fluorite5
青い月明かりの下に広がる黒い森の向こうに、遠くエドーニアの街が広がっている。
そのさらに向こう側には、森と湖沼がチロチロと青白い反射を見せていた。
考えてみれば私がグラントの似姿を描き、夜来鳥に託してこの館へ飛ばそうとしたのは、今から丁度一年くらい前の事だったのではないだろうか?
私は明かりを落とした部屋の窓辺に立ち、この屋敷の同じ屋根の下に休んでいる筈のグラントの事を想った。
本当にこれが夢じゃない現実だとの確信が持てず、今日は何度自分の頬をつねったことだろう。
明日になったら頬が赤く腫れているかもしれないけど、構わない。
夕方過ぎ、母様が部屋へやって来て私とグラントとの結婚が決まったと仰った。
「最初は変な方だと思いましたが、きちんとお話したらとても感じの良い立派な方ではないですか。緊張のあまりあのような話し方になってしまい、申し訳ないと言っていましたよ。私はいいお話だと思います。……シバル伯爵なんかよりずっとお若いし、なにしろフローティア……貴女の事を好いてくれている人ですからね」
だけど、一年前は彼、アグナダ公国から来た間諜だったんです。母様。
そして正体を知った私の口を封じるために攫っていったのよ。それも……人を木箱の中に詰めて、部屋着姿のままで。
私、彼に一太刀浴びせてやろうと、お父様のナイフで彼に突きかかったこともあるの。
グラントと一緒にいて危険な目に遭ったこともあったわ。
『amethyst rose』号船内では毒を受けたし、ユーシズではレレイスが目の前で殺されそうになった。
色々な想いや記憶…言葉がいっぱい胸に溢れて、私は唇を震わせながら
「はい」
と、それだけしか言うことが出来なかった。
なんて人生は不思議なんだろう。
一年前の私は、何も知らない馬鹿な小娘だったわ。
母様がこんなに優しく私を抱きしめてくれることがあるなんて思いもしなかったし、幸せすぎても涙は溢れるんだって……そんなことすら知らなかったの……。
翌日、私はグラントと二人でエドーニアが見渡せる小高い丘目指し、ゆっくりと馬を進ませていた。
日差しは暖かく、風が気持ちよく頬をなでる。
グラントは緑色の大きな鍔の帽子を被り、馬首を並べてゆっくり歩を進めてくれる。
私は彼の横顔をちらりと盗み見て、さっきあった一場面を思い出していた。
厩番になったシェムスのところへ馬を出す為二人で出向いた時のことだ。
彼は皮の馬具に油を塗る手を止めて立ち上がり、深々と礼をした。
きっとレレイスらと一緒に訪れている偉い貴族の人間が来たと思ったに違いない。
まあ、グラントが『バルドリー侯爵様』であることは間違いないのだけれど、馬を二頭、一つは婦人用の鞍を乗せて出すよう頼むと彼は緊張した様子でまともに顔も上げず、慌てて二頭の馬を用意してくれたのだけれど、いざグラントへ手綱を渡す段になって、まるで凍りついたかのように硬直した。
……当たり前だ。
だって、そこには一年前に自分に眠り薬入りのワインを飲ませ、私を攫っていったあの胡散臭い商人にそっくりの人間が立っていたのだから。
一瞬だけ、私はシェムスにすべてを説明したい衝動に駆られた。
だけど一体なんと言っていいのか思いつきもしない。
私は
「シェムス、こちらは私の婚約者のバルドリー卿です」
と、それだけしか彼に言うことができなかった……。
本当にシェムスには気の毒なことをしたとしか思えない。
シェムスは厩の仕事を楽しそうにしているけれど、自分がどんなことに巻き込まれたのか知らす事ができず申し訳ないのだ。
なのに、グラントと来たら尊大な顔つきで髭をひねりながら
「フローお嬢さんの婚約者です」
