夜来鳥3
「夜来鳥……なるほど。予想はしていたけれど、ずいぶんと珍しい鳥を飼っているようですね」
しばしの沈黙を挟んだ後に、グラントは籠の中の黒い鳥をしげしげと見つめながら口を開いた。
背後から抱え込まれるように口を塞がれ腕を掴まれた私は、ほとんど身動も取れず、目線だけを動かしてグラントの横顔を見ている。
こんな時間に私の部屋に彼がやってきたのは、私と語り合う事が目的でないことなどこの行動を見れば明らかだった。
エドーニアの街……特に翡翠亭に網を張り、不審な動きを見せる人間を見つけ出してはその姿を描きとり情報を送る。
そんな仕事をしているのだから、いつか危険な目に遭うかもしれないと覚悟はしていた。
もとより、こんな仕事でもしていなければ何の役にも立たない、この命を惜しいとは思わなかったけれど……。
私はグラントの腕を引きはなそうともがいていた体から力を抜いた。
強く口を塞がれているせいで息が殆ど出来ずに、目の前が暗くなってくる。
ぐったりとした様子の私を見て、グラントは口を塞いでいた手を離した。
巻きつくように絡まっていた腕が外され、支えを失った私は床に崩折れて苦しく息を継ぐ。
肩で息をつく私の横で、グラントは夜来鳥の脚環の文筒から素早く中身を取り出した。
中には彼が馬車で落した紙片と、先ほど私が描いたグラントの人相書き……。
グラントが自分の似姿を見て、小さく口笛を吹いた。
「これは素晴らしい出来だ」
悪びれた様子もなく言う彼を、ようやく息が整ってきた私は怒りのこもる眼で睨みつけた。
「褒められてもちっとも嬉しくないわ。……ずいぶんと……紳士的な振る舞いをしてくれるじゃない、グラント」
この状況だ。このままただで済まされるとは思わないけれど、恐怖よりも怒りが強く私の胸を支配していた。
グラントに対する怒りと、自分の愚かさに対する怒り……。
彼の休んだ部屋からは、シェムスのいる部屋を通らねばここまで来れなかった筈なのに、グラントがここまで上がってきている。
……シェムスは一体どうしたのだろう。私の浅慮のせいでもし……彼に……何かあったなら……。
屋敷を離れる私につき従い、この街でよく仕えてくれていたシェムスにもし何かあったなら、私は彼にどう詫びて良いのか分からない。
「シェムスはどうしたの……!?彼は私がしていることを知らないのに、まさか……あなた」
目の前の男がいつものように腰に下げている二本の剣に、私の視線は吸い寄せられた。
恐ろしい想像に背筋に冷たいものが流れ落ちる。
「翡翠亭からお土産に貰ったワインを彼と寝酒にいただいたんですよ。……彼の酒にはちょっと細工させてもらったんで、どうやら普段よりぐっすり眠っているようです。さきほど私がすぐ横を通った時も、気持ちよさそうに鼾をかいていました。」
……ならばシェムスは無事なのだ……。
「シェムスよりも自分の心配をするべきじゃないですか、フローお嬢さん。母屋には小間使いと年配の女中頭。庭師と馬丁は確か離れでしょうからここから叫んだところで聞こえない筈です。女中二人では私に立ち向かうことは出来ないでしょう」
普段とまるきり変わらぬ声と言葉とで話すグラント。
「ご親切にありがとう。だけど、これは私の仕事なの。彼らは何も知らず私に仕えているだけだわ。巻き込むつもりなんてないから、貴方は貴方の仕事をすればいい」
助けを求めることはおろか泣きも叫びもしない私に、グラントは不思議そうな表情をして首を傾げた。
「そう……自分の仕事……ね」
溜息ひとつ。
「君の存在のおかげで『俺の部下』が随分と大変な目に遭わされたからね。いつの間にかついた監視の目から、なんとかリアトーマ国内を逃れたのが3人。残念ながら3人とも完全に面が割れてこの国でではもう使い物にはならない。そして、運悪く捕まったのが一人……。いずれもそれなりに優秀な部下だと思っていたのに、一体なぜ監視されることになったのか不思議で俺はそれを調べにここに来たんだが……」
「ここにたどり着くまで、ずいぶんと時間がかかったようだわね」
「そうだね」
……と、グラントが口元に苦い笑いを浮かべた。
「マークされた部下の立ち寄り先を調べると、必ずこのエドーニアの翡翠亭が入っている。当初は翡翠亭の女将やマスターを疑ったけれど、まさか、君だとは俺も思わなかった」
この3年間、では彼は感じのよい商人の振りをしながらも、街の人々や翡翠亭の人達を疑いの目を持って観察していたのだ。
人当りの良い笑顔も柔らかな物腰や気さくだけど踏み込みすぎない礼節を守った態度も、全部偽りのものだったのだ。
その偽りに気が付きもせず、愚かにも心惹かれた私は……。
「私だってこの国の人間ですもの。少しでもアグナダからこの国を守る助けになるなら、出来ることくらいするわ。私は私にできることをしただけよ」
言いながら、ゆっくりと私は立ち上がった。
不自由な左足をかばいフラついたふりをして、不自然に見えないよう机に凭れかかってグラントとの間合いを測る。
机の右そでの引き出しには、父が生前狩猟の時に使っていたナイフがひと振り入っている。
このまま殺されるにしても、せめて一太刀グラントに……。
素早く引き出しを開けて私はナイフを両の手で握りしめた。
動きの悪い左足がもどかしい。
身構えもしない彼に、私は倒れこむ勢いでナイフを突き出すが、軽々とその腕ごとを捕まえられてしまう。
「思った以上に気が強いお嬢さんだ。無茶が過ぎると怪我をするからやめた方がいい。……足が悪いと言うのはどうやら嘘じゃないようだね」
「大きなお世話よ……!……貴方のような卑怯な人間に心配されたくなんてない」
吐き出す私の言葉に、グラントは悲しそうな表情で微かに首を振る。
「こんなに綺麗な土地なのに……貴方達はここを争いの場にして滅茶苦茶にするんだわ。この先、荒れ果てたエドーニアを見るくらいなら死んだ方がましよ。さっさと私を殺してしまえばいいわ……」
父が愛した土地、このエドーニアが争いに踏みにじられる事を思うと、苦しくて胸が痛んだ。
グラントに弱いところを見せたくなかったけれど、泣くまいとしても両の眼から涙の粒は盛り上がり、頬へと零れ落ちる。
「フロー……」
グラントは呟き、再び深く嘆息した。
「これから先を考えれば、君の目と似姿を描き出す能力は邪魔になる。……かと言ってご婦人を殺めるのは趣味じゃないし……どうしたものか」
グラントは眉間に皺を寄せて、本当に困った様子をしていた。
「君の目を潰し、その指をへし折るか……」
考えつつ呟いた彼の言葉を耳にした瞬間、私は初めて恐怖を覚えた。
死ぬことは怖くない。かまわない。
でも、生きながら目を失い、絵を描く事も出来ないこれからの日々を生き続けるなんて……。
あまりの恐ろしさにすぅっと血の気が失せてゆく。私が呆然としたまま見上げると、グラントの暗青色の瞳が動揺したように揺らいだ。
「……それも俺には出来そうもないな」
自嘲気味な笑いが、一瞬だけグラントの唇に現れるのを私は見た。
そして
「だったら、とりあえずこうするしかないか……」
と、小さく一人ごちる声を耳にするのとほぼ同時に、首の後ろに軽い衝撃が走る。
それで最後。
私の意識は暗闇の中に飲まれて消えていった。