fluere-tears fluorite 1
「それはもう仲の良い父娘でございましたよ。なにしろ可愛くて利発なお嬢様でございましたからねぇ」
腰の曲がった老女は半ば盲いた目を細め、エドーニア前領主の娘の事を尋ねた私にそう語った。
リアトーマの王都からほど近い田舎町ジーラの雑貨屋の二階に、この老女は住んでいた。
一階の雑貨店は長男夫婦が切り盛りをする店で、老女は日中忙しく働く彼らの為に家の掃除をしたり、食事の支度などを手伝っているのだと言う。
「はぁ……それにしても目出度いお話です。ご存じのようにお嬢様は器量も良くていらっしゃるし、本当にお優しい方でございますよ。このバァがお屋敷からお暇をいただいてからもう10年近く経ちますけれど、毎年アタシの誕生日にはお手紙やら贈り物やらが届くんです。本当にねぇ、もう随分と経ちますのにねぇ……」
社交界には出ていない脚の悪い娘。
恐らくは貴族でエドーニア領主の縁者であるらしい……との情報を持ってはいたが、この老女の元へ辿り着くまでに思ったよりも時間が掛かってしまっていた。
何とかこの国の上流階級に詳しい知人の伝手を頼りに、彼女が亡き前エドーニア領主の娘であり現領主の妹であるらしいと言う事を知ることが出来たのだが、そこから先の情報がなかなか出てこなかった。
だいたいにして、社交界に出ていない貴族の娘と言うのを調べるのは難しい。
特に彼女の場合、あの脚が原因でほとんど外界との接触は無かったはずだ。
上流階級の人間と言うのは家柄や格式をとかく気にしがちな人種ではあるが、このリアトーマはアグナダ公国に比べその傾向が顕著であるらしく、彼女の存在自体、家によって半ば隠ぺいされていたに違いない。
エドーニア領主が王へ伺候するための別邸で彼女の側近く仕えていたと言うこの老女にたどり着けたのは、僥倖だったと思う。
「ええと、レシタル様と仰いましたかね?そうですか。それで貴方様のご主人様はどんなお方なんでしょうかね?
あのお嬢様と縁組なさるんですから、そりゃ御立派なお家の方であるとは存じますが、そのね、お人柄の方は如何なものかと失礼ながらお教えいただきたくて……」
縁組などと言う嘘をこの老女に使ったことに些かの痛痒も感じなかった訳ではないのだが、時に嘘をつかねばならない事が私のような仕事をしている者にはあるものだ。
「優しく、人柄の良いお方です」
答えた私に、老女は嬉しそうな表情で何度も何度も頷いていた。
「やぁやぁ……お目出度いことでございますよ。お嬢様のお婿様になられる方は何もかもご承知の上でこのお話を勧めていらっしゃるんですよねぇ?」
「ええ、もちろんです。しかしご本人様に詳しいお話を伺っても、言葉を濁されまして。ご結婚前に何もかもお知りになりたいと言う私の主人に、先方から貴女の事を紹介されてこちらにお邪魔した次第です」
「ああ……ああ……そうでございましょう。思い出すのもお辛いことでしたから、お嬢様の口からはねぇ……。本当に酷い事故だったんでございますよ。先ほども申しましたとおり、先のご領主様とお嬢様は仲が良ろしくていらっしゃいまして。……その日もご主人様はお嬢様とご一緒に、エドーニアのお屋敷の近くの森へ遠乗りにお出かけになったんですけれど、春雷と言うんですか? 春の嵐に襲われなさいましてねぇ。……ご領主様とお嬢様は崖の下に落ちてしまわれたんでございますよ。その事故でご領主様はお亡くなりになられて、お嬢様はおみ足に酷い怪我を負われてあのような事に……。今でも良く覚えておりますが、冷たい雨が降る日でございましたよ……。お嬢様の目の前でお父上様は亡くなられたのでございますけれど、運悪く丸々二日間も、まだ夜の寒い時期なのにお二人を探しに出た家の者たちはお嬢様を見つけて差し上げられませなんで……。屋敷の者が見つけた時には、本当に危ない状態だったんでございますよ。まだお小さかったお嬢様が、とうに亡くなられているご領主様と二人、酷い怪我を負いながら雨ざらしの戸外に二日間もおられたんでございますよ……。一体どんな気持ちでいらしたのか……考えただけでアタシは胸が潰れそうな心持になってしまいます」
老女はエプロンの端で目元をぬぐった。
「死ぬか生きるか……しばらくの間はお医者の先生でも分からない日が続きましたよ。命が助かってからもあんな事がございました後ですから、お嬢様は酷くふさがれまして……。その……奥様を悪く言うわけではないんでございますけれど、まぁ……そうですね、そんなお嬢様にどう接していいのかお分かりにならなかったんだとアタシは思います。ご自分もご領主様が亡くなられてお辛い時期でございましたからねぇ。まだあの当時、二十歳の前だった今のご領主様……お嬢様の兄上のエクロウザ様はお父上様の跡をお継ぎになられたばかりで、とにかくお忙しくていらしたし……。フローティアお嬢様はお淋しい思いをずいぶんとされていたと思います……」
老女は当時を思い返すようにしばし瞼を閉じてから、ほっと息をついた。
「相すみませんねぇ……どうにも懐かしくて、アタシは喋り過ぎてしまうようでございますよ」
「いや、お話興味深く拝聴させていただいてます。……お嬢様は絵がお上手でおられるようですね」