そう言って彼の手から手綱を受け取り、馬に乗った後で私にニヤッと片唇を上げて片目を閉じて見せるのだもの……。
私達を見送りながらも、シェムスは目を瞬かせてこちらを見つめ続けていた。
私とグラントは一本の木に馬を繋ぎ、丘の上に立って美しいエドーニアの地を見はるかす。
「向こうに見える谷でお父様は亡くなられたの」
私はグラントにその場所を指し示して言う。
なんだか……妙に気恥ずかしくて、少しぶっきらぼうな言い方になってしまったかもしれない。
少し緊張していた。
もしかしたらそれはグラントも同じ気持ちだったのだろうか。
丘に立つ二人の間にちょっとした距離感があって、手を伸ばせばいつでも触れられるのに、それが出来ないような……あえてしないような、そんな微妙な空気がある。
「……あの場所で、キミの父上はキミを守ってくれたんだな」
そちらを見つめていたグラントがそう言いながら頭に乗せていた帽子を脱ぎ、お父様へと黙祷を捧げる。
かなり長い間、彼は祈り続けてくれたと思う。
私も野辺に眠るお父様の姿を眼裏に描き、目を閉じて暫しその眠りの安らかであらんことを祈った。
私は私の命を救ってくれたお父様を……恨んでいた事もあった。
生きてゆくのが辛くて、でも命を捨てるわけにも行かず、辛くて……苦しくて……。
だけど今まで生きてきたから、私はグラントと巡り合った。
目を開けると、こちらを見つめる暗色の瞳がある。
「フロー。まだキミから直接返事を聞かせてもらっていない」
少し、緊張した声に、私の胸が震える。
「俺の妻に、なってくれるか?」
言うべき言葉は定まっていたけれど、少しの間、どうしても胸が詰まって声が出てくれない。
私は杖の柄をきつく握って、深呼吸を試みる。
「……あのね……グラント……」
言葉と一緒に涙が転がり落ちる。
本当に私はfluere tearsだ。このところいくらなんでも涙をこぼし過ぎてる。
「ひとつだけ、貴方にお願いしたいことが、あるの」
嗚咽に言葉が浚われぬよう、つかえつかえ話す言葉はまるで小さい子供のようだけど、そんなことに今は頓着していられない。
「お父様が亡くなられた時、私、その最期の姿が頭を離れなくて……ずっと、とても……辛かったの」
言いながら私は、すがるようにグラント大きな手の指先をギュッと握った。
「だから、ねえ……グラント。貴方は私より、ほんの少しでいいから長生きをして? ……私に、もういない貴方の絵を描かせないでね……」
『約束して』
との私の掠れ声の囁きは、グラントの温かい胸に吸い込まれる。
「わかった……絶対だ」
私を胸に抱きしめ、胸郭に響くしっかりとした言葉で、彼が言った。
グラントの温かい体温と彼の香り、力強い心音に包まれて、私は安心してぽろぽろと涙をこぼす。
ポケットから少しよれたハンカチを引っ張り出して私に差し出しながら、グラントが笑った。
「キミがこんな風に泣くのを見たのは、もしかすると初めてだな」
そう言えば、エドーニアで彼の正体を知って恐怖で涙したあの夜以来、グラントの前で殆どまともに涙を流した覚えが無かったことに気がついて、私は苦笑する。
「だって、貴方は安心できる相手じゃなかったんだもの」
グランドが唇を曲げて、黙ったまま赤く染まった私の鼻を摘まむ。
「……や」
笑いながらその手を離そうと上を見た私の唇を、グラントの髭が掠めた。
近い位置から暗色の瞳に射すくめられ、私は瞼を閉じて彼に身を任せる。
温かい……少し乾いた唇が私の唇の上に重なり、自然に歯の間を割って彼の舌が私の口内に滑り込む。
おずおずと伸ばした私の舌を引きこむようにグラントは巻き込み、深く口づけた。
