夜来鳥2
私が彼、グラント・バーリーと初めて出会ったのは、三年前の初夏のことだ。
エドーニアと言うこの土地は高地に位置し気候は冷涼。
青い水を湛える湖沼が点在する森林地帯の東に名峰フドルツを望む風光明媚な避暑地として、夏季にはこの国……リアトーマのみならず、広く海外からも人々が訪れている。
名峰フドルツの東側は、隣国アグナダ公国だ。
かつてこのリアトーマ国とアグナダ公国では、フドルツ山周辺の国境線を巡って激しい戦いが繰り広げられた。
フドルツ山の麓に、レグニシア大陸最大の金鉱脈が発見された事が原因だ。
金鉱を奪い合う戦いは、10年を越える長期に渡って続いた。
だが、50年前の戦いに置いて『フドルツ山の聖教者的紳士的協定』が締結され、採掘される金を正確に両国で分かち合う取り決めが交わされて以来、リアトーマ国とアグナダ公国に表立った戦いは起きてはいない。
エドーニア周辺にはこの時の戦いの名残を残す塹壕や古戦場跡なども多く、かつての戦いに野の露と消えた兵達に思いを馳せるために訪れる、歴史好きな観光客も多かった。
私がグラントと出会った湖のほとりは、50年前の最後の戦いで「聖教者的紳士的協定」の締結のきっかけを作ったアグナダ公国のバルドリー卿の猛勇を謳う詩碑の立つ場所だった。
「身のうちに黄金を抱え天より舞い降りし女神の山。夕暮れに金色に輝く秀峰フドルツ……か」
フドルツ山が落陽に照り映えて金色に染まり始める時間だった。
ひとりごちる言葉に、私は画材をしまう手を止めて背後を振り仰いだ。
馬の上、一人の背の高い男がまぶしそうに金色のフドルツから視線を動かしイーゼルにかかった私の絵を眺めていた。
黄昏時のフドルツを示すその表現は、昔から避暑客や観光客に好まれて使われる。
しばらく前から誰かが馬に乗って傍に来たことに気がついていた。
どうせ観光に訪れた人間だろうと、殆ど気に留めずにいたのだが。
無造作に束ねた肩までの髪の上に鍔広の皮帽子。腿の半ばまでの丈の上着は生地も上等で一見上品な作りだが、肩と肘に実用的な皮当てがされている。
避暑にきた貴族の装いではない。
衣服自体の仕立てや生地の質を見れば、街の富裕層の人間に見えなくも無いけれど……。
身軽に馬を降りた男の腰で、二本の剣が金属音を立てた。
市民が護身用に持つには厳つすぎる得物だろう。
「素晴しい絵ですね」
男が私の絵を見ながら、感心した様子で言った。
日に焼けた精悍な顔立ち。顔の骨格や目と髪の色を見れば、生粋のリアトーマ人かどうか心もとないかもしれない。
……もう少し北の血が入っているのだろうか?
