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私が何年ぶりかでまたお父様の最期のお顔を描こうと決意したのは、母様との間に長い事わだかまっていた気持ちのすれ違いを修正することが出来た、あの会話があったからこそだと思う。
お父様が亡くなられてから既に十余年の時が流れているけれど、未だに私の眼裏には、あの痛ましい最期のお姿が刻み込まれて消えようとしない。
でも……母様と私がそうだったように、時を経て向き合う方法を見つけ出せる事もあると、私は知った。
昔のように、ただ苦しくてその気持ちを吐き出そうと絵を描いていた自分よりも、少しは強くなれた様に思う。
私がまたお父様のお姿を描くつもりである事を話すと、母様はあまり良い顔をなさらなかったけれど、でも反対もしないでくれた。
私は魂を込めて私の瞼の裏に残る、あの時のお父様の姿をひたすらに写し取るよう描いていった。
絵を描いている時間以外は母様と他愛ないお話をしたり、何事かお役に立てることはないかと兄様の周囲をうろついて過ごす。
年齢が離れているせいか、それとも離れて暮らしていた時間が長いせいなのか、兄様と私とはなかなか接点を見つける事が出来ない。
相も変わらず私は役立たずのフローティアだけれど、いつかきっと何か出来る事を見つけ出せると信じた。
冬も厳しさを増し、年がもうすぐ明けようと言う頃、しばらくの間王都へ出かけていた兄様がエドーニア本邸へ帰り、私や母様に色々な出来事を語ってくださった。
例えば、ホルツホルテ海を挟んだ隣国、ボルキナ国の軍務責任者の一人が突然職を辞したと言う話。
それに王都で起きた第一王子サザリドラム様暗殺未遂事件の事。
「それも一度ならず、これまで数回にわたりそんな事があったと、チェド卿は申されていたよ。しかも……だ、今度の事件には貴族まで係わっていたとか」
私はその話を聞いた瞬間、アグナダ公国のユーシズでレレイスが襲われた事件を思い出してはっとした。
リアトーマの第一王子暗殺未遂…アグナダ公国の公女のレレイス殺害未遂……。
離れた国で起きた二つの事件。
……レレイスはユーシズにグラントへ寄せていた想いを置き去るために来たと言っていた。
どうして、急に?
私が来たからではないと彼女は言わなかった?
レレイスはアグナダ公国の第一公女……。サザリドラム様はこの国の第一王子……。
ボルキナ国では軍務責任者の一人が辞任……それは、もしかして長い年月をかけて画策してきた軍事作戦に失敗したせいなのではないだろうか。
例えば、リアトーマ国とアグナダ公国を戦わせ両国が疲弊したところを強襲する計画……。
「そう言う恐ろしい事件もあったが、実はお目出度い話もあるんだ。まだ公にはなっていないけれどサザリドラム様の御婚礼が来春にもあるそうですよ、母上」
兄様の話に、母様は笑顔で驚きを表わす。
「まあ……どちらの方とご結婚されるのですか?」
「それがですね……。? ……フローティア……どうした?」
顔面を蒼白にした私に気がついた兄様が、訝しげに此方を見ている。
私はその答えを恐る恐る小さな声で兄様へと尋ねる。
「まさか……そのお相手と言うのは……アグナダ公国の公女レレイス様……?」
兄様の眉が大きく上下した。
「何故それを知っているんだフローティア。もしかして……アグナダの方では、もう公になっている話なのか?」
リアトーマ国とアグナダ公国が金をめぐり互いに噛み合う事を期待していたボルキナ国にとって、完全な失敗は……リアトーマとアグナダとの関係が改善してしまうこと…。
例えば……レレイスとサザリドラム王子との政略結婚によって……。
ああ……レレイス……貴女は……。
恐らく彼女やこの国の王子を狙ったのは、フドルツ山の金鉱から不正流出していた金に関してボルキナ国から何らかの利益を得ていた人間だと思う。
彼らにとってリアトーマとアグナダ国家間の関係修復は、両国が連携をとってこの不正事件の裏を洗い出す為の下地作りとなることを知っているのだ。
後ろ暗いところのある人間が追い詰められての犯行に違いない。
「……いいえ私、全然そんなこと知らなかったわ……。ただ……レレイス様とはグラ……バルドリー卿のお屋敷でお会いしたことがあって……」
それを聞いた兄様は驚いたような感心したような表情をし、母様は
「何か御無礼な事はなかったでしょうね? それで、レレイス様と言うのはどんなお方なんです?」
……と、心配しながらも、隣国の公女に興味を示したようだ。
私は背筋を伸ばし、母様や兄様の顔をしっかりと見て
「レレイス様は今まで見たことがないくらいに美しくて……そして素晴らしい方だったわ」
そう、きっぱりと言った。
ユーシズに自分の気持ちを置き去りに来たと言ったあの時の彼女の気持ちを想うと、目の奥がちくちくと痛む。
「そう……そんなに素敵な方ならば、本当にお目出度いお話ですね」
和やかに言う母の言葉に何か思い出したかのように装って、兄様が私の方をちらりと見ながら言葉を発した。
「……お目出度い話で思いだしたけれど、ハドファリのシバル伯爵が後添えを探しているんだが……フローティア、この話をお前はどう思う?」
レレイスの事でショックを受け、冷たくなった手を固く握りしめていた私は、最初、兄様が何を言い出したのか理解出来ず、兄様と、微かに眉をひそめた母様の顔をきょとんとしたまま見つめていた。
もしかして、私がシバル伯の後添えに……と言う話なのかしら?