とても自然なリズムで私達は絡み合うキスをした。
奪い取るのではなく、何かを強いるのでもなく、お互いがお互いの呼吸を知っていて測りあうようにゆったりと。
───息は吸える。
ゆっくりした口づけの筈なのに、なんだか心臓が妙にトクトクと早いリズムを刻んで、私はだんだん体から力が抜けるような気がした。
胸が苦しいような切ないような不思議な気持ちに囚われて、溺れる人間が何かにすがるように私はグラントとの口づけにすがる。
どれくらいの間、そんな甘美な時を過ごしたのだろう。
離れがたい唇を引き離した時には私は泥酔した人のようにふらふらで、彼の支えが無ければまともに立っていることすら困難だったかも知れない。
ちょっと苦しそうな熱っぽい瞳が見降ろしていた。
「……これじゃ、歯止めが利かなくなりそうだな……」
呟きつつ苦笑するグラント。
私は突然酷い羞恥心に見舞われて、耳まで赤くなる思いがした。
「貴方のそ……その変な髭、チクチクしてとても痛かったわ……! 何とかして頂戴」
彼に腰を支えてもらっていながら、その胸をグイと押して身を振り離そうともがく私。
少し濡れた髭を片手で引っ張りながら、グラントは片方の眉を上げた。
「威厳に溢れれる貴族っぽくて、なかなか良くは無いか?」
「……インチキ商人か詐欺師にしか見えなくてよ」
「まっとうな商売しかしていないのに、それは酷いな」
そう言ってグラントは笑いながら私を解放してくれた。
私はこの時だけは自分が杖にすがって歩く身である事に感謝する。
だって……脚から力が抜けて上手く歩けなくても、これなら彼に気づかれることもない。
「……そうだ、キミがユーシズの屋敷に置いてきたネックレスとイヤリングの代金の取り立てが、まだ終わっていないな」
私が馬に乗るのを手助けしてくれながら、彼が言った。
「まぁ……グラント、まだあの事、覚えていたの?」
「フロー。キミだって覚えていたんじゃないか。ダイアモンド一粒でキス一つ。まっとうな商人として厳しく取り立てさせて貰うから、覚悟しておいてくれ」
私は暖かな日差しの下で、笑いながらグラントに言う。
「そうね、せいぜい覚悟しておくことよ」
と。
レレイスら一行が出立したのが翌日の事。
彼らはゆっくりとサザリドラム王子の待つ王都へ向う。
兄様や婚礼の宴に参列するべく主要な貴族達がここに加わり、婚儀を祝う人々の華やかな列は後々までの語り草になることだろう。
王都では祝いの宴が三日三晩にわたって開催された。
レレイスの介添え役として同行しているグラントは、この婚儀に関するすべての儀式に参列してから帰途に就くことになっている。
エドーニアの屋敷に残された母様と私は、その間、なにも呑気にしていたわけではない。
だって、グラントは帰途、この屋敷に寄って私を連れてゆく事になっているのだ。
大急ぎで色々な支度を整えねばならない。
式自体は私自身が社交界に出ていないこともあり、知り合いも無く、司祭様を呼んで家族だけの参列する略式を取ることになっているけれど、それにしたって慌ただしい事この上ない。
一応私だって貴族の娘なのだから、嫁ぐともなればそれなりの身支度と言うものもある。
そういう準備もあることを兄様も母様もご存じだろうに、まったくあのインチキ商人ときたら……一体どんな方法で二人を丸めこんだのか、とても不思議だ。
持ってゆく衣装の布地選びや仮縫い、こまごまとした品物の選定に追われてくたくたになりながら、ぶつぶつと文句を言う私に母様が言う。
「幸せそうでなによりだわ、フローティア」
と。
私はそれを聞いて自分の顔をつるりと撫でた。
そんなあからさまに……顔に出ていたのかしら……?