人好きのする笑みは砕けて自然な印象を与えるが、馴れ馴れしさを感じさせずに良い印象を人に与える。
軍人かとも思ったが、軍属にありがちな鋭い硬さが彼にはない。
一体この人物はどういった人間なんだろうかと、疑問符が胸に渦巻く。
「お上手ね。でもありがとう。……エドーニアは初めていらしたのかしら?」
平静を装いつつも私は油断なく彼を観察した。
この数年ほどでリアトーマの国内……。殊に一般の人間の立ち入りを禁じた国領、フドルツ閉鎖地区に隣接するエドーニアには、隣国アグナダからの諜報員が跋扈している。
フドルツ山における聖教者的紳士的協定が締結され50年。
表面上は争いもなく平和を保ってきた両国であったのだが、10年ほど前からフドルツの金採掘量が徐々に減ってきたのだ。
豊富な富は分割してもそれなりの潤いをもたらすが、少なくなった富は分かち合うより己だけのものとしたいとの欲望は、人間という生き物の業だろうか。
現在、二つの国は一触即発の冷戦状態にあった。
レグニシア大陸の西に位置するリアトーマと東に広がるアグナダ公国との国境は、砂時計かコルセットに締め付けられた貴婦人のウエストのように括れていて、そこへフドルツ山は両国を分断する楔のように美しい威容を誇ってそそり立つ。
フドルツの南にはアリアラ海、北にはホルツホルテ海が広がるがともに険しい断崖で海までの道を阻まれる為、採掘した金は陸路を運ばれてゆく。
国領フドルツ閉鎖地区を基点とした街道は、黄金街道と呼ばれていた。
このエドーニアは風光明媚な観光都市としての顔だけではなく、一般人の立ち入りが禁止されている国領を除くと、事実上の黄金街道の起点であり、アグナダ公国との有事の際には重要な軍事拠点となる要所としての顔も持っている。
また、金細工の工芸品を作る工房も多く、金やそれら高級な加工品は、黄金街道を通過してゆく際にエドーニア領に多額の通行税を落とし、それらがこの地域一体を潤わす重要な財源となっていた。
エドーニア領主はその財を使い街道の整備をし、国領とエドーニアを分かつ大門の警備や街道の治安を守ることを徹底している。
治安が良いとは言え、運ぶものには値の張る品が多い。
金の加工品を運ぶ隊商は、護衛の人間を必ず幾人か抱えている。
この男もそういった種類の人間だろうかとも考えたのだけど、なぜ商館や工房の立ち並ぶ地区をはずれ、こんな場所にいるのかが解せない。
諜報員の類ならなおさら、街道や閉鎖区域周辺を探るならまだしも……。
「金細工を商う者にとって、このエドーニアは聖地ですから。ああ……失礼。私はグラント・バーリーと申します、お嬢さん」
帽子を取ってうやうやしく一礼をするグラントに、私はわざとらしいほど素朴に不思議そうな表情を表して見せた。
「フローと申します。……商人の方ですか? てっきり隊商の護衛の方かと思いましたけど……」
チラリと己の腰に差した剣に目線を落とすグラント。
「この成りじゃ護衛と言った方がもっともらしいんですが、これでも商人なんですよ。まあ……何年か前までは護衛もやっていましたけれど、縁あって商人へと転職しましてね」
悪びれぬ様子で笑うグラントに、私は疑問を投げかける。
「商人の方とこの辺りでお会いするのはとても珍しいんですのよ。みなさん街の工房や商館辺りでお忙しくしているでしょう? こういう場所は私のような暇人か、避暑に来られている人たちばかり……」
いささか芝居がかって肩をすくめ、ぐるりを見渡す。
日中ほど多くはないにしろ、水辺を逍遥する老夫婦や遠乗りから帰路につく優雅な姿の貴族などが、今もまだちらほらと木々の合間に見え隠れしている。
「バルドリー卿の詩碑があると聞いたもので……」
はにかんで笑いながら彼が言った。
「祖父がバルドリー卿と同じく傭兵上がりでしてね。いえ、卿のように手柄を立てて大貴族に………などと言う夢のようなことは当然ながら叶いませんでしたので、戦役の後にはずっと隊商の護衛をしていたのですけれど」
……バルドリー卿の縁の地に詣でれば、彼のような素晴しい運にあやかれるような気がしてこちらに来たのですが……と、グラントは照れたように頭をかく。
なるほど、傭兵あがりの隊商の護衛の家系ならば、軍属の生硬い雰囲気を纏わない事も納得が行く。