「ええ、あぁはい。貴方様もご覧になりましたか? お小さい頃から絵を描くのがお好きでいらっしゃいましたよ、お嬢様は。人間を描かれる時には今そこにその方がおられないのに、その場で見ながら描いていますようにね……本当にそっくりにお描きになられました。アタシもお嬢様に描いて貰ったことがございましたよ。ああ……あの絵は何処にしまったんでしたか……。はぁ……歳を取ると色々忘れてしまいますものですねぇ。だけど……忘れると言うのはありがたい事だと、アタシはお嬢様を見ていてつくづくそう思いましたですよ……」
そう言って、悲しそうな表情で長い溜息をつく。
「どうか、されたんですか?」
問いかける私に、老女はあまり良くは見えていないらしい白濁した瞳でじっとこちらを見つめた。
「何度もお伺いするのは失礼ではございましょうけれど、本当に……お嬢様のお相手の方は、お優しい人なんでございましょうね?」
「勿論です」
心の痛みをこらえつつも、私は老女から話を引き出す為にきっぱりとそう答えた。
「はぁ……それはなんとありがたいことでしょう。レシタル様……お嬢様は、お忘れになることができないんですよ。旦那さまが亡くなられて、お嬢様がなんとか命をとりとめられて暫くした頃でございますが、一日中寝台の上でお過ごしになられるお嬢様が絵の道具を持ってくるように、アタシにお頼みになられました。そりゃずっとベッドの上にあの年代のお子様が横たわっているのは、辛いもんでございましたでしょうとも。無聊を慰める助けにでもなればとご用意させていただいた紙に、お嬢様が描かれたのが……」
小さく、小刻みに頭を振る老女。
一体、何を描いたのだろうか。
「……あの頃は、まだお嬢様もお小さいし、絵もさほど描かれた事がなかったので、まぁ……子供の落書きでございますねぇ。そんな感じであまりお上手ではございませんでした。だけど、毎日毎日お嬢様がベッドの上で絵をお描きになられて行くうちに、お嬢様付きの若い使用人などは気味悪がるようになりましたよ。まったく若い娘と言うのは……だらしのない。どうも、お嬢様は毎日同じ絵を描いておられるようでございました。……何日も、何週間も、同じ絵をただ描き続けて…どんどんとお上手になられて、……だんだん……それがお嬢様がご覧になられたご領主様の最期のお姿だと言うことがわかって参りましてからは、奥様はますますお嬢様との距離を置かれるようになりましてねぇ……。いえ……先ほども申しましたとおり、それも無理はないことと思っております。その頃にはお嬢様の描かれる絵は、それはもう……見るに堪えない残酷なものになっておりましたから……。でもねぇ……それをお嬢様は現実に目にしているわけでございます。酷い話です。お可哀そうでございますよ。しかもそれが今見たようにはっきりと頭の中にいつでも蘇って来ると……ある日の晩に泣きながらアタシに……、このバァに打ち明けて下さいましたっけ。アタシは学のない人間でございますから良くは存じませんが、お嬢様を……奥様がお医者様にお診せになった時に、そのお医者先生が仰いましたんですよ。稀に、あまりにもはっきりと見た物を覚えている人間がいると言うお話を貴方様はご存じですか? ああ……本当に稀な事でございますでしょうから、知らなくて当たり前でございますよ。なんですか……お嬢様もそんな性質をお持ちだそうで。忘れることの出来ない記憶なんて、アタシでしたらそんな才は願い下げでございますよ……。まぁ、そんなこともございましたから、お嬢様と奥様とは少しばかり疎遠になっておりまして……。中にはお嬢様を庇って旦那さまが亡くなられたせいだと馬鹿なことを言う連中もおりましたけれど、そんなことはないとアタシは思っておりますよ。……ただちょっとばかり反りが合わない母娘と言うものございますでしょう。奥様も悪い方ではございませんです」
はぁ……と、長い溜息をつく老女。
「お嬢様とそちらのご主人様はエドーニアでお会いになられたんでしたねぇ……。よかったですよ。アタシがあちらの屋敷からお暇を貰った少しばかり後に、お嬢様から屋敷をお出になったと手紙が参りましたっけが……。あの時はなんと無茶な事をなさるもんだと、屋敷にお帰りになるようにバァからフローティアお嬢様にその事を諌める手紙を出してしまったんでございます。でも、屋敷にいればお嬢様は……あのおみ足の事もございますから、屋敷の外に出る機会も、そんな良縁に巡り合う機会もございませんでしたでしょうからねぇ。分からないものでございますねぇ」
心底嬉しげな表情で何度も頷く老女に、私は良心の呵責を感じていた。
しかし、これでグラント様がお連れになっていたあの女性が、前エドーニア領主の娘のフローティアと言う女性である確信を得ることが出来た。
この上は急ぎアグナダ公国へ帰国し、今得た情報をご報告申し上げよう。
私はその家を辞して帰途についた。
世界がゆっくりと旋回しているような酩酊感の中に私は横たわっていた。
今私はどこにいるのか、とっさに思い出すことが出来ない……。
なんだか右の手が暖かく締めつけられていることに気がいて、重い瞼をなんとか開けそちらに目を動かしてみると、見覚えのある赤褐色の髪の少女が私の手を握り、明るい茶の瞳に涙を一杯ためてこちらを見つめている姿が目に入った。
少女の頬は、痛々しく黒ずんだ痣になっている。
「フローティアさん……。ああ……良かった……。グラント、フローティアさんが目を覚ましたわ……!」
そうだ、この子はメイリー・ミーだわ……。私、眠っていたの?