出発の日は予想していた通りかなり慌ただしいものだったと思う。
前夜遅くに到着したグラントと、私は母様と兄様が見守る前で司祭様によって婚姻の宣誓をしていただいた。
大体において私は全く宗教の信仰を持たない人間だから、本当にこれでグラントと夫婦になったのか心許ない気持だ。
荷物は何台かの馬車に積み込んであるし、近いうちに母様と兄様はアグナダ公国のバルドリー侯爵家を訪れる約束をした。
その時に、きちんとしたお披露目をすることになっている。
慌ただしいなりに、なにもかもキチンと母様や兄様の納得ゆくように手配されている辺り、さすがだと思う。
「それでは……フローティア、体に気をつけて元気で過ごすのですよ」
ハンカチで目元を拭いながら、母様が言う。
私も少し涙目になりながら母様や兄様、そしてエドーニアの屋敷や私の見送りに出て来てくれている使用人達を見た。
ここからは見えないけれど、お父様の肖像は私のアトリエのイーゼルの上にそのまま残されている。
絵の具が乾いたら額装し、母様のお部屋にあの絵は飾られるそうだ。
シェムスがあの時と同じ、不審そうな表情でグラントの事を見ていた。
そう……グラント……彼はあのヘンテコな髭を剃り落としてくれていた。
それで綺麗に顔をあたってくれれば言うことはないのに、またいつもの不精ひげを生やしているのだもの。これではシェムスにとってはエドーニアの街外れの私の館から私を攫って行った、あの人攫いのグラント・バーリーにしか見えないではないか……。
ガラガラと、4頭立ての馬車が走り、エドーニアの屋敷と母様や兄様の姿が小さくなって見えなくなる。
私は窓から身を乗り出すようにして、屋敷や二人の姿が完全に見えなくなるまでずっと後ろを見続けた。
楽しい思い出ばかりの場所ではなかったけれど、ここはお父様が愛したエドーニアの屋敷だもの……そこから離れてゆくのはとても辛い。
とても辛いとこうして心底思えるようになるまで、ずいぶんと長い時を費やしはしたけれど……。
「これからリアトーマ国側からフドルツ閉鎖地区を通って、アグナダ公国へ入るのでしょう? フドルツ閉鎖地区って一体どんなトコロなの?」
私は向い側の席に腰かけ、外を見るともなしに眺めているグラントに聞いた。
フドルツ閉鎖地区に入る許可はリアトーマ側ではサザリドラム王子から、アグナダ公国側では大公から、直接出されているそうだ。
「森や湖沼が続くのはこのエドーニアまでで、奥に行くに従って森だけになる。さして楽しい場所ではないな」
こちらをちらっと向いてグラントが言う。
馬車はエドーニア市街地とフドルツ閉鎖地区……フドルツ山の金鉱へと続く黄金街道との分岐点にさしかかろうとしていた。
カラカラとスピードを落として、馬車の列が止まる。
なんだろう? と、不思議に思い顔を上げると、グラントが微かに目を細めて笑っていた。
「……なぁに? どうしたの?」
眉をひそめて首を傾げる私の問いに彼は答えず、窓の外に顔を出す。
そこには馬に乗ったジェイドの姿。
「まぁ。ジェイド……!」
彼がここに来ている事を知らずにいた私はとても驚いたけれど、グラントはそんなこと承知していたようだ。
「手配は出来てます。明日の朝、閉鎖地区手前で合流……それでいいんですね?」
「すまないなジェイド。それじゃあよろしく頼む」
そんな会話を交わした後、再び私達の乗る馬車が動き出す。
……一台だけ、エドーニア市街地の方角へと……。
「……え……? どういうことなの、グラント???」
驚く私の顔を面白そうに眺めてグラントが片唇を上げて笑った。
「ちょっと寄り道をしていこうと思ってね」
「寄り道?」
訝しむ私が何度彼にどこに行くのか聞いても、グラントは全く答えようとせず、ただ『すぐに分かる』とその言葉を繰り返すだけだった。
すぐに分かる……って、どういうことなの?