かつての戦いのおり、周辺の国々から渡ってきてこのリアトーマに住み着いた傭兵も多い。
異国風の顔立ちにも得心が行き、私は心の中に抱いた警戒を幾分緩めた。
もちろんこのグラント・バーリーと言う男は、私がこれまでに見たことの無いタイプの人間である事は間違い無いのだから、私は私の責任において彼を見極めなければいけない事を忘れてはいなかった。
「幸運が開けることをお祈りしますわ」
私も彼に笑顔を向け、再び画材やイーゼルの片付けを始めた。
左の足を引きずり、水ぎわの低木につないだ馬へ荷物を運ぼうと移動する私の手から、グラントは極自然な様子で荷物を取り上げ手早く馬へとくくりつけてくれた。
「あら……ありがとう」
余計な事は何も言わず、膝をついて私が馬に乗る手助けをするグラントは実に感じがよく、紳士的ですらあった。
「ご親切に報いるに足るか分からないけれど、バルドリー卿が賢王ルカノールを虜囚としたのは詩碑のあるこの湖ではなく、あちらにある小さな沼の畔だと言う話です。本当か嘘か……その時の競り合いでバルドリー卿が振るった刀の傷が残る古木というのも生えているわ。これから街の方へ下られるんでしたら私もそちらですのでご案内差し上げられるんですけど……どうなさいます?」
私が馬上から杖で指し示した方に興味深げな視線を注ぎ、急ぎ自分の馬に跨るグラント。
道すがら聞くところに寄ると、グラントは隊商の護衛時代にとある商人に師事し商売を見覚えたということだった。
彼自身は隊商を組まず、隊商に参加せず、単騎で貴族や富豪などの上流階級の人間の好む『珍しい品』を集めては商うことをしているらしい。
「ある程度以上裕福な方々の中には、大きな商家が商うモノでは満足行かない方々がけっこういるものなんです。
資本力では勿論かないませんけれど、自分だけしか持たない特別なものを……と仰る方には、お蔭様で自分のように小回りの利く人間が重宝がられています」
彼の話しぶりは丁寧で、所作にはそつが無い。
上流階級を相手に商売をしてきた人間であると考えたなら、それも当然かもしれない。
「お蔭様で」
と、へりくだりつつも誇らしげな響きを感じさせたものは、彼の自分の仕事への自信の表れだろうか?
「お話を伺っていたら、グラントさんがどんな品を扱っているのか拝見したくなったわ」
私がそう言ったのは、バルドリー卿の刀傷の言い伝えの残る古木を巡り、馬を並べて降り着いたエドーニアの街中。
人々の楽しげなざわめきに溢れた『翡翠亭』の奥まったテーブルでの事だった。
「ええ、それはもうぜひに……。ところで……お嬢さんのような……その、お上品な方が、こういう庶民的な場所に出入りされているなんて、意外ですね」
周囲の様子を眺めながらグラントが遠慮がちに言う。
それほど遅い時間ではないが、酔客もちらほら出始めた店内の雰囲気は落ち着いているとは決して言えず、出入りする人間の種類も多種多様。
いわゆる『お嬢様』が出入りするにはふさわしく無いことは、私も承知している。
「ここは料理もお酒も美味しいのよ。ね、ラウラ?」
エール酒の大きなジョッキを二つ運んでテーブルに来たラウラに、私は笑みを向けた。
「いらっしゃいませフローお嬢さん。お連れがいなさるなんて珍しいですね。いつものメニューでいいですか?今日は掻きチシャの良いのも入ってますよ」
「じゃあそれに卵とチシャのサラダもお願いしようかしら。チーズをたっぷり振ってね。グラントさんは?」
「ああ……それではお嬢さんと同じもの……あと頬肉のワイン煮込みを頼もうかな」
「ウチの料理は量が多いんですよ?」
「昼を喰い損ねたんだ。今なら牛を丸ごとだっていけそうだよ。それと、午後に部屋を頼んだんだけど、取れてるか確認してもらえるかな? 名前はグラント・バーリー」
「は~い、かしこまりました」
可愛い笑みと会釈をひとつ残しラウラが店の奥へと去ってゆくのを見送ったグラントが、私に向き直り感心したような、それともあきれたような様子で肩をすくめた。
「いや、本当にこちらのご常連なんですね。お嬢さんは」
「山の手の湖月楼は格式が高い分、肩が凝るの。それよりもグラントさんは商館の宿舎には泊まられないのね。なぜかしら?」
私は無邪気を装い、真っ直ぐにグラントの瞳を覗き込みながら問いかけた。
