amethyst rose2
「なるほどね」
と、グラントが言った。
「この暗号は、50年前の大戦をアグナダ公国側で戦った古い人間が使っていたものだな……。俺は俺のジイさんから教えられたし、ジイさんと同じ部隊にいた老ラズロが知っていても不思議はない」
どうやらジェイドもある程度この方式の暗号文には知識があるようだった。
私はエドーニアの私の館でグラントの落した暗号分から解読した単語の分ではあったが、少しだけ分かる部分もあるのだが……。
「……大文字と小文字で数字と文章とに分けられるようだ」
グラントの指示に従い、三人は協力して文字の拾い出しにかかった。
何か集中していられる事があるのは、今の私にとってはありがたい。
少しでも気を緩めると私の心は思い出すのが辛い過去や、先の見えない未来へと向いてしまう。
自分がおかしな状況にいるとは思うけれど、悲しい思い出のたくさん詰まった過去よりも、そして……不透明で暗い未来よりも、こうして精一杯自分に出来ることをしている今現在が、私にとって一番充実した時間なのかもしれない……。
三人で拾い出した古代アグナダ文字を私は別紙に一定の順序に従って書き出していった。全てのピースは揃ったけれど、まだそれはバラバラのピースに過ぎない。最後の一文字を書き込み、意味をなす文章へと変換する作業を始めようとした時だった。
部屋の扉が開いた。
既に時刻は深夜を回っていたと思う。
でもそんなはずはない。
だって、私がこの部屋に入った後でグラントは念のためにこの扉に内側から施錠をしたのを私は見ていた。
それなのに……。
「静かにして貰おうか」
そう言いながら部屋へ入ってきたのは4人の男女。
見知らぬ男と、僧衣姿はしていないけれど、メイリー・ミーをあの修道院で監視していた初老の女性、それにメイリー・ミーと彼女の喉元に剣を突きつけた若い男……。
3人はそれぞれが抜き身の剣を手に、武装している。
扉が開いた瞬間に腰の剣を抜き臨戦態勢を取っていたグラントとジェイドだったが、人質に取られたメイリーの姿を眼にしてその場へ凍りつく。
メイリー・ミーの部屋の扉は私が確かに施錠した筈。……それに、ここだって。……一体何故……!?
私の当然の疑問は、メイリーに刃を突きつける男のベルトに下がった鍵の束を眼にした瞬間に氷解した。
どんな手段を使ったのかは分からないけれど、彼らはこの船に管理されていたスペアキーを奪ってここへ来たのだろう。
「メ……メイリー……」
驚きのあまり、呆然と備え付けの机の前に腰かけたままだった私が机で体を支えながら漸く立ち上がると、グラントが私を庇うような位置に移動して、彼らに誰何の言葉を発する。
椅子に立てかけてあった杖が私のスカートに引っ掛かり、分厚い絨毯を敷き詰めた床にパタリと倒れる。
「ボルキナ国の者か!?」
しかしその問いに彼らは答えず、私たちに見えるように青ざめたメイリー・ミーの喉にあてた刃を更に強く突きつけた。
「この娘が学寮から持ち出したものをこちらへ渡しなさい」
感情の起伏を見せる様子もなく声を発したのは、メイリーの監視役の女だった。
ジェイドとグラント、そして不法に室内へと闖入してきた招かざる客達はしばし無言で向き合ったまま、緊迫した数瞬が過ぎた。
父親の訃報を聞かされ悲しみに打ちひしがれたメイリー・ミーは、初めて修道院で出会った時とはまるで別人のよう。
疲れ果て、涙の後の残る頬は恐怖と混乱に引きつり血色を失っている。
どうして彼女がこんな目に遭わされねばならないのかと、私の混乱した胸の中に小さく怒りの炎が灯った。
だけど、どうすればいいんだろう……。
「もう一度だけ言います。この娘を殺されたくなかったら、持ち出した物を渡しなさい」
冷たく硬い声が再び要求を告げた。
そうだ……老ラズロの楽譜……。
……私は自分の手元に散乱する楽譜と、そこから拾って書き出した暗号文とに目を落とし、自分の見た物を記憶の中にしっかりと焼きつけるために一瞬目を閉じ、再び目を開けた。
