸しタオルを差し出してからだった。
全く、よく分からない悪夢を見て泣くなど、私はかなり弱っているらしい。
いや、『わたし』を思い出したことで少々、混乱しているのだろう。先ほどの夢も、どちらの記憶を整理した物なのか判別できない。
目元を拭いながら、ちらりと女中を見る。いわばメイドさんだが……うら若き乙女だと思ったか。残念だったな諸君、目元の皺がキュートなご婦人だ。
腐っても鯛、とでも言おうか。こんな私だが王位継承権第一位の王子で、彼女はその世話人だ。それなりの身分と経験を併せ持つ人が選ばれる。若くて可愛いメイドさんなど存在しない。
というか……流石に、年頃の変わらぬ少女に着替えさせられるというのは少々遠慮したい。今だって意識のないうちに髪をほどき、寝巻になっていた。これが美少女メイドの手であれば、恥ずかしすぎて泣きそうだ。
さて、と。
軽く目元を拭い、枕もとの懐中時計を手に取る。ふむ、9時。2時間ほど寝ていたのか。
これは彼女たちの協力合体技の所為というより、最近の寝不足の結果だろうな。まぁとどめではあったのだろうが。
ああそうだ。今後のことも話さなければならないし、向こうもやきもきしているだろう。となると、まずは。
「手紙を書く。私の、テオフィルの印璽も用意してくれ。蝋は二人分を」
やれ、面倒だが仕方ない。今夜のことについて後日改めて面会したい、と伝えるだけでも手間暇かかるのが貴族という物だ。
とりあえずはシャンゼリンとヴィヴィアンヌに、対話の意志があるかだけでも確認せねば。返事によっては……少々、よろしくない手段を使わねばならないか。
軽く髪を束ねている間に、手紙の用意が机に整えられた。これは別に、私が自分の長い髪をまとめるのに時間がかかったとかではないぞ、決して。うむ、流石の手際。
滑らかな紙に万年筆を走らせ、封蝋を垂らす。手早く印璽を押し、出来上がった二枚を彼女に手渡した。
「これをヴィヴィアンヌとシャンゼリンに届けてくれ。受け取り拒否をされたら戻って欲しいが、渡せたらそのまま今日は帰るといい」
「では夜間の世話の者を代わりに……」
「いや、結構だ。今日はもう寝るだけだ。何かあれば部屋の外の護衛に頼むから、お前たちは今夜はもう休みなさい」
立場上、一人の時間というのは危険だ。私を害して得をする人間というのは少ないが、全くいないわけじゃない。だから基本的には女中や護衛が常に傍にいる。
まあこうして用事を作れば、学園にいる間は割と簡単に一人になれるが。流石に受け取り拒否はされないだろう、王子の手紙だし。
一応言っておくが、建物自体の警備は厳重だぞ。
私が生活しているこの寮は、ただの学園寮ではない。王族や国外の要人を招くための、いわば迎賓館にも似た役割だ。各階の見回り巡回や、部屋毎にも扉に護衛が付いている。セキュリティは万全だ。
「やれ、ようやく目がなくなったか……ふむ」
まあ、抜け道はいくらでもあるのだがね。
こうして、背後から短剣を突き付けてくる男がいる程度には。
「……話をするなら、まずは椅子に座りたいな。あぁ、その前に茶でも淹れようか?」
「そのふざけた口を今すぐ閉じろ。聞かれたこと以外答えるな」
つぅ、と首筋をなぞる冷たい切っ先。とくりとくりと、脈打つ振動だけで切り裂かれそうな、有無を言わさぬ声。
薄暗い部屋を照らす蝋燭の灯が、ゆらりと揺れた。それに合わせて揺らめく影が壁を這い、居もしない化け物を連想させる。
呼吸音すら聞こえない。彼は熟練の殺し屋だ。私のような凡人に感知できるのは殺意でも害意でもなく、純粋な死のみというわけだ。
「……どういうつもりだ」
「はて、質問の意味が分かりかねるな。何がだい?」
「どういうつもりで、あんな事をした。婚約破棄だって」
「ははは、そのことか。いや、君の雇い主には悪いが、これも現場の判断という奴で――ッ」
ドウッ、と肺を直接殴られたような衝撃が襲った。
いやいや、いくら跡が残らないようにしているからって。浸透勁はやりすぎじゃなかろうかっ。冗談抜きに、息が、できない。
「かふっ、は……っ」
ずるり、と崩れ落ちる私の身体を彼の腕が掬い上げ、抱きかかえられた。
……うん、正確に言い直そう。がっちりと関節を極められた上に、短剣が顎の下に添えられた。実に殺意あるハグだ。
「もう一度だけ聞くぞ。なんで婚約破棄を中止した」
「……話せば、かなり長くなるので、できればこの熱烈な抱擁を止めて座って話したいのだが」
「さっさと答えろ」
「君、相変わらず短気だねえ。……簡単に言えば、計画に感づかれた可能性がある」
といっても、気づいたのは私の手柄というわけではない。『わたし』の記憶から推察したことだ。
繰り返すが、私はこの世界がゲームではないと断言する。私はこれが0と1の作り出す虚構そのものであるとは、思わない。
『わたし』の記憶の中で、酷似したゲームをプレイしたこと自体は否定しない。だがだからといって、私が生きている現実まで否定することはないだろう?
……いや、言い方を変えよう。この世界がゲームなのかどうかなどどうでもいい。全知全能の神ですら、きっと知るすべはないだろうから。私の結論は単純だ。
この生が虚構だなどと思ってたまるか。
私はここで、生き足掻いてきたのだから。
話を戻そう。
ゲームではない、とは言ってみたが、酷似したゲームがあるのは事実だ。そして、決定的なまでに差異があることも。
最初は、ただゲームに似ているだけで別物だからこそかと思った。別物故に、表面的に同じだけで違う結果もでるのだろうか、と。
だが、むしろ逆だ。違っているのはごく一部に過ぎず、後は全てが一致している。ラプラスの悪魔的な話になるが……他の全ての要素が同じであるにも関わらず、ある部分だけが明らかに違っているのは妙だと思うのだ。
環境や条件が何から何まで同じだというのなら、その結果だって同じでなければおかしいだろう?
私が思い出す前から、人々の動きが変化している。誰かがいるのだ。『わたし』のような、この世界にとっての異物が。
まあこじつけじみた話とは自覚している。それでも可能性があるのなら、備えておきたいのだ。何せ、ゲームと違ってやり直しは不可能だからな。
その者がどのような意図で変化をもたらしているのかは、今のところ分からない。
ゲームに干渉する意図なく生きているだけならばいい。私の感じる変化が単なるバタフライエフェクトであるならば。
あるいは『わたし』のように、かすかな意識しかないかもしれない。前世の自我なんて、はっきりしている方がおかしいだろう。
だが、もしも。
まるで流行に乗っただけの出来の悪い短編小説のように。
明確な自我を持って。正確な情報で以て。
この世界を空想物と認識し、『わたし』以上の知識で人々を操ろうとしたら?
その者が、私が計画していた結末に、不満を抱いていたら?
「断言しよう。敵になりうる者がいる」
もしそうなら。
それは間違いなく、私の敵だ。