第十三話「対峙」
見かけた階段を全力で駆け上がり、表に出た。
その瞬間、鼻先に冷たさを感じる。
濡れた髪から滴った水滴じゃない。それは拭うと――黒かった。
「うわああああぁぁぁ!!」
考える間もなく、すぐ近くから上がる悲鳴。
暗く分厚い雲が空を覆い、ぽつぽつと黒い雨が降り始めている。そして、青々と茂った木の一本に、女の子が一人。その下で追いつめられる男の子が一人と――黒い竜。
「嘘でしょ……!!」
駆ける。思わず足が先に動いてしまった。
背のリュックを探り、防犯ブザーを引き抜いて鳴らす。
けたたましい音が鳴り響き、竜の顔は即座にこちらを向いた。
「わああああぁぁぁぁ!!」
叫ぶ。気が引けるように。こちらを向くように。
案の定、こっちを向いて竜は吠えた。翻り、鈍重な動きで私の方へ向かってくる。歩幅が大きい。すぐに近づいてくる。嘘、やばい。速い――!!
「っ、やあぁ!!」
半ばヤケクソで抜き放ったナイフを振るう。
同時にトリガーを引く。赤熱した刃が向かってきた竜の鼻先を掠めた、ように見えた。
が、思いの他強烈な手応え。返ってきた感覚は、鈍く、生々しいもの。
鼻先どころか鼻の頭に易々と切り裂いた一撃に、竜は一瞬怯んで、ワンテンポ遅れてから絶叫を上げた。よろめいて竜は私から距離を取る。
「――ッ!」
思った以上の威力に私自身が呆然としてしまったが、まだ竜は戦意を失っていないらしい。焼き切られた鼻先から赤い液体を撒き散らしながら、私に向かって再び吠える。
破れかぶれのまま、竜は私へと突撃してきた。
(速い……けど、動きが……雑!)
周りが遅くなっているのか、私が追いつけているだけなのか。目で追える。全部が。
噛み付こうと迫る口は剣山のように牙が並んでいて恐ろしい。けど、避ける道筋が見えないわけじゃない。怖がっていたのが馬鹿みたいに思えてくる。
がちんと交差する大口をバックステップで回避して、大振りを外した顎の下にしゃがみこむ。
入った懐から抜け出しざまに喉元を撫で斬りにし、痛みか衝撃かで下がった竜の首に、振り上げたナイフをダメ押しで突き刺した。
ナイフの刃は首の中ほどで止まり、食い込んだまま煙を噴き上げる。引き抜くか迷う間もなく竜は地面に倒れこんだ。
「うわっ、たっ、たたた!?」
竜がそのまま暴れだしたせいで、私はナイフから手を離して距離を取らざるを得なかった。
激しく動き回る体にぶつからないよう、慌てて後ずさる。
壊れた機械の異音にも似た奇声を上げながら、芝生の上で竜はもがき苦しんでいる。その体に地面が抉られ、叩きつけられた尾に草葉が千切られて宙を舞う。
あんなの、一発でも喰らったら即アウトだ。自分に当たっていたらと思うとゾッとする。
しかし、その内にガクガクと痙攣するように震えながらも、竜はゆっくり起き上がった。
「……まだ動けるの!?」
首元から血を流しつつ、ナイフは喉に突き刺したまま、竜は憎々しげに私を睨む。
図体のせいで威圧的に見えるけど、もう瀕死じゃないのか。
「もうやめ……うわったた!? って、言葉でやめてくれるわけないよね……っ!」
ガヂン、と私が一秒前いた空間が竜の大顎に挟まれる。死にかけでも、一発貰うだけで私の方は死にかねない。上手く隙をついて武器を取り返さないと。
「――そこ、だっ!」
首が戻る瞬間、咄嗟に身を低くしてスライディングして再び懐に。
そして、中途半端に刺さったナイフを掴んだと同時にトリガーを引き、喉元から下顎を一気に斬り裂いて、顎の下から抜け出した。
「っ、わぁ!?」
断末魔の咆哮と同時に、振り返る私の頭目掛けて太い尾が飛んでくる。
かろうじて目で追える速度だったので慌てて身を引いた、遅れてやってきた尾の先端に頬を強かに張られた。
「いづッ!?」
頬を押さえてよろめく。が、張られた方と反対の目を開けた頃にはもう攻撃は止んでいた。
竜は足元でしばらく苦しげな呻きを上げながら転げ回っていた。
――が、そのうちに時間が止まったように突如静止すると、急激に力を失って動かなくなる。
そして、周囲には雨の降る音と、強く吹き荒ぶ風の音だけが残された。
「……やっ、た?」
痛む頬を押さえたまま、呆然と呟く。
間を置いて芝生に膝からくずおれて、ぼんやりと滲み出てきた安堵感に肩の力が抜けていく。 気づけば、頬を幾筋も涙が伝っていた。内心、死ぬほど怖かったらしい。
そういえば、私は怖くなると自然に泣いてしまうタイプだったことを思い出す。雨の色に黒く薄汚れつつある袖で、私は目元と頬を拭った。
「……ユ、マユ!」
「ふぇ?」
「マユ、マユ良かった。ずっと――ずっと呼んでたのに、返事してくれなくて」
