踊る白鳥2
「南に半日ほど行った所に、以前のバルドリー家本邸があるんだ」
私達が起居するユーシズのバルドリー家からほど近い野原で、グラントが森と丘とが交互に続く南の方向を指さして言ったのは、彼がフドルツの公国国領から到着した三日後の午後の事だった。
あの日グラントはよっぱど疲れていたのだろう、一日中を殆ど眠って過ごした。
やっと暫くのんびり出来るとは帰宅したグラントのあの時の言ではあったが、当主と言う立場上仕事も多いようだ。
今日になってようやくまともに時間が取れた彼と私は、気ままに遠乗りを楽しんでいる。
馬に乗るのは久しぶりだ。
エドーニアの私の馬達は皆、私が脚を引きずることや杖をついて歩くことに慣れていてくれたけれど、ここの馬達は私が近づくとその足音や杖を嫌がり、大人しく私を乗せてはくれない。
グラントに抱き上げてもらうことによって今日はなんとか馬の背に乗ることが出来た。
本当馬に乗りたいと思うのなら厩番に頼めばすぐに乗せてくれたのだろうけれど、なんとなく手間を取らせるのが申し訳なく、今日まで遠くに出掛けることをせずに過ごしていたのだ。
「以前の……? と言うと、昔の建物と言うこと? ここの屋敷は移転先なの?」
「前に言ったとおり、バルドリーの家は俺の曾祖父の代に爵位を受けてからはじまったものだけど、その当時はまだ領地もさほど大きくなかったんだ。それが、この南のサイノンテスにある海辺の古城なんだ」
野原に敷いた敷物の上に横たわり、グラントは隣に座った私の膝に頭を乗せて、こちらを見上げている。
「このユーシズの屋敷もセ・セペンテスのお屋敷と同じくらい古い立派な建物だわ。ここも後からバルドリーの家の物になったのね……?」
私はグラントの方をなるべく見ないように、持ってきたクロッキー紙に遠くの丘陵で空から落ちてきた綿雲のような羊たちが草を食む様を、何色かのパステルを使って描き取ることに集中しているふりをしながら話をしていた。
「爺さんは運の強い人間だったんだろうな。ここも、セ・セペンテスの屋敷も、元々この一体を支配していた領主一族が所有していたものだ。……その一族の血族が絶えて支配者がいなくなったトコロに、爺さんはフドルツ山やらその後の戦争後でガタガタになっていた国政上で手柄を立てたり、アグナダ大公に気に入られたりして隙間に入り込んだ形になる。何しろ歴史の無い一族だ、未だに成り上がり侯爵と陰口を叩く人間も多い。……実際そのとおりだから、別に構わないんだけどね」
そう言ってグラントが屈託のない様子で笑う。
私はグラントの言った
『一族の血族が絶える』
と言う言葉を耳にした瞬間に、鳩尾の辺りにひやりと冷たいものを覚えた。
動揺した表情を見られたくなかった私はクロッキー紙で彼の視線を遮って一瞬目を瞑り、何度となく心の中に繰り返した言葉を、今一度心の中に呟く。
私は……フローライト。
宝石にはなれない。
グラントに気取られぬよう大きく息を吸い、吐き出して、揺らぐ気持ちを整える。
「運と言うのもその人の持つ力の一つだと思うわ。貴方のお祖父様や曾祖父様は、実力と運とを兼ね備えていたのね」