車窓の外には懐かしいエドーニアの市街。
決して華美な都会ではないけれど、ほっとするような雰囲気を持つ街だ。
兄様が立派に統治しているこの街が治安が良くて素敵な街だと言うことが、いろいろな場所を見てきた私には良く分かるようになった。
湖の畔に立つ高級宿湖月楼付近ならいざ知らず、立派な4頭立ての馬車はこの近辺にはあまり来ない。
ましてやまだ避暑の季節には早すぎるから人目を引くのも当然だ。
道行く人々の視線を集めながら私達の馬車は、懐かしい……とても懐かしい店の前に泊まる。
「……グラント……ここ……」
グラントに手を取られて馬車を降りる。
黒ずんだ真鍮の取っ手の大きな樫の扉。
……翡翠亭の扉が、ギィイと耳慣れた軋みを立てて内側から開かれる。
まだ日の高い時間だと言うのに、扉の内側から陽気な音楽が流れ出した。
そして、もう丸一年も顔を見ることのなかった翡翠亭の女将、エッダが私達を驚いた表情で出迎える。
「まぁま……フローお嬢さん……!」
一言叫ぶや、エッダは口をぽっかりと開けたまま声も出ないようだ。
……それもそうだ、だって私は一年前に横に立つこの男に攫われた事になっている筈なんだもの。
「アンタ……!」
数秒間絶句したまま、私と私の手を取ったグラントの姿と交互に目線を彷徨わせた末、エッダは店の奥に向ってこの店の主でもある夫を呼んだ。
エッダがこんな声で叫ぶのなんて、私は聞いたことがない。
それは店のマスターも同じだったらしく、マスターは店の奥から慌てて飛び出してきた。
彼も、グラントと私の姿を見るや
「ああっ!」
と、叫んだきり固まったようになってしまった。
私は面白そうに二人の様子を伺っているグラントの腕をぎゅっと抓る。
「……っ……てて……。いや……大変ご無沙汰していますが、お二方ともにお元気そうで何よりです」
彼の挨拶を聞いてようやく我に返ったらしいエッダが、目を瞬かせながら口を開いた。
「アンタ……バーリーさん。お前さんがその……お嬢さんを攫って逃げたって、去年街じゃ凄い噂になってたんだよ……! この一年まるきりこっちに顔も出さないし、どうなってんだい??」
「───なんと、人聞きの悪い噂ですね。驚きました。俺……いや、私はこの一年必死に商売を大きくしていただけなんですよ。見てくださいこの馬車を。こうして何とか大きな仕事をこなして、晴れてこちらのフローお嬢さんを妻に頂く許しを得ることができ、その報告に来てみれば……人攫いとはあまりに酷い噂ではないですか」
つるつるとグラントの口をつく言葉を聞きながら、私は半ば呆れ、半ば感心する。
「いや、だってね、中にゃ街の警備兵に色々聞かれた人間もあって……」
口ごもりつつ言い分けるエッダに、グラントが大袈裟な身振りで肩をすくめて首を振った。
「───それも噂に過ぎません。人の噂とはいい加減なものだ。フローお嬢さんの事だって、魔女だなんだと……」
「ええっ……魔女!?」
私がつい声を出してグラントの方を見ると、彼はこちらを見てニヤっと笑った。
「まぁお嬢さん、その話は後で。……それより、使いの者に祝いの席を予約して貰ったんだけど用意は出来てるのかな?」
「出来ていますともさ。……でもまさかグラントさんとフローお嬢さんだとは思いませんでしたよ。いやしかし、本当に立派になられてねぇ」
『まるで』貴族のような装いをしたグラントの姿に、エッダもマスターも目を見張っている。
店内に入ると、店の奥のステージでは楽士が楽しげな演奏を行っていた。
私は華やかその調べに、去年のラウラの結婚式の事を思い出す。
「グラント……これって……。」