「スイ」
ボーッとしたまま、ポケットから携帯を取り出した。涙目になったスイの像が液晶に浮かんだ。黒い雨のせいか、時々像が不自然にぶれている。いや、涙のせいかも。
「はは、心配してくれたんだ」
「するに決まってるじゃないですか、このばかちん!」
「えぇぇ、がんばったご主人様にかける言葉? それ」
「マユなんかばかちんで十分です! ばかちん!」
「もー、ちょっとは労わってよー」
口は回るのに、涙はボロボロと流れてくる。生き延びた安心感によるものかもしれない。気分がおかしい。笑いが出てしまう。
「あはは、はは……」
「マユ!」
「はは、はぐゅっ!?」
返事をする間もなく、頭の後ろに勢いよく飛び込んできた柔らかい感触。
「よか、良かった。無事、だった、のね。上から、悲鳴、聞こえた、から」
「ユ、ユキコ。だ、大丈夫だから。落ち着いて」
「でも、そんなに、泣いて、るじゃ、ない」
「えっと、これは、何て言うか、癖みたいなもので……すん」
そんなにつらかったわけでもないのに、涙は出てくるし、鼻も出てくるものだから物凄く撫でられる。言い訳もできない。思えば、体も震えていた。
「へ、平気だよユキコ。平気だってば」
「……」
離してくれない。参ったな、モテモテだ。
せっかくなので、甘えてみる。その胸に顔を埋めさせてもらう。良い匂いがする。しかし……目の前にある、この、これ。羨ましくなるな……。
「……ママ」
いつの間にか、木から離れた二人が、私とユキコの前に立っていた。
ユキコは私からそっと離れると、二人の子供たちに向き直る。批難するような、強い眼差しだ。
「え、えっと。ユキコ、その、そんなに怒らなくても」
「だめ。マユは、黙ってて」
おぉう、聞く耳持たず……。
私は軽く離れると、おとなしく成り行きを見守った。
「どうして、お留守番、ちゃんと、できなかったの」
「……」
「こたえて」
二人は、沈んだ顔で下を向いたままだ。
しばらくの間を置いてから、髪を二つ結びにした女の子が不安げに口を開く。
「あのね、私達ね、ママを、とられたくなかったの」
「……」
続けて、ヨウタ君よりほんの少し小さいくらいの、やんちゃそうな少年が口を開いた。
「そうだよ。そんな、そんな白いのに、ママを取られたくなかったの!」
白いの言うな。
「そう。……だから、追いかけてきたの? マユに、イタズラしてやろうって、思った?」
「……」
子供たちは、それぞれ小さく頷いた。
私が原因か。その気持ちは、何となくわかる。取られてしまいそうだと思う気持ちもわかる。 子供だから、きっと尚更そういう思いは強いはずだ。
たぶん、急に現れた私がユキコから特別に扱われている様を見て、羨ましくなってしまったんだろう。みんなきっと優しくはしてもらっていたろうけど、私はその中でもやっぱり贔屓されてるように見えてしまったんだ。きっと。
そうして私に仕返しでもしてやろうと飛び出してみたら、あの竜に襲われてしまったと。
――やっぱり、私が口を出せることじゃない。
そう思っていたら、不意に、ぱしっ、という音。痛そう。見てられなくて、私は思わず目を瞑ってしまった。その音が、更にもう一度続く。ひぃ。
「ママは、取られたり、しない、から。だから、もう、こんなこと、しちゃダメ」
ぎゅう、と二人をまとめて抱きしめるユキコ。
ユキコ、私と幾つ違うんだろう。この溢れる母性はどこから来るのだろうか。
叱る時は叱り、きちんと導いて、優しさも忘れない。私には真似できそうもない。
「もう、こんなこと、しないって。約束、できる?」
「……うん」
「よし、いい子ね」
ユキコは二人の頭を優しく撫でると、それぞれの背をそっと押して私に向き直らせた。
「マユにも、ちゃんと、謝って。お礼も、ね」
「……ごめんなさい。助けてくれてありがとう」
二人とも、素直に謝ってくれた。
「ううん。無事で良かったね、みんな。……そうだ。あのね、二人とも。私と友達になってくれないかな?」
きょとん、とする二人。
「友達になったら、私もみんなと一緒にママに甘えられるじゃない? 私もママに甘えたいな―」
「ちょ、ちょっと、マユ? 何、言って」
そう言うと、男の子の方がイタズラに笑って口を開いた。
「……しかたねーな! 白ねーちゃんもママ好きなんだもんな! ちょっとだけだぞ!」
「白言うな! へへ、これでマユはみんなのものだね、マユ?」
「うん、みんなの!」
「……ママ、好き」
二つ結びの女の子も一緒になって笑う。
「マユぅ……」
顔を赤くしてばしばし叩いてくるマユに、三人でにっこり笑って返してやった。