この街には4軒ほどの宿泊施設がある。
ひとつは国領、フドルツ閉鎖地区へ行く鉱山夫や技術者、鉱山関係者が宿泊するリアトーマ国の国営宿舎。
ここに宿泊する人間は国が事前に厳しい身元の確認を行っているので、私の出る幕はない。
次は『湖月楼』と言う上流階級を相手にする宿。
それ相当の富裕層の人間ばかりだから、調べようと思えばすぐに身元の調べがつく。
富裕な人間ばかりなだけあって、ここに宿泊する人間にはたいていの場合使用人も追従してくるが、隣接する使用人用宿舎にはエドーニア領主の目が行き届き、似姿作成の依頼がある時以外で私が出入りすることは殆ど無かった。
もう一軒が商館の宿泊所。
商人や護衛、隊商に参加する人々はここに宿泊するのが通常であり、ここに出入りする人間にもまた間諜の動きを監視する領主の目が届いていた。
そして最後の一軒が、この『翡翠亭』。
ここに泊まる人間は『湖月亭』に宿泊するほど富裕ではない。
それでもエドーニアまで観光行楽に来れるくらいには豊かな人間が集まる場所。
料理と酒の美味しさと安さから、宿泊客だけでなく酒場兼食事処として使う地元の人間も多いこの店。
今の時期にはまだ街の外からの人間は多くはなく、店内を見渡せる私のテーブルからはグラント以上に目を引く人間は見当たらないようだった。
「グラントと呼び捨てにされて結構ですよ、お嬢さん。……商館はね、ちょっといづらいんです……。私はなんというか、他の商人の方々の隙間を縫うような商いをしていますから、こちらの手の内をあまり見せたくない場合あそこはなかなか不便でして……」
「お分かりになりますか?」
と、グラントは笑った。
希少価値のある珍しい商品を専門に扱う彼にとって、どんな商品が今求められているのかを他の商人に知られるのはありがたくないと言うことか。
その辺は考えてみれば理解出来ないことも無い。
商人らしからぬ風貌に最初は警戒感を抱いたけれど、不審に思った点は聞けば説明のつくことばかりのようだ。
しかし本当に彼が商用でこの土地を訪れたのか、私は確認する必要を感じていた。
「そう……ね。なんとなくだけれど分かる気がします。それで、今回はどんなモノを目当てにいらしたのかしら……やっぱり金細工の工芸品か、それともアクセサリーの類?」
テーブルの上に並べられた料理の上、身を乗り出す私にグラントはチラリと周囲を見渡してから懐に手を入れて、ソレを取り出した。
「現品をお見せすることは出来ないのですが……お嬢さんは、これをご存知ですか?」
幾重にも重ねられた白い紙の上に、ふわふわと空気の流れに揺れる金色。
「………箔……ね、金の。それもこんなに薄いものはあまり見たことが無いわ」
顔を寄せて声を潜めるグラントに、自然と私も小声になってしまう。
「技術的には最近この国に入ってきたばかりですが、とある貴族のご令嬢がこの箔を使った楽器をお望みでして」
これまでにも金を使った楽器が無いわけではない。
金を混ぜた金属で作られたフェタや、鍵盤部分を薄い金の板で貼ったシェンバルもある
。
「今までは糸巻きの部分や、こう……音色に影響が無い部分を選んで部分的に飾るだけだった木製のウードの表面にですね、これを貼り付けたものをご所望なんですけれど……」
言葉を切って私の反応を伺うグラント。
私はぽってりと丸みを帯びたウードの背面と平坦な表面が、グルリと金色の箔に覆われているモノを想像して乗り出していた上半身を背もたれに預けた。
「……悪趣味極まりないわね……」
苦笑いを浮かべたグラントも椅子に浮かせかけていた腰を落とし、エール酒をグイと飲んだ。
「そこなんですよ」
注文を出した貴族の令嬢曰く、自分にふさわしく美々しい品物を……との注文だそうだ。
「要はデザインなんですよ。丸ごと金箔張りに仕上げる必要は無いんですから、いかに趣味良く仕上げてくれる工房か……それともそう言った意匠を頼める人間を見つけるかが私の腕なんですが。ここにはまだツテらしいツテもないので何日かかることやら……」
どうやら、この男が商いの為にこの街へやって来たと言うのは本当らしかった。
私は心の裡にそっと肩の力を抜いた。
「箔を貼る職人さん……ね。エドーニアの街のことなら、ここの女将のエッダやご主人に声をかけるといいわ。とても顔が広いの」