描き終えたクロッキー紙を傍らに置き、グラントに向けた笑みに不自然さは無かったと信じたい。
「それは俺の家系の持つ力だろう。そうじゃなかったら、キミに出会えたはずが無い」
思いがけぬほど真剣で真っ直ぐなグラントの視線に、心がたじろぎかける……。
グラントは私の手をとって自分の口元に引き寄せ、指先に唇をつけた。
「……私に出会ったところで、何も良いことなどなくってよ」
声を尖らせ、彼の手から自分の手を引き抜こうとする私。
グラントはその手を離さず強く引き、バランスを崩した私の肩から零れおちた髪にもう一方の手指を絡ませた。
「痛いわ……グラント。放して頂戴」
すぐ至近に迫る彼の瞳から目をそらそうとするのを許さず、グラントは乱暴なほどの強い力で髪を引く。
「キミは、何を怖がっているんだ?」
核心を問われ、私は言葉に詰まる。
「……エドーニアで俺に刃を向けた時、キミは死を恐れてはいなかった」
「……」
あの時の自分を思い出し、私は目を閉じて唇を噛んだ。
「俺に捕らえられた時には、目を潰されても指を折られても構わないと言ったね。あの時のキミは虚勢を張っていたわけではないだろう」
お父様が、あの日自分の命を賭して助けた私の命を、失うわけにはいかない……。
あの時の私は、心からそう思っていた。
だけど……今は……。
「何故、俺を避ける? どうして俺から逃げようとする?」
問い詰められて、いっそ今すぐに死んでしまえればいいのにと思った。
「……私が、貴方の事を好きじゃないとは、考えたことが無いの?」
声を顰めての言葉に、グラントからは短い笑いが返された。
「こっちを見て、同じ事を言ってごらん」
余裕ありげな言い種に腹が立ち、目を開けた途端に世界が反転する。
グラントにやすやすと組み敷かれ、敷物からはみ出した頭の下で、まだ青い草の香が薫った。
少し風が強くなってきたせいか、雲が急ぎ足で流れてゆくのが分かる。
「……何を笑っているのグラント! 失礼な人ね、馬鹿にしないで!」
顔を真っ赤に染めて怒り狂う私を見降ろし、グラントがこらえきれない様子で笑っているのがなんとも腹立たしく、腹立たしいのに、何故か私もつられて笑ってしまっていた。
「私の上で笑わないで、グラント! ねえ、お願いだからそこをどいて……苦しいわ」
可笑しくて、笑い過ぎて零れかけた涙をグラントが唇ですくい取る。
「……フロー、キミは俺の事が好きだろう?」
「どうしてそんな図々しいことを言えるのか、私には分からないわよ」
「強情なお嬢さんだな」
彼の唇と私の唇が重なり、私は抵抗する力を失った。
「キミは俺の事が、好きだろう? フローお嬢さん」
「……大嫌いだわ……」
グラントが目を細めて笑う。
「俺以上、キミのような困ったお嬢さんにふさわしい相手はないと思わないか?」
ついばむような口づけに頬や耳元をくすぐられ、囚われて、自分の逃げ場が無い恐ろしさとその甘美さに私は震えた。
「私が……貴方に相応しい人間だとは思えない……」
「何故?」
「グラント……貴方は自分の立場と言うものを考えるべきだわ。貴方は誰なの? この国の大貴族じゃないの?
