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fluere fluorite  作者: jorotama
第二章
4/29

渡る鳥1

 ガラガラゴロゴロとうるさい音が、いつの頃からか私の耳に聞こえてきていた。

 音と一緒に体を小刻みに揺さぶるような振動を感じる。振動は規則的なようで不規則なリズムで繰り返される。


 なんだろう、この音は。


 なんだか頭がぼんやりとして、うまく思考をまとめることが出来なかった。

 音は、遠くの空を不気味な閃光でチラチラと染める、雷の音にも似ている。

 振動は、雷が空気をびりびりと震わせるあの感じに似ていた。

 私は雷が嫌いだ。

 一番辛くて悲しいあの場面を思い出してしまうから。


 棹立つ葦毛馬……。

 忘れようとしても、忘れたいと思っても私の脳裏からあの映像が離れてくれない……。

 あの日、まだ幼かった私はお父様と一緒に、あの優しい黒い目をした葦毛に跨っていた。

 温かいお父様の腕に包まれるように鞍の前…お父様の膝の間に私は座り、美しく眼下に広がるエドーニアの森や点在する青い湖沼を眺めては、幼い言葉で父との会話を楽しんでいたのだ。

 暖かくて穏やかな春の日だった。

 だけどそんな気持ちの良い一日はゴロゴロと空気を震わせる遠雷の音を聞いて、ほどなく一変した。

 急激に吹き始めた冷たい風が黒い雲を運び、周囲はあっという間に夜を思わせる暗闇に包まれ厚い雲間から漏れる日は不気味に赤く、遠い空にチロチロと青白い稲光が閃く。


 空を……世界を引き裂き、砕き割るような恐ろしい音と衝撃が突然私達を打った。

 バリバリと轟音を立てて網膜を焼いた青い稲光……。

 間近に落ちた雷に乗っていた葦毛馬が驚き棹立ち、その拍子に私達は馬の上から振り落とされてしまった。

 暗い空を背景にして棹立つ葦毛の馬の姿を、私は私を庇うように抱き締めた父とともに道を外れ崖下へと転がり落ちながら目にしていた。


 ぐるぐると回転する世界……。

 空の色と土の匂いと、一瞬だけ見た野の花の色や形を鮮明に覚えているのに、何故だか私はその時に聞いた音を全く思い出すことが出来ない。


「フロー……」


 暗い崖下で一番最初に耳にしたのはお父様の声。

 ほんの少しの間、私は気を失っていたのだろうか。

 それとも恐怖のあまり目を閉じてしまっていたのだろうか。

 目をあけると、そこに父の姿があった。

 優美に波打っていた金色の髪が乱れて頬や額に掛かってはいるけれど、綺麗な白い左半分の顔。


「フロー……大丈夫かい?」


 囁くような、小さな声。


「お父様……」


 そう私が答えると、お父様は焦点の合わない……既に見えていなかっただろう瞳を閉じながら、安堵したような笑みを唇に浮かべて言った。


「フロー……ライト。キミが……無事で良かった」


 それが父の最後の言葉。


 稲光が暗かった周囲を一瞬だけ白く照らし、歪な形に潰れたお父様の右半分の頭部から溢れた血潮が地面に描きだした赤黒いシミを、私の目と記憶に焼きつけた。

 冷たい雨粒が私の頬に落ちる。

 あんなに暖かくて明るい気持ちの良い午後だったのに、今は世界全体が暗くてとても寒かった。

 雨粒が次々と落ちては私の体から温もりを奪ってゆく。


「お父様……」


 再び私は父を呼んだけれど、それに答える声は永遠に返されることはなかった。

 腰から左脚にかけてが痛くて動かない。

 怖くて、寒くて、悲しくて……溢れ出す涙だけがほんの数瞬熱く頬を濡らしては冷えてゆく。

 私は今も鮮明な映像とともに、あの絶望と悲しみと苦しさを忘れることが出来ずにいる。

 雷は、私にあの時の記憶をより鮮明に呼び起こさせるから、大嫌いだ……。


 なんだか左脚がとても痛む気がする……。


 ぼんやりと、私は自分が暗い中に横たわっていることに気がついていた。

 暗くて狭い空間だ。


 ここは一体どこだろうと考える間もなく、暗闇は薄明かりへと取って代わった。

 薄明かりの中に見知った顔がひとつ、心配そうな様子で私を覗き込んでいた。

 大きくて無骨な手が私へと伸ばされ、頬に触れる。

 どうやら私は涙を零していたらしい。

 暖かな手が不器用な動きで、私の頬を強張らせていた涙の跡をグイと拭ってくれた。


「……グラント……」


 よろけながら半身を起し、私は自分が大きな木箱の中に横たわっていた事に気がついた。

 蘇る夕べの記憶……。

 過去の悲しい記憶に支配されていた心が、一瞬のうちに現実へとシフトした。


「ここは、どこ?」


 見回すと薄暗い……屋内。

 だが民家ではなさそうだ。さほど規模は大きくないが、倉庫か何からしい事がわかる。

 私の入れられていた木箱の周りにも、同じ大きさの木箱がいくつも積み上げられているのが見えた。

 倉庫には鎧戸が下ろされていて外部の光はあまり入ってこないけれど、どうやら外はまだ明るい時刻のようだ。

 どれくらい私は気を失っていたのだろうか。

 半日か……それとも丸一日以上経過しているのか……。

 遠くで微かに聞こえるあの鳴き声は……海鳥?


