fluere-tears fluorite 3
地方に領地を持つ大きな貴族が王への伺候の際の滞在用に、王都近くに邸宅を構える事はリアトーマでは当たり前の事である。
それは恐らくこのアグナダ公国でも同じなのではないだろうか。
領地の館や城を形式的に本邸や本城と呼んではいるけれど、人によっては領地の本邸へいるよりも、別邸への滞在の方が遥かに長い場合も多い。
大貴族であれば本邸の他にいくつもの別邸を持っているのも珍しい話ではない。
王都から近しい場所であるバルドリー侯爵家のセ・セペンテスにあるこの邸宅は、たぶん立地的に言って王への伺候用の別邸だと思われる。
建物の規模も大きく、多少古めかしい造りではあるけれど格式の高い立派な建築物だ。
「古くて立派な建物だわ……」
後年建て増しや修復を繰り返していることを伺わせる建築様式の不一致さは、異様さやいびつさもあるけれど、ある意味古い建物に独特の風格を与えるように私は思う。
基礎部分の石組は今はあまり見かけない古い形で残り、新しいだけの建物では醸しがたい威厳を備えていた。
「手直しはしたけど、ウチが建てたものじゃない。……バルドリーの家は歴史が浅いからね」
体を起して建物を眺め感心している私に、グラントが少し笑ってそう言った。
「キミも知っているだろう? 俺のジイさんは傭兵の出身だってこと」
「……傭兵から手柄を立てて立身出世した……伝説の人物だわ」
「伝説ねぇ……」
グラントが不精ひげに覆われた顎の辺りをさすりながら、ニヤりと笑った。
「むやみやたらと元気で、声のデカイ爺さんだったけどな。……それに、この家が一代でここまでなったと思ってる人間も多いが、本当は爺さんの父親……俺にとってひい爺さんの代には傭兵から爵位持ちになっていたんだ。だから爺さんが傭兵だったのは、ごく若い頃だけの話だ」
「そう……だったの?知らなかったわ……」
カラカラと馬車は広い前庭を進んで行く。
大きなポーチのついた玄関の前には、使用人たちがグラントを出迎えるために集まり始めていた。
私は自分の足で降りると言ったのに、グラントはたくさんの使用人たちが左右に整列した中私を抱き上げたまま屋敷へ入って行った。
メイリーとジェイドがその後に続く。
外の明るさに目が慣れているせいで薄暗く感じるエントランスホールの突き当たりの階段から、ゆっくりと背の高い女性がホールに降りてきた。
スマートなデザインの淡いスミレ色のドレスに身を包むその女性は、白くなった髪を高く結いあげ、浅く日に焼けた肌は健康的で暗青色の瞳が力強い輝きを放っている。
「ごきげんよう。お久しぶりです母上」
快活な様子でグラントが彼女へ挨拶の言葉をかけた。
では、この方がグラントの……。
普段と同じ皮の帽子を脱ぎもせず、私を抱えたままでホールに立つ彼を見て彼女が何を思うのか気が気ではなく、私は小さな声で下ろしてくれるように何度も言うのだけれど、グラントは私の顔を見て面白そうに一瞬眉を上げただけだった。
「お久しぶりです。小母さま」
私のすぐ横で、メイリー・ミーが淑女らしくスカートの端を持ち上げて優雅に一礼をした。
「……ああ……メイリーなの? まぁ……見違えたわ……」
グラントの母は眼を細めて笑った。
笑うととても優しい顔になる。
だけれどそれはほんの一瞬の間であり、彼女はメイリーの頬に未だに残る殴られた後の痣を見つけると、とたんに表情を険しくする。
「グラント……? ……メイリーはフィフリシスの女学校へ留学している筈。何故貴方が彼女と一緒にここにいるの? それに……」
暗青色の瞳が私を見た。
「こちらのお嬢さんはどなた……?」
厳しい詰問口調での問いに、私の胸は大きく波打った。
「わ……私は……」
ああ……だけど、何と言っていいのかが分からない……。
「彼女はフロー。リアトーマから俺が攫って来た女性だ。……だけど、俺が迂闊だったせいで危険な目に遭わせたうえに怪我をさせてしまった。メイリーは……訳あってフィフリシスから同行してもらっている」
