fluorite1
翌日も私は、いつものように朝の明けきらぬ時間に目を覚ました。
外はまだ、しらしらと青く明けそめたばかりで、時折遠くで早起きの小鳥がさえずる声が聞こえる他は屋敷の中は静まり返っているようだ。
身を起こすと、夕べ脱ぎ捨てたドレスが幾重にも重ねたペチコートと一緒に、床の上に絹と紗の小山を作っているのが見える。
……テティが来たら、片づけてもらわなくちゃ。
私は寝台のもう片方の端から床に降り、簡単に身支度を整えるとそっと杖をついて廊下へと出てゆく。
昨夜は遅くまでレレイス襲撃に関わった人間達の尋問に起きていた筈のグラントだけれど、きっと今朝も剣の稽古をしているだろうと思っての事だ。
あの朝以来、私はなんとなくグラントの剣術の稽古を覗き見ることを遠慮していたから、レレイスが毎日彼を見ていたかどうかは分からない……。
扉を出た瞬間、廊下の向こうになにか白っぽくぼうっとした影を見つけ、私は恐ろしさでその場に凍りついた。
……人影……?
こんな時間に、一体だれ……?
まだ青ざめた時間だ。遠く離れていてははっきりと視認するのは難しい。
「……フロー……?」
白い影が私の名を呼んだ。
……レレイスだ……。
「レレイス様……」
驚く私の前に、既にきちんと身なりを整えたレレイスが口元にほんのりと笑みを浮かべて現れた。
「また、様って呼ぶのね。夕べはやっと呼び捨てにしてくれたと思ったのに」
そう言えば、あの時はとっさに名前をそのまま叫んだわ……。
なんとなくバツの悪い思いで私はあいまいな笑みを返えす。
「随分早い時間に起きているのね。でも、助かったわ。貴女がまだ眠っていたら、申し訳ないけれど起きていただくつもりだったの」
「あの……なんでしょう?」
「陽が昇るまで……貴女に描いてもらった肖像を待ち切れなかったの」
申し訳なさそうな……でも我儘が許される事を承知しているような、ふてぶてしい可愛らしさとでも言うのだろうか?
そんな彼女の様子に、やっぱり私もついそれを許して笑ってしまう。
「もしも私が寝起きの悪い女だったらどうするお積りだったんですか、レレイス様」
私はレレイスを……ドレスの脱ぎ散らかしてある寝室側のドアではなく、隣の音楽室兼アトリエ側のドアから中へと招じ入れた。
「起きてくれるまで貴女の鼻をつまんで名前を呼びつづけるわよ?」
悪戯っぽく言った言葉は本当とも冗談ともつかない。
「……それにしても、昨夜はお怪我が無くて本当に良かったですわ」
そう言った私の……包帯の巻かれた腕をレレイスは気の毒そうな、申し訳なさそうな顔で見て、一言、ごめんなさいと詫びた。
だけど私は自分でうっかり転んでしまっただけだから、笑いながら首を振る。
「大したことありませんわ、レレイス様。……絵は、こちらです」
昨日描き上げた彼女の肖像を、私はドキドキしながらレレイスの手へと引き渡す。
考えてみれば、私はあの時のレレイスを描くことに一度の許可ももらっていないのだ。
でも……だけど…どうしても、あのレレイスの表情を描かずにはいられなかった……。
私から絵を受け取ってそれに目を落とした瞬間、レレイスがはっと息を飲む気配がした。
「フロー……貴女……いつこの私を……」
呆然としたように呟く瞳に、見るまに透明な涙の粒が盛り上がり、それは音もなくハラハラと彼女の頬を伝って絵の上に散った。
もう殆ど乾いているガッシュの上に、珠のように転がる涙の粒。
「そう……あの日、貴女は見ていたのね。……でも、これ以上ないくらい今の私に相応しい絵だわ……。ありがとう」
泣き笑いの顔を私に向けて、レレイスが言った。
「やっぱり貴女に描いてもらって良かった」
絵を自分の横に置いて、レレイスが不器用な手つきで涙に濡れた頬をぐいぐいと拭う。
なんだかその幼く子供じみた動作に、思わず手を差し伸べたくなってしまう。