 エドーニアから海へ行くには黄金街道を西へ……半日は下らなければ出ることはできない。

 一番近くてエルルカの小さな漁港…丸一日馬を走らせればホルタネラの大きな港町もあるが……。

 私はグラントにここがどこであるのかを尋ねようと口を開きかけけれど、真後ろから人の近づく気配を感じて言葉を飲み込んだ。


「グラント様、彼女をどうなさるおつもりですか」


 静かなで丁寧でありながら、苛立ちと微かな怒りの籠る声。

 振り向くとそこには、フード付きのマントを目深にかぶった青年の姿。

 グラントよりもわりと若そうな男性。

 そう立派な体躯ではないけれど足取りに隙がなく、薄暗い中でもマントの下、右の腰に細身の剣を下げている事が歩き方から分かった。

 傭兵や商隊の護衛上がりと言っていたグラントよりも、職業軍人に近いような硬い鋭さを漂わせた青年だ。


「どうしようかな……と考えてはいるんだけどね」


 青年の様子に全く頓着せず、グラントはのんびりと答えながら木箱の中の私に向けて手を差し伸べてきた。

 冗談じゃない。誰がこんな男の手を借りるものか。

 キッとばかりに睨みつけると、グラントは微かに肩を竦めて箱の中を指差した。

 指し示す場所を見ると、私の館にあったクッションが幾つか重ねて詰め込まれた箱の隅に、いつも使っている象牙の頭の杖が入れられている。

 杖を手に、私はなんとか木箱の中から抜け出してザラザラとホコリと砂の溜まった床の上に降り立った。

 狭い木箱の中にしばらくの間横たわっていたせいで脚や腰が痛むけれど、別段どこも怪我はしていないようだ。

 手足に力も入るし、さっきより頭もはっきりしてきた。

 ……はっきりしたところで、喜ぶべき状況に自分が置かれていない事を再度確認できるだけだけれど……。

 改めて周囲を見渡す。

 やはりさほど大きな建物ではないようだ。

 目ぼしい家具はうっすらと埃を被った机と椅子。

 あとは『私』の入っていた木箱と、同じ大きさの木箱が幾つか。

 建物の入り口は観音開きの間口の広い物が一つと、その横に小さなくぐり戸がある。

 すぐ近くに木箱を積んだ馬車の荷台が馬から外された状態で置かれていた。どうやら私はこの荷車に乗せられてここまで運ばれてきたようだ。

 あのガラガラ言う音は雷ではなく、馬車の車輪の響きだったのか……。


「悩むような事ではないでしょう。選択肢は少ない筈です」


 グラントと対峙する位置にいる私の横で、青年は歩みを止めた。

 彼が剣を抜けば私を切り捨てられる間合いだ。

 私の非力な腕と、手にした杖ではどうにもなりそうになかった。


 でも……。


「選択肢、ねぇ」


「簡単な事です。一番こちらにとって安全なのは彼女の命を絶ってしまうこと。グラント様が出来ないのでしたら、自分が処分を行いましょう。

もしくはこれ以上こちらに被害を与えられぬように、彼女の目と腕を潰してしまう。これも貴方がお厭でしたらこちらで行います。さあ、どうしますか」

 異論を挟む余地を与えぬ言い方で選択肢を提示する青年に、グラントは苦笑いを浮かべて首を振った。


「ずいぶん血なまぐさい事を言うね」

「グラント様」


 選択を迫る青年。


「……目と腕を潰してくれて構わないわ」