一瞬の沈黙の後、グラントの母が暗青色の瞳を怒りに燃やしてグラントを睨みつけた。
「メイリーの頬の痣も、貴方のせいなの?」
「……小母さま……違うんです……これは」
メイリーが取り成すように言葉を挟もうとするのだが、グラントの母は無言のままにグラントの前まで歩み寄り、右の手をしならせる。
パァン……。
いっそ小気味良いと表現したくなるほどの音で、グラントの左頬が鳴った。
パァン……と、更に返す手でもう一つ……。
「貴方が一緒にいながら、女性だけが怪我をしているとはなにごとですか。情けない……恥を知りなさい!」
ぴしゃりと決めつける彼女に、グラントが一つ頭を下げた。
「……返す言葉もありません。……拳じゃなくていいんですか?」
彼の言葉に、彼女は鼻で笑った。
「自分の不甲斐なさは貴方が一番身にしみて承知しているのでしょう? そうじゃないなら渾身の力を込めて殴っているところです。……それに……若いお嬢さん達に血を見せるわけにはいかないわ。……だいたい、グラント、貴方を本気で殴り飛ばしては、このお嬢さんに怪我をさせてしまうではないですか」
ふと瞳から怒りの色を消して彼女は柔らかな表情をこちらへと向けた。
「……ようこそ、フローと仰ったわね。ワタクシはグラントの母のサラフィナ。サラ夫人とでも呼んでいただけるかしら?」
「あ……はい、ありがとうございますサラ夫人。……グラント。……ねぇ、このままでは失礼だわ。お願い下ろして?」
私の求めをグラントは頑として認めず、首を振る。
「キミは体から毒が抜けきらない、本調子じゃない状態だ。部屋までこうして運ばせてもらう」
私達の話を聞いていたサラ夫人はすっと目を細め、自分より背の高いグラントを顎を軽く上げることによって見下ろした。
「ええフロー。具合が悪いようですから構わないわ。それにしても……毒……ねぇ。相変わらず怪しげなコトをしているのね、グラント? ……フェイス、テティ、お客様に部屋の用意をして差し上げて。ダラはお茶の仕度をお願い」
サラ夫人がてきぱきと与える指示に従い、使用人たちが動き出す。
その後姿に向ってグラントが
「テティ……フローには南翼の蝶の部屋を頼む」
と声をかけた。
「あら……」
サラ夫人が小首を傾げて私とグラントとを交互に見た。
「彼女、楽器をおやりになるのね?」
その表情は何故か少し嬉しそうで、浅く焼けた肌を微かに染めた様子は少女めいた印象さえ与える。
サラ夫人は音楽がお好きなのだろうとその時、私は思った。
「シェンバルをね。なかなかの腕前だ。それに絵は本当に上手い」
そう言い終え、グラントは表情を引き締めた。
「母上、詳しい事情は後で話すけど、実は……ラズロ爺さんが亡くなったんだ」
はっとした表情でサラ夫人はメイリーに視線を向けた。
グラントの家とラズロ・ボルディラマは元々家同士の付き合いがあったのだと言うことを私は思い出す。
そっとメイリーの背に手を回し、抱きしめるサラ夫人。
「……辛かったわね、メイリー……」
「グラントやフローさんがいて下さったから……大丈夫です。ありがとう……小母さま」
答えたメイリー・ミーの声は微かに震えていた……。
「ジェイド、俺はフローを部屋に案内したらすぐに戻る。暫くの間、茶でも飲んで休んでいてくれ」
私を抱き上げたまま階段の方へ歩き始めたグラントに、ジェイドが言う。
「いえ、私はすぐにでも出発して報告を済ませておきますから、グラント様は今日はゆっくり休まれてはいかがですか。……たぶん、近日中にまた出立することになるでしょうから」
階段に片足をかけ、ジェイドの方を見ながらグラントは少しの間、何か考えているようだった。
「そう……だな。すまないが頼めるかジェイド?」
「はい、では馬をお借りします」
そう言って一礼すると、彼はセ・セペンテスの別邸を去って行った……。