「私には片づけなくてはいけないことが二つあってね、ここに来たの。ひとつは夕べ、グラントのお陰で片付いた……。それに、もう一つはフロー…貴女のお陰で思い切ることが出来たわ」
『思い切る』と言う言葉が私の胸にかかり、私は眉をひそめてレレイスを見つめた。
「それは……どういうことですか……?」
目元を赤く腫らして、彼女は笑った。
「その言葉のままよ。気づいていたでしょう、フロー。私……ずっとグラントが好きだったわ。ずっと昔から。でも、もういいの。……もう、このユーシズに……この絵の中に、その気持ちを全部置いてゆくから。貴女がここに全部描いてくれたから、私の中からグラントに恋するレレイスは消えたの」
「そんな……私が……っ」
私が……グラントの傍に来てしまったから……。
そう言いかけて、私は唇を噛んだ。
レレイスが笑顔を向けてきた。
「……例え貴女がいなくても、私にはグラントを振り向かせることは出来なかった。精一杯努力したつもりだけど、ダメだったの。だけど……ごめんなさい、ちょっとだけ私、貴女に意地悪いことをしてしまったわ。許してくださる?」
瞳に輝く涙の最後の一粒をぐいと拭って、レレイスが立ち上がりながら問いかけるのに、私は黙ったまま深く頷く事しか出来なかった。
「ありがとう、フロー。……慌ただしくて申し訳ないけれど、絵もいただいたしすぐに城へ帰るわ。うふふ……本当は私、田舎暮らしはあまり好きじゃないのよ」
そう言って背筋を伸ばし出て行ったレレイスは、目と鼻の頭を赤く染めていたけれど……とても、とても……綺麗だった。
レレイスと彼女の使用人、そして警護の人間達はその日の朝のうちに慌ただしくユーシズのバルドリー家を出立していった。
そう言えば、彼女が片付けねばならないと言った二つの事柄……。
ひとつが『グラントへの想い』だったとして、もう一つは一体なんだったのか、私は自分がいまいち分かっていなかったことに気づく。
普通に考えれば、彼女に昨日襲いかかった暴漢と言うことなのだろうけれど、いくら大公の娘だからと言って、どうして彼女は一時に三人もの人間に襲われることになったのだろうか。
しかも馬車に火を放って陽動をするなど、頭脳的である癖に、彼女を襲った人間はあまり訓練を受けた人間のようには思えなかった。
もっとよくその意味を考えたなら遠からず答えに到達したのではないかと思うけれど、その時の私は自分のなさねばならないことだけで気持が一杯で、とてもそんな余裕など持ち合わせてはいなかった……。
午後も遅い時間になっていた。
身なりを整え鏡の前に立ち、思いついてワードローブの中から、以前……私がグラントやジェイドらとともにホルツホルテ海を渡った時に、大型船レディ・ダイアモンドで婦人服商から購入した手提げバッグを引っ張り出し、中に手を入れる。
バッグの底には、あの……エドーニアでの夜にグラントを突き刺そうとしたお父様のナイフが入っていた。
私はナイフの柄を握りしめ、目を閉じた。
……お父様、どうか私に……力を貸して下さい。
執務室の扉を開けるとグラントは正面の大きなオークの机の前に腰かけ、私に笑いかけてきた。
「お邪魔じゃなかったかしら?」
「いや、丁度終わったところだ。昨夜捕まえた奴らも護送されて行ったし……これで本当にフドルツ関係で俺に出来ることは一通り終わったよ。ジェイドも夕べから徹夜で動き回って、今頃疲れ果てて眠ってるだろう」
「……フドルツ関係……? 金の流出の件に関係しているの? 昨夜の人たちが? でも、どうしてレレイスが狙われるの……?」
いくつも質問を重ねる私に、グラントが苦笑いを浮かべながら立ち上がり、私の前に立つ。
「まぁ……今この国は微妙な時期でね……色々あるんだ」
「……そうなの……。貴方ももしかして夕べから休んでいないのではない? 私、日を改めても構わなくてよ」
「キミの顔を見たら元気になった」
真っ直ぐに私の目を見て言うグラントに、私の胸は彼への愛おしさに溢れる。