「そう、去年はラウラの結婚式だったけど、今年は俺達の結婚式だ」
立食形式だったラウラのお式の日と違い、普通どおりにテーブルが並ぶ店内で一卓だけ綺麗に花が飾られた席は、私がいつも使っていたテーブルだ。
グラントにエスコートされてテーブルにつくと、ラウラが懐かしい顔に満面の笑みを浮かべてテーブルに注文を聞きに来てくれる。
「お嬢さんお久しぶりです。グラントさんも。お二人が結婚されたって今、聞きましたよ。おめでとうございます!」
「ああ……ありがとうラウラ。貴女もそのお腹……もしかしてお目出たなのね? まぁ……一年も経ったんだわね、本当に……!!」
驚く私にラウラはお腹が大きくなった今も相変わらず可愛らしい笑みを浮かべた。
「あの時はお嬢さんにすっかり助けていただきました。でも、今日はグラントさんのご注文の通り、シェンバル弾きもきちんと逃げずに来てますよ」
「良かったわ……自分のお祝いに自分でシェンバルを弾くんじゃ、誰が誰を祝っているのかさっぱり分からないものね。どうしましょう……今日は何が美味しいかしら?」
「お嬢さんの好きな掻きチシャが入っていますよ」
「嬉しいわ、今年はまだ食べていないの。じゃあ落とし卵とチシャをサラダにしてね。後は鶏のローストにマスタードのソース……出来れば白身の部分がいいわ。飲み物はエールをお願い」
「はい、サラダはチーズたっぷりですね? グラントさんは?」
「ああ、俺もエールに……お嬢さんと同じメニューに頬肉の煮込みを追加してくれ。それと……」
言いながらグラントは自分の懐から小さな皮袋を出してラウラの手の上に乗せた。
「これで今日の客の飲み代は全部俺から振舞わせてもらえるかな?」
「そりゃもうウチはお代さえ戴ければ。……まあ、店のお酒全部出してもこんなに戴いたんじゃお釣りをお渡ししないと!」
「じゃあ残りは子供の出産祝いに」
「これじゃ子供に絹の産着を着せなきゃならないわ! ありがとうグラントさん。お嬢さん」
大きなお腹でラウラがパタパタと厨房の方へ走って行った。
エッダが客らに今日の飲み代はグラントからの振る舞いだと宣言すると、あちこちから私達にむけてお祝いとお礼の拍手や歓声が上がった。
エールのジョッキを受け取って軽く二人でそれを打ち合わせた。
自然にグラントの顔にも私の顔にも笑みが浮かぶ。
「太っ腹ねグラントさん。随分とお商売の方が上手く行ったそうじゃない?」
半ば厭味、半ば面白がっての私の言葉。
「いや、本当にね」
グラントが私に額を寄せて声をひそめて話しだす。
「ボルキナ国では金の値が上がって、鉄の値が急落したんだよ。……俺はそうなることを知っていただろう? だから……」
私は心底呆れた想いでグラントの顔をまじまじと見つめた。
確かにあの国にフドルツ山から不正に流出していた金の流れは止まったし、それを資金に行われていた武器兵器の装備増強も行われなくなった筈だ。
「……素晴らしい商人魂に、少しだけ感動してよ」
「バルドリー卿とエドーニア領主妹君とは違う足場を作っておくと、何かと自由が利くとは思わないか?」
グラントが言う。
確かに、公式的立場よりも商人と商人に貰われたどこかの脚の悪い元貴族とでもしておいた方が動きやすいことも多いかもしれないけれど……。
どうせ、明日にならないうちに成功した商人と私の事はこの街で噂になることだろうし。
「ねえグラント、私が魔女だって噂は何処から出たの?」
並べられた料理をつまみながら私はさっきから気になっていたことを彼に尋ねた。
どこかの貴族の落とし胤だの、社交界に入れない脚の不自由な娘だのといった噂はあって当然だったけれど、いくらなんでも魔女はあんまりだ。
