act.1 はじまりの日の朝
早朝。
ベッドから起き上がると、まず最初に身だしなみを整える。
歯を磨き、髪を結わえ、学園指定の制服に身を包む。
栗色のベストに枇杷茶色のブレザーとスカート。細長い臙脂色のリボンをきつめに締める。そして最後に室内であるにもかかわらず、鍔の広いとんがり帽子をかぶる。
これが一番重要だ。
部屋の窓を開けると、冷たい空気が肺を刺し、この街を取り囲む高い外壁から朝日が顔をのぞかせようとしていた。小鳥たちはチウチウと鳴き、うすくかかった霧がこの街を薄青く、幽玄に見せる。
アパート「ろまん巣」の二階からのぞく眺めは、一日のはじまりを静かに伝えていた。
少女は机に向かって、いそいそと書き上げた手紙を小さく折りたたむと、紙に息を吹きかけた。すると、手紙はみるみる鳩型の折り紙に変形し、開けた窓から飛び立っていった。
「手紙、か。自分の魔法で飛ばすなんて用心深い」
ベッドの横っちょに寝そべっている犬があたりまえのようにしゃべり、あくびをひとつする。けれどすぐに外気の冷たさに身震いし、上げた首を元に戻した。
「そうか?そうでもないよ。わたしは結構おおざっぱさ」
窓辺から振り返って見せる少女の容姿は15・6歳の年頃で、長いプラチナブロンドの髪をサイドテールにしている。伸ばした前髪は顔の右半分を覆っているが、左半分から見える瞳はいたずら好きの子どものようである。
その姿に犬が鼻を一回鳴らして、皮肉気に少女を見る。
「魔女の国に来てから、随分となじんでいるようだ」
朝の風に少女の髪がさらさらとなびく。
「だが、そろそろ終わる。わたしもここの生活に退屈してきたところだし、ちょうど良いタイミングだろう。さあシャム、一日のはじまりだ。いつまでも寝てるな」
シャムと呼ばれた青い毛並みの大型犬は、また鼻を一回鳴らすと、まるで大儀であるかのように「よっこいしょ」と言いながら、四本足で立ち上がった。
街の方からは七の刻を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
その鐘の音を聞きながら、少女はふと半年前のことを思い出していた。
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新月の夜、発光する母なる木の花弁だけが頼りの夜闇。悠々と舞い落ちるそれらをはねのけて、暗闇の中を逃げるふたりの少女。ふたりはそれぞれ箒に乗っている。街中での箒の乗用は禁止されているが、今はそれどころではない。
背後から少女たちを追う何か。蠢くそれは、闇に紛れる色合いで、赤紫色のつるつるとした眼球をふたつ擁している。
もともと三人であった人影は、今は二人しかいない。
それは形を変えながら、ふたりに確実に近づいていた。
ふたりの間に会話はなかった。ただ、逃げることに必死だった。
なんだ、何なんだあれは……っ!
もうすでに仲間のひとりがあいつに取り込まれた。このままでは私たちも……っ。
「あぁ……っ!!」
そうこう考えていると、少女の片割れが黒い影に襲われた。後ろを振り返るとその少女がこっちを向いている。黒い影はコールタールのようにドロドロに変形し、少女に覆い被さった。体をねじる少女。
黒い影は少女の下半身を飲み込んで、さらに吸引しているようだ。
「逃げて、フェルナ……っ」
「……っ、そんなっ、エドナを置いていく訳ないでしょ!」
エドナと呼ばれた少女を助けようとするフェルナ。箒から飛び降りる。こんな時に役に立つ魔法さえ使えれば。そんな後悔が頭をよぎる。
「近づかないで」
フェルナを制止する鋭い声。その声にフェルナが動きを止める。
次の瞬間、
「ひ……っ」
エドナから短い悲鳴が漏れた。
この時フェルナが目にしたのは、エドナの体が黒い影に触れている部分から、徐々に黒く変色していく姿だった。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
「エドナ?エドナっ!?どうしたの?エドナ!!」
近づくフェルナ。
友達、エドナの体は指先まで黒くなる。
瞬間、フェルナは自分の体に何か違和感のようなものを感じた。
「……へ?」
フェルナの口から間抜けな声が出る。停止する思考。
一筋の長槍のようなもので左の肺を刺されていた。それは、黒々とした夜闇の色で、エドナと一体化しようとしている影から伸びており、生き物のように鼓動を鳴らせて脈打っている。
鉄分を含んだドロッとしたものが、口の中に溢れてきた。
それだけでなく、頭の中を何かが這いずり回るような感覚がする。脳みそを何匹ものムカデが這いずり、噛み千切てっているような感覚。自分の脳みその上から、裏から、右下から、内へ、内へ、内へ。浸食、汚染、欠如。
ずず、ぅぅぅ、ずずず、ずずぅ、ぅぅ、ずずずずぅ、ずずずぅずずぅー…………。
「……ぅおえ」
吐き気を伴いながら、どこか遠くで悲鳴が聞こえた気がした。
自分の声によく似た。友人が先ほどあげた断末魔のような叫び。
フェルナは目を見開いたまま、閉じられないでいる。
一瞬、赤紫色の眼球と目が合う。
そいつは確かにフェルナを見ていた。
そして、刺された場所から徐々に黒く――――。
新月の晩。母なる木の仄かに光る花弁だけが頼りの夜。
幾人かの少女たちが黒い影に飲み込まれてゆく。
その様を見守る第三者の瞳が冷たく残った。
その瞳は影と同じ、赤紫。
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