どうなっているのかしら。
……メイリーがこうして無事にいると言う事は…そう、あの楽譜を奪う為にやって来た人達は、グラントとジェイドが捕まえたんだわね……。
目まいに揺れる脳の中から、記憶がゆっくりと蘇る。
そうだ……私は作業を終えた後で倒れてしまったんだ。
「起き上がってはいけないわ。フローティアさん」
体を起そうともがいた私を、メイリー・ミーがやんわりと諌めた。
また、その名前で呼ぶ……。フローと呼んでくれと言ったはずなのに……。
それにしても膝が痛い、それに肩も痛む。……かすり傷だと思ったけれど化膿でもしたんだろうか。
目まいの気持ち悪さに耐えかねて、私は瞼を下ろして眉間に皺をよせた。
衣ずれの音。
握られていた右手がそっと離され、メイリーがベッドの横からどこかへ移動して、代わりに別の誰かが私を覗き込む気配が感じられた。
再び目を開くと、そこにはグラントの暗色の瞳……。
「……目が、血走っていてよ……」
力のこもらない、ガサガサと割れた声が喉から出た。
周囲が明るい。小さな船窓から差す日差しが部屋を明るく染めているようだ。
そう言えば、私がこの船室をランプの灯火以外で見たのは今が初めてだったことに気づく。
もしかして倒れてからずいぶんと時間が経っているんだろうか?
「外は、お昼くらいかしら……?」
「そう。フロー……君が倒れた翌々日の午後になっている」
……翌々日?
いくら疲れていたからと言って、それでは眠り過ぎだろう。ありえない。
グラントは私をからかう為に嘘を言っているに違いない。
「……寝坊が過ぎたよう……ね……。もっと早く起こしてくれたら良かったのに……」
ああ……それにしてもダルくて体に力が入らない。頭もぼんやりとしたままだ。
「フロー……」
グラントの手が私の頬に触れる。
「もう目を覚まさないんじゃないかと……思ったよ」
笑顔と呼ぶには引きつった表情のグラントを、私は不思議な気持ちで見ていた。
どうしたのだろう彼は……。なんて大げさなことを言うんだろうか。もしかして、まだ私をからかっているのかしら?
「……ナイフに毒が塗られていたんだ。幸い傷が小さくてごく微量しか体内に入らなかったようだが、俺が迂闊だった。」
ナイフ……毒……?
重い瞼をいったん閉じて、私はグラントの言葉の意味をぼやけた頭に理解しようと努めてみる。
そう……肩に、小さな傷を負ったんだったかしら。
「生きて……いるわ……」
ダルくて、あちこち痛むけれど、私は生きている。
閉じたままの瞼に、グラントが唇を寄せるのが分かった。
頬に当たった不精ひげがちくちくとする。
……なんて馴れ馴れしいことをするのかしら……。
だけどまるで酔っ払っているような酩酊感とダルさで、動くことが出来ない。
瞼が持ち上げられない……。
彼の頬が私の頬に触れた。
耳元で吐息まじりの声が、言う。
「フロー……君が無事で良かった……」
昔……そうだ……同じ言葉を、あの時、お父様が私に言ったわ。
『フロー……ライト、キミが……無事で良かった』
と。
「私の……お父様は、私を、フローライト……と呼んだわ……」
なんとか目を開いたものの、酷い酩酊感と睡魔にあらがうのはとても難しい状態だった。
グラントが私のすぐ間近で微かに笑みを浮かべたのが分かった。
「フロー。俺も君をフローライトと呼んでもいいか?」
その問に私は
「厭」
と答えた。
眠い。
意識を保っているのが、辛い。
「フロー……ライトと……呼ばれると、悲しくなるの。だから、貴方は……フローと…呼ん……で……」
「分かった」
そう答え、グラントは私の髪を優しい手で撫でてくれた。
「フロー」
そして静かな声で私を呼ぶ。
もう、瞼が開けられなかった。声を出そうと思ったけれど、少しだけ唇が震えただけで動けない。
「キミを愛している。……キミが無事で、本当に良かった」
彼の言葉に、何か答えたい気持ちになったけれど、私はまた、眠りの中へと引きずり込まれていった。