 突然二人の会話に割って入った私に、二対の目が向けられる。

 声は震えていなかった筈だ。

 私は杖の頭をぎゅっと握りしめながら続けた。


「どうせ私の存在と顔は既にそちらに知れているのだから、これ以降の活動は不可能でしょう? グラント……貴方が私をこうして攫ってきたこと、館の人間や翡翠亭の女将の証言から街中に知れたも同然だもの、もうエドーニアに来る事はないのよね。だったら私が貴方の似姿を描くことが出来なくなることと、これ以降そちらの……組織に対して不利な活動が出来なくなれば、私の命まで奪う必要はない筈よ」

「……夕べは死すら厭わない勢いだったけど、考えが変わったようだねフローお嬢さん」


 うっすらと笑みを浮かべてのグラントの言葉に、私は胸に激しい怒りが湧くのを覚えた。

 ヒステリックに叫びたい衝動と闘いながら、食いしばった歯の間から押し出すように言葉を続ける。


「死ぬのは怖くない。……でも、私は死ぬわけには行かないことを思い出しただけ。昨日、私を殺さないでくれたことには感謝しているけれど、貴方に馬鹿にされる謂れはないわ」


 怒りに声が震える。

 本当ならグラントにつかみかかってやりたかったけれど、私は今、命乞いをしているのだ。

 自分の立場が情けなくて腹立たしい。でも、私は死ぬわけにはゆかない。

 たとえ目を失いエドーニアを二度と見れなくとも、絵を描くことが出来なくなっても、あの時、お父様が命を賭して救ってくれたこの命を粗末にすることは絶対に出来ない……。


「馬鹿にしているなんて心外だね、フロー。俺は、自分の命を粗末にする人間をどう扱っていいのか分からない。だから苦手だと言うだけだ」

「もう二度と会うこともないのでしょうから、苦手と思っていただいても結構だわ」


 怒りを込めた目でグラントを一瞥した後私はなんとか落ち着きを取り戻し、青年の方へ向き直り再び命を奪わず、目と腕を潰してくれるようにと繰り返した。

 青年はグラントと私を交互に眺め、困惑した様子をしている。


「グラント様……」

「なぁシェイド。なかなかいい性格をしていると思うだろう、このお嬢さん?」

「グラント様、貴方は……」


 嬉しそうにすら見える表情のグラントに青年は何か言いかけたが、その言葉は戸口から聞こえるノックの音によって中断された。

 青年は素早く戸口へ向い、扉の外の人間に誰何の声を掛ける。

 やり取りをはっきり聞き取ることは出来なかったけれど、なんとはなしに緊迫した様子がそこから感じられた。


「フドルツ閉鎖地区から火急の連絡ですグラント様。……老ラズロから使者が……」


 フドルツ閉鎖地区から使者?

 国領であり、国が厳しい監査のもとで入場者を制限している場所から連絡のやり取りをすることはとても難しい事だ。ましてや、こんな諜報活動をしているような非合法な存在の人間達には不可能に近い筈なのに。

 しかも、老ラズロ。

 もしも記憶違いでないのなら、私は彼の名を耳にしたことがある。


 『フドルツ山の聖教者的紳士的協定』において、リアトーマ国とアグナダ公国とが交わしたフドルツ金鉱の採出資源折半の取り決めを、より正確に、公正に行う為に両国で設置した『監査委員』のアグナダ公国側メンバーの中に、老ラズロ……ラズロ・ボルディラマの名前があった筈。

 そんな人間から手紙?