「そうなんですか。いや、それは助かります。それにしても発注主の気に入る良い意匠が出来ればいいけれど……」
エールを飲みつつ、不安そうな表情を残したまま食事をするグラント。
全面金箔貼りのウードには感心しないけれど、本当に……意匠しだいではなかなか魅力的なものに化けるかも知れない。
「……例えば……平らな面の半分だけに色ニスと金箔を幾何学模様に置くのも面白いかもしれないわ」
裏の丸みを帯びた面には黒ニス地に可憐で繊細なアラベスクの金模様。
それとも裏面を暗い翡翠色か深いワイン色のニス塗りにして、表の面を漆黒のニス塗りにするのもいいかも知れない。
表面を暗い色にすれば、箔を使った模様もウードを爪弾く貴婦人の白い繊手も映えることだろう。
「やり方しだいで面白いものが出来そうな気がするの」
考え出すにつけ、アイディアがほとばしるように湧き上がってくる。
グラントがそんな私の言葉を慌てて書き取り始めた。
「箔を模様に使う事は考えていませんでした。……いいですね、それは。実に面白い」
膠に着色したもので模様を置いて、上から箔を載せ余分なところは取り去り……透明なニスを重ねれば金箔の模様は安定するだろう。
ニスの透明度と色味さえ選べば、華やかな模様でも木目を生かした意匠が出来そうだ。
その上で豪華さを出したいのなら、音に影響の無い範囲で糸巻きの部分やコマに細工をするのも面白い。
貴石を象嵌した金の螺子や彫刻を施した象牙の糸巻きを使えばバリエーションも増える。
興が乗った私は、足元に置いた画材箱から紙を出してざらざらとペンを走らせ、思いついた意匠を幾通りか描き出してみた。
今までにも色や模様に工夫のあるウードを見たことはあるけれど、金の色を使えるとなると意匠の幅も広がるだろう。
「これは……凄いです、お嬢さん。これをこのまま使わせて戴いて構いませんか?」
勢いに任せて描き出した意匠を手にグラントが感嘆の声を漏らすのを聞き、私はいくら興が乗ったとは言え少しばかり出すぎた真似をしてしまったかと、気恥ずかしく思い始めた。
「……そういう案もあるって……参考程度に出来るのなら、そうしてもらっても構わないけれど……」
至極真面目な表情で、グラントは真っ直ぐに私の目を見つめ言った。
「これなら本当に素晴しいものが作れそうです。ありがとうございます。何かお礼が出来ればいいのですが……」
あながち社交辞令だけではなさそうなグラントの様子に、私の心も少しだけ和らいだ。
「だったら、お手数かもしれないけれど、私も装飾した楽器が欲しくなったのだけど請け負っていただけない?
ウードよりももう少し小さい楽器を使って作った物を炉棚に飾りたいの。もちろんお代はお支払いするわ」
私の言葉を聞いたグラントは、しばしの間を置いて破顔一笑する。
「装飾用楽器ですか、素晴しい。それなら楽器を弾かないお客さんにも受けるかもしれません。やり方次第でご注文いただいた貴族のご令嬢だけじゃなく、広く商えそうです。意匠だけじゃなく素晴しいアイディアまでいただいたお嬢さんから、お代を頂戴するわけには行きませんよ」
そう言って彼は上機嫌でエール酒のジョッキを私に掲げて見せた。
あの後、翡翠亭に暫く滞在したグラントは何度もこの館を訪れ、私の意に添うよう素晴しい仕事をしてくれた。
可愛らしい金の花模様で色どられた楽器は、今も館の炉棚に飾られている。
その後も年に何度か、グラントはこのエドーニアの街を訪れた。
立ち寄り先も工房の立ち並ぶ地区や商館の周辺が殆ど。
いつも翡翠亭に宿を取り、時折私の館に顔を出すこともあったが不審な行動をとる様子は見られなかった。
だから私は油断していたのだ。
腫れ物に触るように素性の分からぬ私と接するこの街の人々と違い、礼儀を守りつつも自然に笑いかける彼に……。
結婚式が終わり、とり散らかり閑散とした翡翠亭でグラント・バーリーが女将のエッダと話をしていた。
「相すみませんグラントさん。普段のこの季節なら部屋が満室になるなんて事は無いんですけど、今日はラウラの結婚式に親戚なんかも大勢来ましたから……。昼間ならまだどうにか部屋の用意が出来たんですけど、披露宴の間にもポツポツと埋まってしまったんですよ。どうにも予備のベッドを引っ張り出しても足りないくらいでして」