私はリアトーマ国の人間よ。フドルツ山金鉱の問題は一時的に解決を見たかも知れないけれど、だからと言って両国の関係が改善されたわけじゃないわ。しかも私は、貴方や……この国の邪魔をしていたような女なの」
「それが何の問題になると言うんだ。キミは今現在、俺や国の不利になるような事をしているわけじゃないだろう。むしろ俺がここでキミを妻にしてしまえば、これ以上なにか悪事を働かないように見張っていられるじゃないか」
私はその言葉が出てしまったことで、息がつまるような気持ちになる。
……妻。
「素性の知れない女が、バルドリー卿の妻なんてありえなくてよ……」
大きな雲が日差しを遮り、明るかった戸外を薄暗い影が覆った。
力なく呟く私をグラントはどう思ったのか分からない。
ただ、暗色の瞳で私を見つめるとふっと息をついて私を拘束するのをやめ、私が起き上がるのを助けてくれた。
「キミの素性はなんの障害にもならないさ。少なくとも、バルドリーの家ではね」
意味ありげな言葉に私は首を傾げる。
「俺の父親、先代のバルドリー侯爵の話をしたことはなかったね」
「聞いていないわ。でも……今はそんなこと───」
「セ・セペンテスの別邸にもこのユーシズの屋敷にも、たくさんの楽器の置かれた音楽室があることをキミも知っているだろう。それが先代のバルドリー侯爵の使っていたものだと言うことも」
私の言葉を遮って強引に話始めたグラントに、私は少しだけ腹を立てつつも、首肯した。
それはセ・セペンテスでも、このユーシズでも私が私室として使わせてもらっている部屋だったからだ。
「バルドリーの直系は俺の母親で、先代は婿養子として迎えられた人間だけど貴族の出身じゃなかったんだ。彼は元々、母上の音楽教師として雇われた人間だよ」
私はその話にすっかり驚いて、グラントの悪戯めいた表情を浮かべる瞳をまじまじと見つめてしまう。
「……侯爵家に……音楽教師……?」
そんな家の格式と因習を無視した話、聞いたことが無い。
「正確には音楽教師として雇い入れた『吟遊詩人』だ。子供のころに師匠の詩人に引き取られて、以来あちこちの国を渡り歩いたせいで、自分がどこの国で生まれたのかすら覚えていないと、父は言っていた」
「そ……そんな……!」
私は愕然とした思いで、ただ、グラントの顔を見ていたと思う。
貴族の子女は貴族の家に嫁ぐ。貴族の家では貴族の娘を貰う。
それがリアトーマでは当たり前のことだ。
たぶんアグナダでもその常識に変わりはないだろう。
「どうして……それが許されたの……貴方のお祖父さまは……なぜ……」
さっと強い風が吹き抜けて私の髪を大きくなびかせた。
「どうして母上を許したか? ……許すも何も……」
クツクツとグラントが笑った。
「母上は爺さんにこう言ったんだ。父との子供が出来たから、今すぐに彼をどこかの貴族の養子にして自分と結婚させなさい。そうしないと、二度とバルドリーの家には近寄らないぞ……とね」
「サラ夫人が……そんなことを」
「……なんと破廉恥なことをしてくれたんだと怒った爺さんに母上は、『お父様が母様を手に入れる為にしたことと同じことをしたまでだ』と反論してね。身に覚えのあった爺さんは、大人しく母上の言うことを聞いたそうだ」
あんぐりと口を開けて聞いていた私の耳元に唇を寄せて、グラントは
「キミに逃げられないように、同じ手を使うというのもいいかもしれない」
などと、とんでもないことを言い出し、私は思わず後ずさりして身を固くした。
そんな私の姿を面白そうに笑いながら、グラントが周囲を見渡しこちらに手を差し出した。
「そう言う下品な一族には誰も口出しする人間はいないし、気にする者もない。それを言いたかっただけだ。……雲と風が出てきたようだ。そろそろ屋敷に戻った方が良さそうだな……」
確かに空は暗色に染まり、時折強い風が吹き付けて来ている。雨が降るのかも知れなかった。
本当は彼に言わなければいけないことが私にはあった。
だけど、意気地のない私には、それを口に出すことが……できずにいる。
「初めまして、私はレレイス。貴女が『フロー』さんね?」