「キミが飼っていた夜来鳥だよ。……たしかにあの鳥は夜闇の中をあの黒い羽根で飛ぶけど、緑色の目がピカピカと光ることを君は忘れていただろう?」
「あら……」
そうだ、あの鳥の目は光るのだった……。
どうせ街の外れで民家もない場所、しかも暗い闇夜と高をくくっていたけれど、何年もの間にはあれを見た人間もいるだろう。
「鬼火が飛ぶとか、魔女が棲んでいるせいだとか。……この翡翠亭で一杯おごると、みんな結構いろいろな面白い話を聞かせてくれたよ」
魔女だ妖怪だと言われているうちはまだ良かったけれど、そんな話もグラントのような人間に聞かせると夜来鳥にたどり着いてしまうのか……。
私は溜息を飲み込んで、エッダに泡入りの赤ワインを貰った。
夜になり翡翠亭はますます賑やかになり、楽しい踊りの輪が出来ている。
祝福の歌を歌う声。
歌に合わせて足を踏みならす床の響き。
けっして高級じゃないけれど、美味しいワインと料理をグラントと二人で味わって、私は幸せな気持ちになっている。
ここでこんな気持ちで笑い合うなんて、去年のあの日に誰が想像しただろうか。
「さて、そろそろ行こう」
グラントが言いながら立ちあがり、私の手を取った。
「え? もう帰るの?」
グラントに手を引かれ店の奥…、私がまだ一度もくぐったことのない扉の前へと歩いてゆく。
ここ……。
「去年のグラント・バーリーはうっかりと宿を取り忘れて酷い目にあったからね。同じ轍は二度と踏まないように、あらかじめ部屋を用意してもらっている」
グラントが近くでお酒の杯を大量に運んでいたマスターに軽く手を上げた。
「おや、もうお休みですかい? 宴はこれからだってのに、主役がいなくなったんじゃ冴えませんよ」
「みんな酔っ払って既に誰が主役か分からないと思うよ」
そう言ってグラントが笑う。
ぐるりと場を見渡してマスターも苦笑いを浮かべた。
「違いない。まぁ……一番上等な部屋を用意してありますんで、それじゃ良い夜を」
マスターが脚で軽く蹴って扉を開けた。
この奥は確か、翡翠亭の経営する宿とつながっている筈だ。
グラントが私の事をひょいと抱き上げた。
「それじゃあフローお嬢さん、覚悟してもらおうか」
暗い廊下には青白い月明かりが差し込んでいる。
私を運ぶグラントの足取りは力強く、しっかりとしている。
覚悟も何も、いつだって私は彼から逃げることなんて出来ないではないか。
見上げた先には、グラントの顔とその向こうの青い月。
……そう言えば、去年……ラウラの結婚式の帰りの馬車で、グラントは私にどんな気持ちで口づけをしたんだろう?
その事をいつか聞いてみたいと思っていたのを私はふと思い出した。
私の事をリアトーマ国の諜報員と疑いながら、油断させるためだけにキスをしたの?
それとも、私の事、好きだからしたのかしら?
過去の口づけの意味を問おうとした私だったけれど、それは今のこの口づけの意味を知ってからでも遅くないだろう……。
そして、私はグラントだけのものになった。
そう、きっと永遠に。
「どうしたんです? 喧嘩でもしなさったんですか?」
翌日、出発の為にさっさと一人馬車に乗り込んだ私を見て、見送りに出て来てくれた女将のエッダがグラントに問いかけるのが聞こえた。
朝食の時もグラントとは碌に口をきかず、あからさまにそっぽを向いていたんだから気付かない筈はなかっただろう。
まったくいまいましい、グラントと来たらやけに元気でやにさがった表情をして。
「喧嘩をしたつもりはないんですが」
エッダにはそう言って、隣のマスターに何か小声で耳うちをしているようだけれど、一体何を話しているのかしら?
