amethyst rose3
私はさっき見た映像を白紙の上に重ねるように思い出し、それを写し取る作業に入っていた。
この記憶力のお陰で、私は人の顔を覚えて似姿に描き写す事が出来る。
見覚えた物をありありと思い出す能力は、エドーニアにおいて私に生きる理由を与え、同時に耐えがたい苦しみをも与え続けていた。
……眼裏に焼き付いたお父様の最期の姿が、今もって消えてくれないのだ……。
だけど、今はこうして私の持つ唯一の有用な能力と言っていいこの力がグラントやジェイドの役に立っている……。
私が記憶の中から文章を写し取る作業を続けている間に、二人は招かざる客達を縛りあげ、彼らが船から盗み出した鍵と彼ら自身をこの船の警備の責任者に引き渡し、船倉へと収容してもらう為に部屋から連れ出そうとしている。
ジェイドが一度机の前にやってきて、私の手元を覗き込み小さく口笛を吹いた。
もしかしたらそれは、彼なりの私に対する称賛だったのだろうか。
「彼らを引き渡して来る。……メイリーとフローは部屋の扉を施錠して、ここで待っていてくれ」
そう声を掛けるグラントの指示に従おうと、私はペンを置いて立ちあがった。
メイリーはソファーに凭れてぐったりとしているようだ。
無理もない。
こんな酷い一日を過ごしたことなど、いまだかつてなかったことだろう。
エドーニアでのラウラの結婚式に続く私の一日も酷い一日ではあったけれど、私はメイリーのように父の訃報を聞かされたわけではなく、また、彼女のように乱暴に扱われたり剣を突きつけられたりはしなかった。
「もう、予備の鍵なんてないわよね……」
戸口に出て、疲れた顔で言う私にグラントが苦笑いを見せる。
「冗談でもやめてくれよ……。帰ってきたらノックするから、声を確認してから開けてくれ」
「分かったわ……」
私も力のない笑みを返し、部屋へ戻ろうとした。
既に真夜中を過ぎた時刻だった。
他の部屋の乗客たちはもう眠りについているのだろう。
周囲はとても静かだ。
そんな中をグラントとジェイドに引き立てられた男女三人は、縛られ、負傷した箇所の痛みに呻きながら連れられて行こうとしている。
暗号文を書き出してしまい、早くこの一日を終わらせたい……。
私がドアのノブを掴もうとした時、何か…グラント達以外の人間が廊下で動いたような気がした。
「その女を殺しなさい!」
捕らえられた女が叫ぶ。
驚いて振り返るとグラント達の進行方向の廊下の角から覗く、男の姿。その手には何か細長いものを持っている。
既にジェイドが捕らえた男を突きのけてそちらへ駆け寄ろうとしていた。ヒュッと空気を切る音が聞こえた気がした。男が手にしたものをこちらに投げたのだ。
グラントの腕が動き、彼の短剣が飛来した何かと接触してその軌道を変える。
私の耳の横、肩の辺りの建具に一本のナイフが突き刺さって小刻みに揺れていた。
「フロー……!」
グラントが暴れる女を捕まえたまま、こちらを振り向いた。
「だ……大丈夫……なんともないわ」
建具に突き立ったナイフから呆然とした気持ちで目を離すと、グラントの向こうでジェイドが男を組み敷いているのが目に入った。
血色の悪いその男の顔に見覚えがある。
私やメイリー・ミーを尾行していたあの男だった。
ジェイドに絞めあげられ他に仲間はいないかと詰問された男は、青白い顔を必死に振って、それを否定している。
「肩、大丈夫か?」
言われて初めて私は自分のドレスの肩の辺りが小さく裂けていることに気が付いた。
裂け目から覗いた皮膚には小さな傷が付き、うっすらと血も滲んでいたけれど痛みは殆どない。
放っておいてもすぐに治るだろう。
だけど……グラントがあの時、もしもナイフを短剣で弾いて軌道を変えていなかったらと思うと、心底ぞっとした。
「平気よ。…その方達にドレスの賠償を請求しておいてちょうだい」
私の減らず口を聞いたグラントの口元に安堵からか、笑いの影が過る。
「……助かったわ……ありがとうグラント」
礼の言葉に彼は片手を上げることで応え、一人増えて4人になった虜囚を連れてグラントとジェイドは歩いて行った。
扉を閉めて内側から鍵を掛ける。
先ほどまでソファでぐったりしていたメイリーが、今の騒ぎに心配そうな表情で私の肩の辺りを見に来ていた。
「フローティアさん……怪我を……」
不安げな彼女の青白い顔についた痣が、痛々しい……。
「フローと呼んで。私はかすり傷程度よ。貴女の方が痛そうだわ……」
彼女の手にそっと触れると、その手はとても冷たくなっていた。
肉体的にというより精神的に、限界近くまで疲れ切っているに違いない。
「すぐにグラントは戻ってくるわ。きっと、船医の方を連れて来るでしょうから貴女はそれまで休んでいらっしゃい。怪我の手当をしていただいたら、今度こそゆっくりお部屋で休みましょうね」
なるべく優しい声を出して私がそう言うと、メイリーはぎこちなくだが笑みを浮かべ、小さく頷いた。
正直なところ、私も心底疲れ果てている。
それに、さっき蹴られた左膝がズキズキと痛んだ……。
机の前に腰を下ろし、再び記憶の中の暗号文を現実の紙の上に書き写す作業に集中しようとするのだが、どうにも頭がフラフラとする。
貧血を起しているのかもしれない。
グラントとジェイドはまだ戻ってこない。船の関係者に事情の説明を求められているのだろう。
彼が一体どういう風にこの状態の説明をするのか気になるけれど、グラントは頭の良い人だから、きっと自分の都合のよいように話を取りつくろってしまうに違いない。
それにしても、膝が痛い。
明日は……いや、もうとっくに『今日』になってしまっているのだろうけれど、起きた時この膝は盛大に腫れあがりそうだ。
……なんだか大した傷じゃなかった筈の肩も、痛くなってきたような気がする。
ペンにインクをつけ、最後の一文字を書き終えた私はホッと息をついた。
扉からノックの音が聞こえたけれど、ダルくて……とてもダルくて、立ちあがれそうもなかった。
ソファで休んでいたメイリー・ミーがすぐに気づき、扉越しに一言二言会話した後で鍵を開けたようだ。
私は眩暈に悩まされながらも頭を上げて、部屋の中を見渡した。
暗い……。
どうしたんだろう、ランプが灯っている筈なのにこんなに暗いなんて、あり得ない。
ふらつく頭を左の手で支え、さっきから痛みがどんどん増している肩の傷口に視線を向けると、最初はうっすらと血がにじむ程度だったはずの傷が青黒く異様な色に変色しているのが見えた。
なんだろう……とても寒くて、気持ちが悪い……。
さほど離れていない場所で話をしている筈の、グラントやメイリーの声が遠く聞こえた。
「……フロー……?……どうしたんだ、フロー……??」
私の様子に気づいたグラントが私の方へ急ぎ、駆け寄ってきた。
「フロー!?」
椅子の上からよろめき落ちそうになった私を抱きしめて支えてくれたのは、たぶん、グラントだろう。
でも、彼の顔がよく見えない……。
グラントが私の名前を何度も何度も必死に呼んでいるけれど、なんだかどうしても目を開いていることが出来ない……。
それとも、私は今、目を開けているんだろうか?
どんどん私を呼ぶグラントの声が遠くなる……。
遠くなって……消えてしまう……。
グラント……貴方の声が……。