「いや、私も早い時間のうちに部屋を頼んでおけば良かったんですけど、気持ちよく一杯やっているうちに失念していましたから。しかし……まいったな……懐は痛いけど、今から湖月楼にでも向かうしかないな」
「……すみません本当に。あの……今夜だけご勘弁願えるんでしたら、その辺の床にでも転がりますか? 毛布なら用意できますけど……」
シェムスが裏から馬車をまわしてくるのを待つ間、そんな二人も会話が耳に入った。
いくら毛布があったとしても、夜はまだ寒い。
湖月楼がこんな時間に訪れた一見の客を簡単に宿泊させるとも思えないし、グラントは今日このエドーニアに着いたばかりで旅の疲れも抜けていないだろう。
固い床で一夜を明かすのかと思うと気の毒でならず、私はつい
「今夜だけでしたら、私の館にいらっしゃる?」
そう彼に声を掛けてしまった。
当然のようにシェムスは渋い顔で私を非難した。
一介の商人に過ぎない……しかも他人を館に泊めるなんてとんでもないと言うシェムスの非難は、至極もっともだ。
「私のアトリエにカウチがあるでしょう。あれを使ってもらえばいいんじゃないかと思うの。少なくともこの床に横たわるよりはよく眠れると思うわ」
「……お嬢様。貴女はご自分がうら若い女性だということをお忘れですか?」
普段は寡黙で殆ど口を利かないシェムスが、むっすりと不機嫌そうな顔で苦言を呈する。
「あら……少し忘れていたかもしれないわ……。でも、だったらシェムス、あなたはアトリエの隣の部屋に今夜は休むといいわ。二階の階段には、アトリエからあの部屋を通らなければ行けないでしょう?」
私の提案にシェムスは口の中だけでぶつぶつ言っていたが、本当のところ、シェムスもグラントをさほど嫌っているわけではないことを私は知っていた。
「エッダそういうことだから、明日からグラントさんの部屋を取っておいて下さいな。グラントさん、構わないかしら?」
事の成り行きを心配そうに見守っていたエッダは明らかにホッとした表情になり、グラントは恐縮した顔で私と……特にシェムスに申し訳なさそうに礼を言った。
「……助かります」
部屋と寝具の用意を小間使いのチタに頼む為に、私はグラントの馬を借りてシェムスを一足先に館へ向かわせた。
グラントの馬は四白流星の立派な馬で、最初は私とグラントを残して自分だけ館へ向かうことを渋っていたシェムスだったが、この綺麗な馬に機嫌を直したようで、大きな体で身軽に馬の背に跨ると月の照らす夜道を軽やかな蹄の音とともに去っていった。
私はグラントが御す一頭立ての小さな馬車に乗り、ゆっくりと夜道を進んだ。
シェムスを一足先に帰らせたのは、本当はグラントに一言礼を言いたかったからだ。
ラウラの幸せそうな姿をたっぷりと見ることが出来たのは、グラントのおかげだった。
私一人でラウラの式に出ていたなら、自分が逃げたシェンバル弾きの代役としてステージに上がるなどとは、考え付きもしなかっただろう。
彼女の幸せな門出に花を添える事が出来るなんて、想像だにしなかった幸福だった。
そしてこのエドーニアの街の中で一人浮いた存在だった私に、今夜は人々が優しい目を向けてくれた。
もちろん今夜限りのこととは思うけれど、それでもそんな瞬間があったのは彼のおかげだと思う。
「ありがとう……グラント」
御者台の広い背中に向けて、ポツリと呟く。
月の照らす道に、カラカラと鳴る車輪の音と馬のリズミカルな蹄の響き。
街外れへ向かう道には家灯かりも無く、目に入るのは明るい月と青く暗い空。
黒い木々を透かし、ところどころに月明かりに銀色に照り返る湖沼がキラキラと美しく輝く。
このままいつまでも馬車が走り続ければいいのにと、私は思った。
何も考えず、自分が何者なのかも忘れてグラントと二人、どこまでも行けたなら……。
館はこの道を曲がればすぐそこにある。
楽しい夜の余韻と、いささか過ぎたワインの酔いが見せる気の迷いだと……ほろ苦く心に笑った時、それまで黙ったまま御者台に座っていたグラントが振り向き、私の座る座部に手をかけて顔を寄せてきた。
月の影になって表情は見えない。
あたたかな唇が私の唇と重なる。
身動きすら出来ずにいた数秒の後、グラントはまた真っ直ぐに前を向いて座りなおし、馬を駆っていた。
今のは夢だろうか?
