第五話「出発」
「……とは言え、悩んでばかりもいらんないよね」
顔を上げて、背にしていた割れた窓から下を覗く。
あの黒い恐竜が外へ出てきた気配はない。かと言って、下から登ってくる気配もない。あれだけの巨体だし、足音なんかすればすぐに気づくだろうし。
「ねえスイ。どうしたらいいと思う?」
「えと、隠れるとか、逃げるとか」
「隠れるのは正解だろうけど、見つかった上で逃げるのはちょっと怖いよね。てか死ぬ」
熊とかが全力で走ると物凄く速いって話を聞いたことがある。アレは全然熊じゃないけど、どっちにしたってあんな肉食獣丸出しのフォルムをしたヤツと駆けっこしたいなんて全然思わない。
「戦う……」
十徳ナイフを取り出し、すぐさま首を横に振った。ノー。ムリ。
何かないだろうかと見回す。暗い内はあまり意識してなかったけど、ここは資材とか建材、ガーデニングとかに使う品物がまとめてあるフロアのようだ。頑張れば何か作れるかもしれないけど、アレ相手にはせいぜい目くらましがいいところだし、そもそも私には知識がない。
「あー、くだらない雑学ばっかり詰め込みおってー!」
カラッポの頭をぐしゃぐしゃとかきむしりながら奇声を上げる。
「あだっ」
勢いのままぱたーんと横になったら、ちょうど頭の辺りにあった鉢植えに頭をぶつけた。
「いった……あ」
何かと思って手に取れば、固焼粘土で出来た鉢植えだ。窓際とかに置くのに最適そうな小振りな感じ。それがまとめて棚に積んであって、色とりどりにたくさん並んでいる。
「……ふむ」
妙案とは言い難いが、試してみるくらいは悪くないかもしれない。
「スイ。落っことしちゃうと怖いから、そこにいてね」
「え?」
胸ポケットから携帯を取り出して、棚の片隅に置いた。レーザーが拡散し、スイの心配そうな姿がそこに現れる。
「……」
窓から下を覗く。荒廃した道路だ。
ボロボロの車が何台かと、ゴミか何かが転がってる。あと錆びた自販機。空気は綺麗みたいだから、景観が酷い割にはずっと遠くまで見渡せる。
「えい」
私は鉢植えを無造作に取ると、何個かをお試し感覚で下へ落としてみた。
しばらく落下が続いて、通り中に砕け散る音が響き渡る。とはいえ、小さいからかそこまで大した音でもない。
そのまま膝をついて下を見つめるけど、想定の動きはない。
しょうがない、とまた鉢植えを取る。今度はサイズアップさせた。一回り、いや二回り分くらいは大きな鉢植えを、立て続けにガンガン落とす。
さっきよりも強烈な音が、通り中に何度も何度も響いた。
「ま、マユ? 何をしているんですか?」
「おびき寄せ……かな」
それからしばらくすると、鉢植えが割れた音よりよっぽど大きな音を立てて、ホームセンターの正面口辺りから大量のガラスや石くれが飛び散った。遅れてあの黒い恐竜が、低い叫び声を上げ、大暴れしながら出てくる。
「うわ、おっかな!」
あんなの絶対に正面から向かい合いたくない。怖すぎる。
しばらく上から観察してみる。左右を気にしたり、地面の匂いや割れた破片を嗅いだりしているようだけど、こちらに気づく様子はない。それなら。
「もう……ひとつ!」
今度はちょうど曲がり角の辺り、建物の陰になっている部分を目がけて。恐竜に気取られないよう、慎重に振りかぶり、投げる。
窓ガラスがほとんどなくて助かった。投げられた鉢植えは私の手から飛び出し、恐竜の頭上を上手いこと通り過ぎて、曲がり角の向こう側へ消えた。そしてすぐに小さな破砕音。
しかし、通りにいれば話は別だ。よく聞こえただろう。
それに釣られて、恐竜はおぼつかない足取りで、けれど私が追いかけられたら絶対すぐ捕まって食べられてしまいそうな速度で、路地の奥へと消えていった。
それから一分。三分。五分ほどが過ぎても、恐竜が戻ってくる様子はなかった。
「……よくやった、私」
しばらく固まって見つめていたが、気が抜けて、自分で自分を褒めつつ私は座り込む。
思ったより飛んだ。というより、そこに当てられる気がした。狙ったところに。想像以上に上手く行ったのは確かだけれど、自分の身体能力に対する信頼のようなものがなんとなくあることに気づいた。運動が得意だった覚えはないし、ハンドボールも苦手だった気がするけど。
「す、すごいです! マユ!」
ぱちぱちと拍手するスイ。映像のくせに、わざわざ効果音付き。スイは見かけ上そこにいるのに、胸元から拍手の音がするのは変な感じだ。
「こんなに上手く行くとは思わなかったけどね。嫌な汗かいた……」
ここに来てようやく汗が出た気がする。同時に喉が渇いた実感が出てきた。
下ろしてあったリュックから水のボトルを取り出して、見つめる。賞味期限はとっくに切れている。中の水は、透明なままたぷんと音を立てた。
生唾を飲み込む。
「……飲んでみようかな、これ」
「え」
「ええい、私は喉が渇いたんだ!」
蓋を開けて、一息に飲んだ。