 戸口での短いやり取りの後、顔の下半分を大きなハンカチで隠した男性が一人、建物の中に入って来た。

 がっしりとした体躯。

 疲れ果てた様子で顔色も悪いようだが、仕立ての良い立派な衣装を違和感なくしっくりと着こなしているところを見ると、どうやらある程度上流階級に属した人間に見える。

 下級貴族か、高級官僚……。


「グラント様……老ラズロが亡くなりました」

「……まさか……そんな馬鹿な」


 使者の第一声に絶句するグラント。

 彼の顔からスッと血の気が引くのが薄暗い中でも見て取れた。


「俺がほんの数日前に会った時には壮健そうに見えた。……それが、何故!?」


 面会?グラントが?老ラズロと……?


「自害なされたのです。これをグラント様へと託されました……」


 老ラズロの使者として訪れた男が、グラントへと封蝋がなされた一通の文を手渡す。

 グラントは腰に差した短剣で封を開け、険しい表情で文を読んだ。

 しばし、その場を沈黙が支配する。

 静けさの中、私は忙しく思いを巡らせていた。

 

 フドルツ山の金鉱から採出される金はリアトーマとアグナダ公国との取り決めにより、不正のないよう両国から選出され任じられる各国5名、計10名の監査委員により厳しく監査されている。

 監査委員の任期は10年。

 各監査委員は任期中に2年間、フドルツ監督省への滞在を義務として課せられている筈だ。

 リアトーマ側から1名、アグナダ公国側から一名。常時2名の監査委員がフドルツ山の現地監査にあたっている。

 老ラズロは現フドルツ詰め監査委員……。

 その老ラズロと間諜であるグラントとが知己の間柄というのは、一体どういうことなんだろう。

 老ラズロと面会したと言う言葉を信じれば、グラントはフドルツ閉鎖地区内に出入りしたと言うことだ。

 しかもほんの数日前に。

 ならばラウラの結婚式にエドーニアに来た時、グラントはフドルツ閉鎖地区内からエドーニアへ入ってきた……?

 そんなことってあるのだろうか。


「ラズロじいさん……」


 文から顔を上げたグラントは悔しそうな、悲しそうな表情で虚空を睨みつけ、頭を振った。

 そんな彼を思わしげに見守っていた青年ジェイドに、グラントは大きなため息をひとつ吐き出したあと、決然とした様子で言う。


「状況が変わった。これから俺は海を渡る。…ボルキナ国フィフリシスへは俺が直接行く事に決めた」

「……船の手配は出来ております」


 即座に答えるジェイド。


「そうか、ありがとう。レシタル、老ラズロの死はどれくらい伏せておける?」


 使者の男は首を傾げ、考えつつ答えた。


「そうですね……五日間と言うところでしょうか……」

「五日後、老ラズロの死が公になって…ボルキナ国にこれ情報が知れるまでに七日~八日間と見るべきか。ここから船でボルキナ国のフィフリシス市までこの季節なら3日だな。ぐずぐずしている時間は無さそうだ。……レシタルは俺の代わりにリアトーマ王へ書簡を届けてもらえるか?」

「はい」


 レシタルが即答する。


 リアトーマ王への書簡……?

 何が起こっていると言うのだろうか?


 必死に頭を巡らせるけれど、与えられた情報が少なすぎて私には理解出来ない。

 ボルキナはこのリアトーマ国と隣国アグナダ公国の北にあるホルツホルテ海を挟んだ向い側に位置する国だ。

 ボルキナ国のフィフリシス市と言えば、周辺の国々から文化芸術に秀でた人間が多く集まる有名な文化都市。

 美と芸術の都フィフリシス……そこに何があると言うの?


「では急いで手紙を書こう。フドルツからここまで休みも碌に取れなかっただろう……疲れているところすまないな。追ってフィフリシスで手に入れた資料をリアトーマ王へ送らせてもらうから、その点も含めおいて王に報告を頼む。ジェイド、お前にはフィフリシスへ同行してもらいたいんだが、本国へ向けても急ぎで報告してもらいたいことがある。……誰が行ける?」

「ダイダルに行ってもらいましょう。今すぐに私が呼んできます」


 踵を返して戸口へと向かいかけたジェイドだが、ふと私の存在を思い出したように足を止めた。


「グラント様、彼女は……」


 半ば呆然とことの成行きを見守っていた私は、彼の言葉にビクリと身が震えた。


「……俺に考えがある」


 グラントはそれだけ答えると、部屋の隅に置かれた机に向って素早くペンを走らせはじめた……。



2017.2.26 

誤字脱字等修正いたしました。

ご報告ありがとうございます。

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