大型客船『amethyst rose』で毒を受け、伏せっていた私は、グラントが解読しただろう老ラズロの暗号文章の詳しい内容を知らない。
不正が行われだしてからの、年度ごとの正しい金の採掘量の数値があったと言う話は聞いていたのだけれど……。
「グラント、近日中にここを出立するって…フドルツ山に関係したことなのでしょう?しばらく戻らないの?」
「淋しがってくれているのかい?」
揺るぎない歩調で私を抱き上げ運びながら、グラントが少し笑った。
そんなつもりではないのに、何故だか頬に血が昇った。
「う……自惚れが過ぎてよ。私はただ……リアトーマとアグナダ間の冷戦状態が……」
「さあフロー、着いたよ。この部屋だ」
耳まで赤く染めながら私が反論しようとするのを制して、グラントが言った。
大きく開かれた扉の向こうは、空色の敷物とターコイズブルーに無数の蝶が舞う壁紙で青く染まる明るい青の、大きな部屋だった。
腰板はマホガニーだろうか。
暗色のニスで暗く染められた腰板が、明るすぎる彩色の部屋に落ち着いた趣を与えている。
趣味のいい調度と寝心地のよさそうなベッドがあり、どうやら大きな窓の向こうはバルコニーになっているようだ。
「この隣に音楽室があるんだ。そこの扉から出入り出来るようになっている。そこは広いし明るいから、キミのアトリエとしても使えるように画材を用意させよう」
テティと呼ばれた使用人がベッドメイクをしているのを見て、グラントは私を隣の音楽室へ連れて行きそこにあった長椅子の上に腰かけさせてくれる。
隣の部屋と同じ色調の室内には、シェンバルをはじめウードやブリーヨン、フェタなどの見慣れた楽器の他に、恐らくは異国の物だろう見慣れぬ形のエキゾチックな竪琴や打楽器など、何種類もの楽器が置かれていた。
中にはグラントがエドーニアで作らせた、あの装飾ウードも混ざっている。
「……凄い……」
中でもひときわ私の目を引いたのは、見たことも無いくらい立派なシェンバルだった。
壁際に置かれた書棚には、楽譜が山のように入っている。
「この部屋に来るのは久しぶりだ」
ぐるりを見渡して目を細めるグラント。
「もしかして……ここでメイリー・ミーと、あのでたらめな曲を作ったの?」
「でたらめとは心外だね。なかなかの名曲のつもりだったんだが」
白い歯を見せて笑う彼に、私もついつられて笑みを零す。
「あんな曲ばかり弾かれたんじゃ、ここにある立派な楽器達が泣くわ」
「ここはね、俺の父が、母と結婚する前に使っていた部屋なんだ」
「え……お父様が? じゃあ、貴方のお父様はよっぽど音楽がお好きな方なのね。でも、だったら……私がこの部屋を使わせていただいては悪いんじゃないのかしら……」
私が部屋を占拠していたら、グラントの父親は好きな楽器を楽しむことが出来なくなってしまうと思いそう言ったのだけれど、グラントは一瞬何を言われたのか気がつかなかったらしく、虚をつかれたような表情をした。
「え? ……あ、ああそうか、大丈夫だよ。父はもう随分前、俺がまだ小さい頃にはあの世にいっているからね」
グラントのお父様は、既に亡くなられて……いる……?
「……ちょっと待ってグラント。貴方……御兄弟は……?」
私が言わんとしている事を察したのか、グラントは私を面白そうに笑み含みに見ながら首を振った。
「残念ながら、俺には兄も姉も弟も妹もいない」
……私は、彼と関わってしまってから今まで、一体何度絶句したことだろうか。
「キミには改めて自己紹介をするべきなようだな。……俺はバルドリー家の現当主のグラント・バルドリー。以後どうぞお見知りおきを……フローお嬢さん」
ふざけたその自己紹介を聞いて、私は声も出なかった。
侯爵家バルドリー家の人間が、危険も顧みずうろうろと諜報活動をしているというだけでもとんでもない話だったのに、彼……グラントがこの家の当主だと言うではないか。
もし自分に何かあったらこの家がどうなるか、彼は考えているんだろうか?