……きっとこの明るい月の見せた夢に違いない。
妙にフワフワした気持ちのままドレスの襞を意味も無く整える私の指に、小さな紙片が触れる。
さっきこちらに身を乗り出した時にグラントが落とした物かもしれない。
声を掛けようかとも思ったけれど、なんだか上手く声が出ない。
明日の朝まではグラントは館に滞在するのだし、街へ戻る時には挨拶くらいしてゆくだろうから、その時にでも渡せばいいだろう……。
そう思った私は、小さな紙片をそっと手の中に握り締めた。
あの時握り締めた紙片は今、私の目の前の机の上に乗っている。
小さな見慣れない文字が幾つも綴られたこの紙片を開いたのは何とはなしにで、決して悪意があってのことではない。
仕事上のメモかなにかだろうと思っていた紙片に刻まれていたのは、一面の小さな文字。
この国の言葉ではではないようだ。
隣国、アグナダの文字に似ているけれど何かが違う。
だけど……その言葉をどこかで見たような気がした私は、暫く文字列を見つめていた。
……そう、これはアグナダ公国の古代文字……。
それを思い出し、書棚から字引を取り出して一文字ずつ意味を書き出す。
先ほどまで胸を揺さぶっていた甘い鼓動とは違う速さで、胸がドキドキと呷る。
書き出した文字列はそのままでは全く意味を成さない言葉の羅列に見えるが、一定の法則で文字列をずらしてゆくと意味をなすようだ。
これが暗号化された文章であると分かった時には、頭の奥を揺さぶるほど激しかった心音が冷たい耳鳴りで消し去られてゆくのを感じた。
それは……フドルツ閉鎖地区の警備体制の詳細を示したものだった。
なぜ、グラントがこんなものを?
分かりきった答えを、私は私の胸に問う。
口の中がやけに苦い気がしてとても不快な気分だった。
階下に休んでいるグラントの下へ、今すぐこれが何の冗談なのかと問い詰めに行きたい衝動と私は戦った。
部屋の隅の夜来鳥の
「クー……」
と鳴く声が、そんな私を我に返らせる。
今私がするべき事はヒステリックな怒りをグラントにたたきつけることではなく、冷静に、見つけた隣国の諜報員の存在を領主へ知らせる鳥を放つ事だ……。
それが私がこの街に住む理由。
それこそが、こんな……誰の役にも立たない私が出来る、唯一の仕事だった。
そっと窓の掛け金をはずし音を立てぬよう静かに窓を開けると、流れ込む冷たい夜気が私を震わせる。
この鳥を飛ばせば、私の仕事は終わる……。
悲しさと怒りと、切なさと……虚無感が胸を締め付けて私の心を震わせたけれど、胸の中の嵐を哀れむかのように青白い月が静かに空から夜を照らしている。
鳥かごの扉に手をかけた時、背後で扉が微かに軋る音をたてながら開いた。
部屋に満ちていた冷気が、開いた扉からさっと廊下へ向けて流れる。
驚き振り返った私が声を上げるより速く、力強い腕が私の口をふさぎ、手にした夜来鳥の鳥かごを奪い去った。
見開いた私の目には、無言で私を見下ろすグラントの姿が映っていた……。
2012・9・5
誤字脱字等修正いたしました。
ご報告ありがとうございます。