グラントの広い背中が硬く強張っているのが目に入る。彼の中の葛藤が背中から透けて見える気がした。
老ラズロの娘……この世にたった一人残されたメイリー・ミーを救いたい気持ちと、国の運命を変えるかも知れないこの書類との間で彼は揺れている。
メイリーを救うためにこれを渡すわけには行かない。
けれど、だからといって彼女を見殺しにすることなんて出来ない……。
「……だめ……。やめてグラント……私の事は構わないから、お父様が託したものを、渡さないで……」
嗄れ果て、喉をナイフで圧迫されているせいでひしゃげた声で、メイリーが言う。
彼女を捕らえた男が恐ろしい勢いでメイリーに
「黙れ」
と怒号を浴びせた。
ジェイドが身を低くして今にも相手に切りかかりそうな態勢をとる……。
グラントの背中が硬く……硬く強張った。
……こんな酷い事があるんだろうか……。
メイリーが一体何をしたと言うんだろう。彼女には何の罪も無い。
……でも……グラントは、メイリーを選べない……。
「……グラント……」
私は小さな声で、本当に小さな声で彼に呼びかけた。
「お願い、メイリーを助けて。暗号文は……私が全部記憶したわ」
ほんの微かにグラントの肩が揺れた。
私はメイリーを助けたかった。
それに、きっと私と同じか、それ以上にメイリーを救いたいと思っているだろうグラントに残酷な選択をさせたくなかった。
ここは既に港を出港した船の上だ。
彼らには逃げ場などなく、これは背水の陣。
どんな手段を使ってでも、この書類を処分する為にやってきた彼らには、禁忌など無いだろう。
人質にとったメイリー・ミーも、邪魔になれば即座に殺してしまうに違いない。
けれど目的は一重に『老ラズロの遺した書』なのだから、それを渡してしまったなら彼らに隙が生じるかもしれない。
幸い私の前にはグラントがいて、死角を作ってくれている。
私はそっと、着ているドレスの後ろ側のレース飾りに、机の上に乗っていた金属製のつけペンを引っかけた。
まだ乾かないインクが恐らくスカートに染みを作っただろうけれど、そんな些細なことにかまってはいられない。
「やめて、メイリーを離して……お願いよ……」
私は目の前にあった楽譜やメモ類をガサガサと纏めて両手に持った。
「おまえ……余計なことをするな……!」
ジェイドが私に向けて怒鳴る。
「フローティアさん……私の事はいいの……それを渡しちゃダメ……」
メイリーの瞳に涙が盛りあがるのが見えた。
グラントは何も言わず、相手を牽制しつつも私の為に体をずらして進路を開けてくれた。
……杖を手にしようとして、それが床に倒れているのに気づいた。
いいわ、どうせ両手に書類や楽譜を持って杖をつくことは出来やしないもの。
いつもよりも無様に足を引きずりつつ、なんとか私は彼らに指示を出しているリーダー格らしい初老の女の前にたどり着いた。
とても冷たい……感情の無い目をしている。
きっと何らかの戦闘訓練をされた人間なんだろう。
なんとか隙を突こうと思っていたけれど、油断を見せてくれない。
恐怖と緊張で、背中に冷たい汗が流れるのが分かった。
……私がほんの少しでも隙を作ることが出来れば、グラントやジェイドがきっとなんとかしてくれるのに。
何の方策もないままに焦る私の手から、女は楽譜や書類を取り上げて鋭い目線を机や周囲に向けた。
「本当にこれで全部だわね?」
黙って頷く私の返答を待たずに、女はそれらを一纏めにねじるとランプを一つを取り上げて部屋の奥に設置された洗面台の方へ向った。
女に道を開けるフリをして、私はよろめき後ずさりながらスカートの後ろに引っかけたペンを右の手に握る。
メイリーを捕らえた男まで、あとほんの少しの距離……。
女がランプの火を書類の束に移す。
ジェイドがうめき声をあげた。
あともう少し……。
手に握ったペンを、彼に突き立てられる……!