帰りつく前から、屋敷に何者かが訪れているだろうことは分かっていた。
多頭牽きの大きな馬車が数台、華やかに玄関前を埋めているのは門扉を入った辺りで既に目に入っていたからだ。
サラ夫人やジェイドが屋敷に到着したにしてはなんだか賑やかすぎる様子が気になった私は、馬上からグラントにそれを尋ねたけれど、彼はただ
「友人が来ることになっていたんだ」
とだけ、私に言う。
レレイスと名乗る彼女は、これ以上ないほど豪奢な金の髪に深みのある青い瞳の……見たことが無い程美しくて愛らしい女性だった。
年齢は私より少し上かも知れない。
細い首……やたおやかな体の線が引き立つ洗練されたシルエットのドレスを身にまとい、優雅に一礼をする姿を見ただけで、彼女が高貴な生まれの人間であることが分かる。
物腰、気品、身にまとう雰囲気のどれ一つとっても、彼女がこの国の社交界の中心的人物であることは明らかだ。
私は……急に自分の吹きさらされて乱れた髪の毛や、乗馬用の簡素な出で立ちが恥ずかしくなり気遅れてしまった。
顔を伏せてグラントの陰に隠れてしまい衝動と闘いながら、私は杖を突き左脚を引きずったぎこちない礼を返すけれど、その姿はお世辞にも優雅とは言い難いものだったに違いない。
何とか俯いて顔を伏せずにいられたのは、偏に私の意地に過ぎない。
「……今日はなんだか……一段と美しい姿をしているねレレイス。そう、彼女がフローだ。……フロー、こちらはアグナダ大公の第一公女レレイス。俺の───友人だ」
私は内心の動揺を表わさないよう、相当の精神力を消耗しなければいけなかった。
この国の公女様が、どうしてグラントの……?
……ああ、そうだわ、彼の家柄からすれば、大公家と親交があっても確かにおかしくは無い。
だけど、どうして彼女が私の名を知っているのかしら……?
グラントが、彼女に何か話したと言うこと?
どうして彼女のような方が来る事を、グラントは私に教えてくれなかったんだろう。
そうしたら、もう少しきちんとした身なりでいられたのに。
脳内に大量に飛ぶ疑問符を今、グラントにぶつけるような無様な真似は出来ない。
それに、おどおどとした姿を彼女の前に晒すのは耐えがたかった。
「宜しく、フローさん……いえ、フローと呼ばせていただいて宜しいかしら?」
レレイスが白い手を私に差し出した。
細くて華奢な美しい手だ。
「はい……構いません、どうぞそうなさって下さい。……レレイス様」
私は泣きたい気持ちで彼女の綺麗な手を、パステルの汚れが指に残った手で握り返す。
「貴女も私の事はレレイスと呼び捨てていただきたいわ。暫くの間、こちらに滞在させていただくことになると思うの。貴女とは仲良くなりたいのよ。だから、ね。お願い、フロー」
外は日が陰り空も暗くなったと言うのに、彼女の周りからはまばゆく光が溢れ出しているような気がする。
私はざわざわとざわめく胸の裡を押し隠し、なんとか微笑み、彼女へ向けて頷いた。
「キミがこんなに早くここに来るとは思わなかった。連絡をくれると思っていたんだが……」
少し不機嫌そうに言うグラントに、レレイスは愛らしい笑みを浮かべたままに首をすくめた。
「ごめんなさい。本当はサラ夫人と一緒に明日到着する筈だったんだけれど。でもグラント、貴方にお願いがあるとあの時に私が言ったこと、もう忘れたの?」
一瞬グラントは眉間にしわを寄せレレイスの背に手を回すと、私から離れた階段の下の方へ彼女を連れて行き、何やら小声で話を始めた。
私は一人で取り残され、馬鹿みたいに立ち尽くすしかなかった。
部屋へ戻るには階段を上らねばならず、向こうへ行けばどうやら……私には聞かせたくない話があるらしいグラントとレレイスの会話が耳に入ってしまうだろう。
『友人』とグラントは言ったけれど、遠くから見る二人は親密そうで、優美な立ち姿のレレイスと男性的で精悍な顔立ちのグラントとはお似合いの恋人同士のようにも見えた。
胃の辺りに嫌な気持ちがわだかまる。
二人から目をそらし窓の外を見ると、大きな雨粒が暗くなった空からぽつぽつと落ちてきていた。
2012・9・17
ご指摘いただきました誤字、脱字・誤変換等修正いたしました。