私は……本当にグラントが大好きだ。
「フロー、昨日の返事を聞かせてくれ」
暗い瞳の色も、笑った時眼尻に出来る笑いじわも、硬い砂色の髪の毛も……不精ひげも……私の頬に触れる大きな手も。
彼と言う存在のすべてを、愛している。
「ねえグラント、私をエドーニアに還してくださらない?」
微笑みながら……穏やかな声で、私はその言葉を口に出せたと思う。
「私、もう二度とこの国や貴方の不利益になるような事はしないと、心から約束するわ。だから、私をエドーニアへ帰らせて」
「フロー?」
言っている意味が分からないと言いたげに彼の眉根が顰められ、私の両肩を彼の両手が掴んだ。
「キミは、俺の事を……」
「愛しているわグラント、とても。……でも私は貴方の妻にはなれないの」
肩を掴んだ手に力が入り少しだけ痛かった。
「……何故だ?」
グラントは私を睨みつけるように怖い顔で言うけれど、私は静かに……あくまでも穏やかに言葉を紡いでゆく。
「私がまだ子供の頃、お父様は私の命を助けて亡くなられたわ」
私を掴むグラントの手が離れる。
「……エドーニア前領主……リスタス卿……」
「そう……貴方、私の素性をご存じだったのね? 今となっては構わないわ。……身元を明かせば国元に迷惑がかかるかも知れないと思って黙っていたけど、貴方は私を国との交渉の道具に使うような卑怯な人じゃないもの。……今まで黙っていてごめんなさいね。お父様のお陰で私の命は救われたけれど、私はお母様や兄様からお父様を奪ってしまったわ。母様の顔からは笑顔が消えたし、兄上はまだ二十歳にもならないうちから領主の座を継がねばならずに、大変な苦労をされたのよ」
話しながら自分の声が震えだした事に気づき、私は唇を噛んで心を落ち着けようとした。
「私は、私が奪ってしまったお父様の命の分だけ、二人に報わねばいけないと心に決めて生きてきたの。私のこの体では、エドーニアの為に政略結婚の駒になることすらまともにできないもの。……だから私、エドーニアであんな仕事をしていたわ。それが今、私の存在できる理由だと思っていたから。その気持ちはね、今も変わらないの。……変わらないのよ……グラント」
私は笑った。
胸の中にはグラントを想う気持ちが溢れている。
けれど……。
「私をエドーニアに帰らせて。あの場所で、母様と兄様の為にして差し上げられることを探したいの。ここじゃ私、生きていく事が出来ないわ……」
グラントが乱暴に私の肩を掴んで、聞き分けのない子供を叱るように揺さぶった。
「馬鹿なことを言うな、フロー。俺の事が好きなら、どうして俺の傍で俺の為に生きていけないんだ!?」
「そんなずるい事、出来ないわ。……そう出来たらどんなに素敵か分からないわけじゃないけど、無理だもの……私」
頑なな私の態度にグラントは業を煮やし、私の体を大きなデスクの上に押し倒した。
「だったら、キミが帰れないようにするまでだ。フロー、俺の子供を生んで俺とその子供の為にここに残れ」
背中をデスクの天板の上に押し付けられ、床から浮いた脚の間にグラントが体を割り込ませてきた。
厚い敷物の上に手から落ちた杖が転がる音が聞こえた。
腕に通した手提げバッグが机の上に乗ったペン立てをなぎ倒し、床に落とす。
確かにグラントの子を孕めば、私にはここで生きる理由が出来ただろう。
それができたなら……私だってそうしたいと思ったに違いない。
「無理よ」
私の唇は未だ、笑みを刻み続けている。
「だって私には子供を産む能力なんて、ないんだもの」
泣いたり喚いたりするにはその事実が悲しすぎて、私は笑ったまま、はっとしたようにこちらを見るグラントの暗色の瞳を見つめ返した。