ようやくその事に気づいた私は、驚いてぱしぱしと激しく瞬きながら兄様のお顔を凝視した。
「あちらは歴史の古い名門で、伯爵も人柄も良いと評判の方だ。前の奥方が亡くなられてからは既に10年経つと言う。……悪い話ではないと思うんだが」
どう思うか、と再び兄様が私に問う。
私は急激に呷りだした心臓の鼓動を感じながら、冷静に考えを巡らそうとした。
ハドファリと言えば、私がアグナダ公国からこのリアトーマ国へ帰ってきた時に入港した港町ラサスを中心とした海沿いの地方だ。
……我が家よりも家の格も上だし、もしもエドーニアとハドファリとが今以上に密接な繋がりを持つことが出来れば、大きな港を持たないこのエドーニアとの間に街道を整備し、フドルツ山の麓を起点とする黄金街道との連絡を取れば円滑に物資や人間を流通させるルートを確立することもできるだろう。
また、南のアリアラ海経由での観光客をエドーニアに呼び込めるかもしれない。
確かにこれは悪い話ではなかった。
「だけどシバル伯爵と言えば、私より年かさであったと記憶していますよ。フローティアにとっては父親ほども年齢が離れているではないですか」
「ええ、そうなんですが……シバル伯爵には5人の御子息があって、みな伯爵の補佐を立派に務めておられる。これ以上子をもうける必要もないのです」
……ああ本当に、これ以上ないくらい私にとって相応しい話ではないか……。
この話を受けさえすれば、私は兄様にとっても役立たずのフローティアではなく、価値のある妹になることが出来る。
お父様が愛したこのエドーニアの発展の役にも立てるかも知れない。
断る理由など何一つとして見当たらなかった……。
何一つ……。
今は胸を掻き毟るように痛むグラントへの想いも、きっといつの日にか消えてなくなることだろう。
「本当に良いお話だと思います兄様。だけど……少しお時間をいただけるでしょうか……?」
私の中で覚悟は既に決まっていた。
けれど、ひとつこのエドーニアでやり残したことがあるのだ。
それが終わらぬ限りは、まだここを去るわけには行かない……。
私の返答を承諾と受け取った兄様は、機嫌良く頷いた。
「勿論だフローティア。別段急ぎの話なわけでもない。どちらにせよ、サザリドラム王子とレレイス公女との婚儀が済まないうちには話を進める事はないだろう」
その言葉を聞いて私は安心する。
レレイスとサザリドラム王子の結婚は春だと言う。
それまで時間がもらえるなら、私にとっては十分だった。
翌日から、私はさらに身を入れてお父様の絵に筆を入れた。
一度、部屋へ絵を見にきた母様が、青ざめた顔で私に言った。
「フローティア……貴女は今もこんな無残なお父様の姿を覚えているのですか……?」
あまりにも生々しい傷口や、乱れた髪。汚れたお顔。
確かに無残な絵だ。
子供のころに描いた時よりも、絵を描く技術やコツを得た今の方がより現実的で、恐ろしいものになっているかも知れない。
だけど、私の中に残るお父様の一番鮮明な映像が、紛うことなくこれなのだ。
母様は水色の瞳に涙を溜めて恐ろしさに震えながらも、私のやろうとしていることを理解してくださり、黙って……それを見守っていてくれた。
私はそっと、お父様の割れた額に筆を乗せる。
泥に汚れて血の気の失せた頬に命の色を入れ、苦しげに寄せられた眉根の皺を消す。
時に泣きながら、時に震えながら。
毎日、少しずつ。私は私の力でお父様の負われた傷を消してゆく。
切れた唇の傷を塞ぎ、血だまりの冷たい土の上に青々とした柔らかな草を生やす。
私がいつまでもあの恐ろしい記憶に苦しめられ続ける事を、きっとお父様は喜んではいないだろう。
だから私は、筆を進めながら、ちょっとずつ自分の記憶を塗り替えてゆくのだ……。
外の世界では吹雪があけて陽がさし、雪が溶けて小さな息吹が雪の下から芽吹きだしていた。
リアトーマとアグナダ公国との和平を一気に進めるであろうサザリドラム王子とレレイス公女との結婚式に向け、兄様は日々お忙しくお過ごしのようだ。
レレイス公女が両国の国境であるフドルツ山のふもとを、アグナダ公国側のフドルツ閉鎖地区からこちら側へと抜けて来られるのだ。
エドーニアを通る黄金街道の警備に雪解けの汚れた道路の整備。やらねばならないことは山とあることだろう。