彼の曾祖父様とお祖父様が築いてきた家を守る責任が彼にはあるというのに。
「よくもそんな呑気な事を言えるわね、グラント……」
私は数時間前の教訓を思い出し、必要以上の興奮を抑えるために一度大きく息を吸って吐きだしてから言葉を紡いだ。
「貴方にはバルドリーの家を継ぐ者としての自覚が足りないんじゃなくて? ……信じられないわ」
「自覚……ねぇ……」
言いながら大股でグラントは部屋を横切り、シェンバルの椅子の背をこちらに向けて逆向きにそこに腰かけた。
背もたれに組んだ腕を乗せただらしない姿勢でこちらを見る彼の表情には、反省の色など微塵も見えなかった。
「今現在『生きている』この家の人間は俺と母上だけだけど、残念なことにその二人ともが家の歴史やら格式やら重んじる性質を持ち合わせていないからね。思うが侭に生きず、なんの為の人生ぞ……? そうは思わないか、フロー?」
自分の好きなように、自分の為に生きる……そう言うことを彼は言っているんだろうか。
そんなことが本当に可能だと、彼は言うのかしら?
グラントの言葉が私には理解出来ない。
リアトーマでは……。いいえ、少なくとも私の中では、その家に生まれた人間はその家の為に生きるべきもの……。
兄上やお母様から大事なお父様を奪ってしまった私は、この不自由な左脚の為に、きっと……まともに政略結婚の駒になることも出来ないだろう。
だからこそ家を出て、私の唯一の能力を生かしてエドーニア領を統べる兄様の為に出来ることをしていた。
それが……この出来損ないの私の存在理由を支えるものなのに。
「貴方の言うことは、分からないわ…グラント」
言いながら、私は自分の唇が震えるのを抑えることが出来なかった。
なんだか、眩暈がする。
己の思うままにもしも私が生きたとするならば、私にはこの世界に存在する価値があるのか……とても疑問だ
。
「フロー?」
顔面から血の気の失せた私を見て、グラントが椅子を倒す勢いで駆け寄ってきた。
「酷い顔色だ。……移動で疲れていたのに、済まない」
奥の部屋のベッドメイクが終わったことを確認した彼が、いつものようにたやすく……軽々と私を抱き上げた。
衣服の上からでも分かる、厚い胸板。
剣の腕もあり頭も切れる。
彼は健康で、とても強い人間なんだと思う。
私とはまるで違う生き物だ。
優しく……壊れ物でも扱うようにグラントは私をベッドの上に横たえてくれた。
私を見るグラントの、自分に対する自信と活力に満ちた暗色の瞳を見つめ返す。
一体彼の目に私はどんな風に映っているんだろうか。
あの時『amethyst rose』の船内で毒に倒れた私が目を覚ました時、グラントは私の事を愛していると言った。
夢じゃないかと思った。
認めまいとしたけれど、私はエドーニアにいた頃からグラントと言う人間に惹かれていた。
今は、もっと……彼に惹かれている。
……でも……。
「グラント……貴方は『フローライト』を、知っている?」
「……キミの父上が君をそう呼んだと言う事ならね。フローライトと言うのはなんなんだい?」
私は忘れてはいけない。
「私のフローティアと言う名前は、お母様方の曾祖母から戴いた名前なの。お父様はその名前をfluere……流れる、tears……涙の韻を踏んでいると言ってあまりお好きじゃなかったようよ。それよりもfluorite『流れ出る光』と呼んだほうが相応しいって」
私は枕の上からグラントに微笑んで見せた。
「いい名前じゃないか。キミに良く似合う」
そう。
私は自分の心に刻み込まなければいけないんだ。
私は、フローライト。
お父様が言っていた。
フローライトと言う名前の美しい石があるんだと。
たぶん、お父様はその石のことを詳しくはご存知じゃなかったのだろうと思う。
私の頬に優しく唇をつけ、部屋を出てゆくグラントを見送りながら心の中に何度も、何度も繰り返した。
私はフローライトだ。
その石は美しい色を持っているけれど、脆く砕ける性質のせいで『宝石』にはなれない石だ。
硬質な輝きを放つ宝石であると信じて手にしたものに、きっと失望を与えてしまうことだろう。
「私は、フローライト……」
グラントの優しい口づけのぬくもりが残る私の頬に、涙が苦い雫となって転がり落ちた。