「この脚が砕けた時、強く腰を打ったわ。冷たい雨が降ってた。家の人間が私とお父様の亡骸を見つけたのは、その二日後だそうよ。でも何日経ったかなんて、私は覚えていない。だって高熱を出して、死にかけていたんですもの。それからずいぶん経って……私が15歳の時に、お医者様が言ったの。私には子供を産むことは出来ないだろうって。たぶんあの時の怪我や熱が原因だと思うわ。……本当は、貴方が私を愛してくれてると分かった時に言わなければいけなかったのに、ごめんなさい」
私はグラントと自分の体の間に挟まれていた腕を引き抜き、そっと……こちらを見たまま固まったように動かない彼の頬へと伸ばした。
「貴方の事を好きになって、私、幸せだった。……こんなに幸せなことが許されるとは思えないくらいよ。だけど、グラント、貴方は私の事を忘れた方がいい。きっとレレイスのように美しくて、健康で……素敵な人が現れる。そして貴方の子供を生んでくれるから」
「……フロー……!」
苦しげに寄せられた眉。
食いしばった歯の間から押し出すように、グラントが言葉を発する。
「俺が欲しいのは子供を生んでくれる誰かじゃない。キミなんだ、フロー……」
その言葉に、私の胸のグラントへの思いがはじけそうになる。
こんな……できそこないの私を、本当に好きでいてくれる人がいるなんて奇跡のようだ。
視界の中のグラントがゆらゆら揺れて歪む。
盛り上がった涙の滴が彼の愛おしい姿を揺らめかせている。
「ありがとう……グラント。とても嬉しいわ。だけど、ごめんなさい」
パタリと涙の大きなしずくが一粒だけ、私の頬を伝って零れおちた。
「キミを……閉じ込めてでも……」
グラントの頬に触れた手を彼が強い力で握った。
私は困ったように笑いながら、もう片方の手で手提げバッグの中を探った。目的の物はすぐに私の指先に触れる。
ギュッとその柄を掴んでバッグの中から引き出すと、私は自分の喉元に鋭利な刃先を当てた。
「そんなことしたら、私、死ぬわよ」
ナイフが喉元に食い込んだ。
お父様……どうか、私に力を貸して下さい……。
卑怯な人間になりたくなくてエドーニアに戻りたいと言いながら、私は今、何よりも卑怯な事をしようとしている。
「貴方なら私からこの刃物をもぎ取るくらい簡単だってこと、わかっているわ。でも、そしたら舌を噛むわ。それが無理なら自分で息を止めたっていい。ずるい自分を許して生きるくらいなら、死んだ方がましだもの……」
私の言葉を聞きながら、グラントの顔が蒼白になる。
きっと、彼は怒っている。激しく怒っているに違いない。
だって私は我儘過ぎるもの。
硬く握られた私の手を青い顔のグラントが放してくれた。
拳を固め、怒りに満ち満ちた瞳で私を睨みつける。
私の顔のすぐ横に、グラントは強く拳を叩きつけた。
デスクの天板が壊れるんじゃないかと言うほどの衝撃が伝わってきた。
ぎりぎりと食いしばった口から彼は一言
「勝手にすればいい」
そう言葉を吐き出す。
……私は、彼が私を許してくれることを知っていた。
自分の命を盾にすれば、絶対に彼は折れるだろうと……。
分かっていて、こんな残酷なことをやったのだ。
私はゆっくりと机の上から降りて、床に落ちた杖を拾い上げた。
後ろを向いたきりこちらを見ようとしないグラントにむけて、ぎこちなくスカートを持ち上げて礼をした。
静かに扉を開け、廊下に出て乱れた髪やドレスを整える。
微かに指先に震えが出ているけれど、不思議と涙は出てこない。
悲しすぎる時には、もしかしたら涙なんて出てこないものなのかも知れない。……ぼんやりとそう思う。
夕方近いオレンジ色がかった日差しが何事も無かったかのように廊下の大きな窓から差し込んでいた。
杖を突き、脚を引いて歩きながら私は小さく呟く。
「……ああ……サラ夫人にも……ご挨拶をしなければ……」
辛いことを後に回すと余計に自分を苦しくすると私は今日、身を持って学んでいた。
同じ轍を踏んではいけない……。
もう一度自分の身じまいを確かめると私はゆっくりとサラ夫人のいる筈の部屋へ向けて、歩いて行った。