そんな中、王都から届いた一通の手紙が更に兄様をお忙しくさせる事となる。
レレイス公女がこのエドーニアの屋敷で道中休まれる事が決まったのだと言う。
考えてみればアグナダ公国側にもこのリアトーマ側にも共通して言えることだが、フドルツ閉鎖地区内にはまともに休息できるような施設が無いのだ。
フドルツ閉鎖地区内の監査委員省寮や仮設の宿泊設備、天幕などを使って公女一行は閉鎖地区を越えねばならず、疲労の蓄積を余儀なくされる。
「三日ほどの間、レレイス公女はこの屋敷でお休みになられる」
少しだけ興奮した様子で兄様が言う。
この国の多くの貴族……それどころか、結婚相手であるサザリドラム王子よりも先んじてレレイス公女と直接接見する機会を与えられたのだ。
「公女様がお前の顔を見たいと申されていたそうだ」
兄様の言葉に私の心は重くなる。
きっとレレイスは私を叱るに違いない。
だけど……彼女なら私の気持ちを分かってくれるような気がする。もしも分かって貰えないとしても……それはそれで仕方のないことだ。
私がグラントに攫われた事によってエドーニアの街はずれの私の館から解雇されてしまったシェムスは、兄様にお願いしてエドーニアの本邸に再び雇い入れる事が出来た。
とは言え、彼は邸内の仕事から厩番へと降格されてしまった。すべて私のせいだと詫びに行くと、私の無事を心から喜んだあと、笑って自分は馬が好きだから今の仕事も楽しいと言ってくれた。
本当に彼には申し訳ないと思っている。
チタやその他の使用人たちは王都の別邸に移り、今も元気に働いているそうで私も安心している。
ある日、エドーニア市街の館の管理を任せている元女中頭のノエリが、館に届いていた手紙を私の元へと運んできた。
差出人は……私が子供の頃から世話をしてくれていた優しい老女、ベリットだった。
今ベリットは王都から少し離れた長閑な田舎町ジーラで彼女の息子夫婦とともに暮らしている。
彼女が屋敷を辞めてからずいぶんと経つのだけれど、私は毎年彼女の誕生日には、一番難しい時期に優しく……そして辛抱強く私の世話を焼いてくれた彼女に、心ばかりの贈り物を続けている。
そんな彼女から一体なんの手紙だろうと中を開けて、私は少し首を傾げた。
そこにはベリットから私の結婚を祝う言葉が綴られていたからだった。
暫し頭を巡らした後、私は事の真相に気づいて苦笑した。
そうか、グラントだわ……。
私の身元を彼が調査したことは、ユーシズで知らされていた。
なるほど、縁談話にかこつけて彼女の所に色々と聞きに行ったのか……。
半盲に近いベリットの書いた文字は読み難い箇所が幾つもあったけれど、良縁に恵まれた私へのお祝いの気持ちに満ち溢れている。
私は泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちで彼女に返事を書いた。
『親愛なるベリット、お元気でしょうか?
貴女からのお手紙、とても嬉しく拝読いたしました。
お祝いの言葉を寄せてくださってありがとう。
でもごめんなさいね。
貴女が聞いたお相手との縁談は、残念ながら破談になってしまいました。
だけど心配しないで大丈夫よ。
別のお相手だけれど、どうやら私は今年の夏に結婚することになりそうです。
とても立派な家柄で、人柄も良いと評判の方なの。
お母様もお兄様も喜んでくれていてよ。
今、私はエドーニアの街はずれの私の館から、本邸の方へ帰っているの。
貴女からのお手紙を受け取るのが遅くなって、それでお返事が遅れてしまったのだけど、きっと優しいベリットなら心配してくれているのでしょうね。
本当に心配いらないわ。
この屋敷にいると、小さい頃のことをよく思い出します。
私が寝付けない時にベリットが歌ってくれたあの子守歌が、今も耳を離れないわ。
この家から嫁ぐことがあるとはよもや思いもしなかったけれど…人生って不思議なものね。
きっと私、幸せになるから、大丈夫よ。
大好きなベリット、いつまでも元気でいてください。
またお手紙を書くわ。
いつまでも貴女の小さな フローティア 』
手紙を書き終えて私は頬の涙をぬぐった。
ベリットは優しい人だ。
この手紙の嘘に気がつくかもしれない。
便せんに涙の染みが付いていない事を確認して、封筒に入れて封蝋で留める。
私が幸せになると、彼女が信じていてくれるように祈りながら……。