そう思った時、メイリーの腕を掴んだまま男が私の不自由な左の脚の膝の辺りを思い切り蹴り飛ばしてきた。
バランスを崩した私は受け身も取れずに転倒しながら、なんとか男の太腿目がけて腕を伸ばし、金属製のペン先を突き立てる。
男は怒りの籠った叫び声を上げたけれど……ああ……だめ。これじゃあ、メイリーがこの男に殺されてしまう。
絶望感に襲われながら床へ倒れた私の頭上を、何かが凄い勢いで過っていった。
鈍い響きと頭上から
「ぎゃっ!」
っと言う男の声とが殆ど同時に聞こえ、メイリー・ミーの喉元に突きつけられていた剣が弾き飛ばされる。
すぐ目の前に、私がさっき椅子から立ちあがる時に倒してしまった私の杖が転がっている。
慌てて武器を拾い上げようとした男を、ジェイドが剣の柄でしたたかに打ちすえて昏倒させた。
グラントは大きなストライドで、もう一人の男に右手に持った長剣で斬りかかり、ほんの二、三合の斬戟で彼の手から何本かの指と剣とを奪い取り、左手の短剣で肩と腕の腱だけを切断する。
倒れる男に一瞥もくれず、そのままの勢いで彼は洗面台の前の女に走り寄り、女が横に薙いだ刀身を頭を下げて空を切らせ、低い体勢から鳩尾目がけて蹴りを繰り出した。
蹴り飛ばされしたたかに背中を洗面台に打ちつけながらも、女は剣を手に体勢をととのえ抵抗を試みようとするが、すでにグラントの長短の二本の剣が彼女の喉元に突きつけられていた。
強い……。
あまりにもあっという間で、そして圧倒的な制圧だった……。
「……そこまでだ」
グラントが静かに言い、ジェイドが女の手から剣をもぎ取った。
私はのろのろと体を起し、半分失神状態で座り込んでいるメイリー・ミーに怪我は無いかと確認した。
剣を押し付けられていた喉元に小さな切り傷があり、血がにじんだ様が痛々しい。
殴られたらしい頬と、強く掴まれて捩じり上げられていた腕が赤くなっているけれど、どうやら骨には異常はないようだ。
なんだか現実感がなくて妙な感じがした。
私が倒れ際に刺したペンが昏倒したままの男の太腿に突き立ったままなのが、何か悪い夢の一場面のように思わせる。
「ああ……駄目だ……」
ぼんやりとしている私の耳に、ジェイドのうめき声が聞こえた。
振り向くとジェイドが陶器の洗面器の中の、黒く焦げた楽譜やメモを見て首を振っているところだった。
「……メイリー……大丈夫?……立てる?」
声をかけるとメイリーは真っ青な顔色ながらも気丈に頷いた。
私は杖にすがり、立ちあがって胡桃材の机へと向った。
途中、タオルで女を後ろ手に縛り上げているグラントと目があう。
なんだか彼はとても怒った眼をしてこちらを見ていた。
「大丈夫よ。私は目から入った映像を覚えておくのが得意なの……。だから……さっきの暗号文は全部記憶しているわ。今、きちんと書き出すから待っていて……」
ジェイドが驚いたような表情で私を見る。
机の引き出しから予備のペンを取り出し、暗号の文字を書きだそうとした私の元にグラントが歩いてきた。
「なぜキミは……自分の命を危険に晒すような無茶ばかりするんだ……」
思ったようには役立てなかったけれど、少しは彼らの注意を引き付ける事は出来たと思う。
礼を言われるならともかく、どうして私が非難されなければならないのか。
「そういう性分なのですもの、仕方がないわ」
私がそう言うと、グラントが言葉にしがたい辛そうな……悲しそうな表情で私を見る。
「キミはもっと自分を大事にした方がいい……」
深い吐息とともにそう言ったグラントのその言葉と彼の表情が、私の胸に、深く浸み入るように残された……。