「思った以上にフローお嬢さんが初心な人なもんで、つい色々と教えて差し上げたくなったんですけど、どうやら度を越したようでして……」
反省した様子もなく言うグラントに、翡翠亭のマスターが二ヤリと笑う。
「気持ちは分からんでもないですが……エッダも今はこうですけど、昔はそりゃもう……ね。いや、しかし、これから時間はたくさんありましょうから、ゆっくりと……ですよ。グラントさん」
ああ……なにを笑っているのかしら、二人とも。
きっと碌なことをじゃないだろう…グラントのあの顔……。一体いつまでここで長話をする気だろう。
なんだか腹が立った私は、馬車の扉を内側から杖で鋭く何度か叩いた。
「いや、待たせて済まないフロー」
グラントが慌てた様子で馬車へ乗りこんで来て私に謝罪するけれど、私は答えずに押し黙ったままでいる。
「これからどちらへ行かれるんですか?」
窓の外、エッダやラウラが笑顔で問いかける。
「フドルツ山を越えてゆこうと思ってます」
笑いながらグラントは言う。
本当の事には違い無いけれど、きっと皆は冗談だと思っているに違いない。
「またお越しください」
手を振る姿がどんどんと遠ざかっていく。
馬車は街を抜け、フドルツ閉鎖地区入口で昨日別れた数台の馬車と合流し、美しいフドルツを目指して進んでゆく。
向い側の席に座っていたグラントが、私の隣に座って黙って手を握ってきた。
押し黙ったままの私の横顔を少し困ったような顔で見ている。
少しは反省しているのかもしれない。
バツの悪そうな様子で口を開いて、こんな話をしてきた。
「フロー、前にキミの父上がキミの事をフローライトと言う名で呼んだって、お嬢さんは言っていたね」
……確かに言った。
私はグラントにちらりと目線を向けた。
「あれからフローライトと言う石の事を少し調べてみたんだけれど、面白い石なんだな」
面白い、石?
私はグラントの言わんとしている事が分からずに、彼の顔をまじまじと覗き込んだ。
綺麗だけれど脆くてすぐに砕ける屑石を、どうして面白いなんて彼が言うのか分からない。
「フローライトは……宝石にはなれない『脆い石』……でしょう?」
「?……宝石と考えると脆いと言うことになるのか。でもあの石はある種の光を当てたり加熱すると、光を発するんだそうだよ。……夜来鳥の瞳のように蛍光色の光をね。それに融剤として溶鉱炉に入れられる。フローライトを融剤として鉄が溶かされるんだ。フロー。キミの父上は本当に面白い名前を君につけたんだな」
その話を聞いて、私の中に残っていた小さなわだかまりの気持ちが、ほぐれて消えてゆくような気がしていた。
『宝石になれない石』……なんて、失礼な事を思っていた自分が急にバカバカしく思えた。
お父様……。
私は眼裏にいつでも蘇るお父様の姿を思い、ほほ笑んだ。
「……少しは機嫌を直してくれたか?」
ホッとした表情で私の手の甲に自分の唇を当てるグラントに、私は唇を尖らせて文句を言った。
「その、髭、なんとかして下さらない?」
と。
「……鼻の下の髭なら、もう無いだろう?」
「不精ひげよ、グラント……」
不思議そうにしている彼の顔を見るうちに、私は恥ずかしくて顔中が真っ赤に染まるのを感じずにはいられない。
「い……痛いの。あちこち……」
髭がちくちくと刺さって、あらぬ場所までもが……。
やっと私の言わんとしていることに気づいたグラントが、笑いを堪えた表情で自分の顔をひと撫でする。
「……なるほど。善処しよう」
「そうなさってくれるなら、昨夜の事は許して上げても良くってよ。……それから、膝を貸してくださる? ……誰かさんのせいで、とても眠いの」
言外に怒りを込めて言う私に、賢明なグラントは大人しく……決して笑うことなく紳士的な態度で応じ、黙って私の頭を自分の膝の上に置いた。
目を閉じ、馬車のガラガラなる車輪の音を聞く。
いつも遠くから眺めていたフドルツ山に向けてこの馬車が走っているなんて、とても不思議だ。
グラントの大きな手が私の肩に置かれる。
温もりが触れた部分から私の体中へと沁み込んでくるようで、心地よい。
フドルツを越えて、アグナダへ入り、またあのサラ夫人に会えるのが嬉しい。
もっとシェンバルの練習をして、サラ夫人の伴奏を何曲も務められるようにならなくては。
それに、メイリー・ミーにもきっと会えるだろう。
そう言えば……花祭りの日に、彼女は噴水の前のメリスに一体何をしたのかしら……?
そんなとりとめない事を想うウチに、私はグラントの膝の上でいつしか眠りの中へと引き込まれていた。