冷たくはない。気温と同じ味のない水が、私の喉を通る。一口、二口、三口。
「……」
なんともない。まずくもない。
何も起こらない。
水だ。
「ねえスイ」
「は、はい」
「お腹を壊して私が死んだら、私のマユはマヌケな人だったんですよって、次の持ち主に伝えてあげてね」
「何言ってるんですか……」
水のボトルを一つ飲み干した後も、私はまだホームセンターにいた。
体調がおかしくなって途中で動けなくなるのが怖かったからだ。もう三十分は経つけど、幸い何か起こる様子はないし、吐き気なんかもない。
「期限切れてるし、こういうのはできる限り開けたらすぐ飲んだ方がいいんだよね」
真空パックや特殊な梱包のものは、封を切らない限りは傷まない。その代わり、開けたらすぐに悪くなってしまうから早めに消費した方がいい。そんな雑学がまた頭に浮かぶ。飲むまで頭にもよぎらなかったので、実はこの辺も封印された記憶の一部なのかもしれない。
「ほ、ホントに大丈夫なんですか、マユ?」
「大丈夫だよ。スイは心配性?」
「私には、人間の体調不良というものがわからないものですから」
「……そっか、なるほど」
スイは機械だ。私が機械のことをわからないように、人間の体調も、機械からではどう変化するのかわからないのかもしれない。
にやりと笑い、私は腹を押さえて首を落とした。スイから表情は見えない。
「うぐ」
「ま、マユ?」
「お腹が痛いー」
「ええっ。そ、それは、その、大丈夫ですか!? えと、私はどうすれば……」
あんまり素直におろおろとするスイに、良心が痛んで私はすぐに顔を上げてしまう。
「じょ、冗談冗談。びっくりした?」
「あっ、なんだ。びっくりしましたよマユ。私、てっきり……」
「てっきり?」
「……本当にお腹を壊して苦しんでいるものだと」
「ごめんごめん。次にまたこういう時があったら、真面目に苦しむことにするよ」
「真面目に苦しむ……?」
理解に苦しむといった顔をするスイを見ながら、私はリュックを背負い直した。
「まだあいつがいるかもしんないし、念のため何か目くらましに使えそうな物持ってこう」
「えと……発煙筒とか、防犯ブザーとかでしょうか」
「いいね、悪くないかも。他にも何か思いついたら持てるだけ持ってこっか」
そうして私は上下を行ったり来たりして、発煙筒を何本かと、防犯ブザーを幾つか、他にも 色々見繕ってリュックに入れた。さすがにちょっと重い。
集めている途中、よく切れそうな包丁やナイフ、バールやハンマーなんかの武器になりそうな物も見かけたけど、アレ相手じゃ焼け石に水だろうし、とりあえず小さなバールだけ借りておいた。
……できれば、あの恐竜と出くわす事態は避けたいもんだけど。
「あ、そうだ」
私は、さっき使ったメモ帳にもう一言足しておいた。
「4。投球にちょっと自信あり」
「何書いてるんですかマユ」
「え? えーと……アビリティ? いや、技能? スキルのメモかな……?」
「アビリティ……?」
雑談しながら、私は階段をゆっくりと降りていく。
「うわっ、酷いねこれ」
改めて下りたホームセンターの狭いエントランスは、さっきの恐竜によってこっぴどく荒らされていた。
自転車はへし曲げられ、壁に押しつけられてぺしゃんこになっているものもある。
カウンターなんかは大破してるし、出入り口である自動扉はガラスごと木っ端微塵だ。
「ストレス溜まってたのかな」
「刺激したのはマユじゃないでしょうか……」
「それは……そうかも」
ロビーの真ん中に出て、ふむ、とお腹をさする。
ちょっとだけお腹が空いてきたような気もする。
まだ昼前なので、食べるには少し早い。それにここで食べると匂いかなんか嗅ぎつけてまたアレが戻ってくる気もするし、それは困る。
通りに出る前に、私は腕を組んでどうするか考え込んだ。黙ってたら、隣にスイの像が立ち上がって、私のことを見上げた。
「どうしたんですか? マユ」
「方針を決めようと思って。ね、スイ。私達はこれから何をしなくちゃいけない?」
「柱を目指すんじゃなかったでしたっけ」
「うん。それがおっきな目的。そこに行くまでのちっちゃい目標を決めるんだ」
「えと……情報収集とかですか?」
「情報収集。そうか、そういうのもあった。私、頭ん中ごはんのことでいっぱいだった」
スイが思い切りジトついた目で見てきたので、頬をかきながら目をそらした。
「う、うん。情報収集! 大事だよね、情報収集」
「早口言葉みたいですね、ジョーホーシューシュー」
棒読みで冷たい目を向けてくるスイ。
「と言う訳で、大きなレストラン……じやなくて、大きな本屋を探そう。ここで何があったにしても、直前までの本くらい残ってるはず! さ、行くよスイ」
「ご飯はいいんですか?」
「そ、それは着いたら考えるってば!」
それからしばらくからかわれた後、ようやく私たちは通りへと出て歩き出した。