amethyst rose
何か『事』が起きたのだと言うことは、港に入ってほどなく気づいていた。
私たちが乗船する予定になっていた大型の客船『amethyst rose』の前には壊れた木樽が幾つも散乱し、周囲は水びたしになっていたのだから、何かあったと思わない方がおかしいだろう。
出航準備をしていたのだろう水夫や荷役が大声で何事かののしりあう声が聞こえ、見ると何人もの人間がにらみ合うように……または途方に暮れた様子で立ち尽くす向こう側に、引き棒と車軸の折れた荷馬車が放置されている。
少し離れた場所で馬車を止めたグラントが、私の膝の上に軽馬車の手綱を乗せると
「すぐ戻る」
そう言い残し、ざわつく人ごみをかき分け、船の方へと小走りに消える。
私はメイリー・ミーから預かった楽譜入れの束を抱えたまま、喧噪に満ちた辺りを見回し、耳を澄ませた。
乗船を予定しているのだろう、裕福そうな旅行服に身を包んだ年配の男女が眉をひそめて壊れた馬車の方を指さして何か言っているようだ。
遠くから興奮した馬の嘶く声が聞こえる。
乗船前の客に土産物を商う女が、同業の老人と話をしながら肩をすくめた。
ほどなく人ごみの中からグラントがジェイドを伴って戻ってきた。
「何があったの?」
グラントの手を借りて馬車から下りながら私が聞くと、ジェイドが渋い表情で首を振りながら答える。
「水夫同士の喧嘩があったんだ。……それが原因で船に水の樽を運びこむ荷馬車の馬が暴れて……」
壊れた樽と水浸しの船着場はそれが原因か。
納得は出来たけれど、ジェイドの表情の厳しさは事がそれだけに留まらなかった事を物語っている。
「出航時間が2時間ほど遅れるようだ」
彼の言葉の続きをグラントが引き取る。
一刻も早くこの地を離れたい私たちにとって、それはありがたくない状況だった。
私が下りた後の軽馬車にジェイドが身軽に飛び乗った。
借り物の馬車を返しに行くのだろう。
「メイリー・ミーは無事なの?」
船に向って歩きながら私はグラントに聞いた。
「先に船に乗っているそうだよ。部屋に入って鍵を閉めておくよう言ってある」
「そう……良かったわ……」
溜息をつく私の少し前を歩いていたグラントが突然立ち止まって、振り向く。
「フロー……この先は少し混雑しているようだ」
確かに、船の前は荷役や水夫、乗船客相手の商売をする人間や2等3等客室への乗船待ちの列に、それらの人々を見送りに来たと思しき人間達でごった返している。
「ちょっと失礼するよ」
一言そう言うと、グラントは私の膝のあたりをドレスごと抱えて持ち上げた。
「……っ!」
目線の高さの急激な変化に、私はバランスを崩しそうになってグラントの帽子の上から頭を掴んだ。
片手には楽譜の束と杖を持ち、もう片方の腕にはバッグを掛けているのでとても不安定で怖い。
「グ……グラント…!危ないわ、おろして頂戴っ!」
人ごみをものともせずにかき分けて進みながら、グラントは
「俺の肩に腰を下ろすといい。急いで船内に入りたいから申し訳ないけど、そこで我慢してもらえるか?」
そう言ってどんどんと歩いてゆく。
私にこの人ごみの中をこの脚で歩けるかどうか、相当に怪しいことは認める。だけれど、それにしたってやることが唐突で乱暴ではないだろうか。
ただの商人であると信じていた頃よりも、今の方が色々と見えて来ている筈なのに、むしろ私にはグラントがどんどん分からなくなってきた。
エドーニアで、丁寧な口調や物腰に騙された自分の愚かさが憎らしい。
最近の自分の心の不安定さは、どうにもこの男が原因しているような気がして腹が立った。
「この……原題に混入した文字がどうやら問題のようだな」
夜になってようやくフィフリシスの港を出港した大型客船の船室の一つで、私とグラント、そしてジェイドの三人はメイリー・ミーから渡された楽譜の束を前にして話をしていた。
船は破損した水樽の代わりを積み込む為に出航時間が二時間近く遅くなっていた。
明るい間は私も乗船する人間に目を光らせていたのだけれど、日が傾き暗くなってしまっては、不審な人間など見つけられるものではない。
とりあえず船がアグナダ公国の王都近くの港リネへ到着するまでの間、私やメイリー・ミーはなるべく部屋を出ない事と、出る時にはグラントかジェイドを伴うようにする事などを取り決めていた。
グラントとジェイドも戸じまりを厳重にするのは言うまでもない。
私は、ボルキナ国が本当にフドルツ山金鉱の不正に関わっているのなら、軍を動かしてでもこちらの動きの阻止に出るのではないかと不安な気持ちになったのだが、グラントはそれはあり得ないと言う。
第一に、向こうは老ラズロが不正の証拠をメイリー・ミーに託した事実を把握していない事。
さらには、この大型客船「amethyst rose」が、アグナダ公国船籍の船であることなどを彼は上げた。
「表面的に言うならボルキナ国は、アグナダ公国ともリアトーマ国とも正常で良好な外交関係にあるんだ。そんな中、この船に対して軍や憲兵なんかの公的機関を使って、強硬な策に出ることはまず無いと思っている」
10年もの時を掛けて周到に工作を行ってきた国……組織が、ここに及んで迂闊な動きをする訳がないと言うことは、私にもすぐに分かった。
そしてそれは裏を返せば、この件をグラントがアグナダ公国やリアトーマ国に報告を行っても、ボルキナ国の画策した陰謀である証拠はそう簡単には出てこないだろう事を暗示していた……。
「メイリーはどうしている……?」
グラントに聞かれ、私は胸にのしかかった重い気持ちを振り払うように、ふっと息を吐き出し
「泣き疲れて、今は部屋で眠っているようよ……。一応鍵を掛けてから部屋を出てきたのだけれど……」
と、腕にかけたバッグを彼に見せつけるように少し上下させた。
可哀そうなメイリー・ミー……。
船内でグラントと再会した時には、それは嬉しそうな様子をしていたのに……。
何も知らずに普通の女学生として生活を送っていたある日、見知らぬ人間である私に渡された手紙によって自分が人質にされているかもしれぬ可能性を示唆され、状況も把握できぬままこの船まで連れてこられたメイリー・ミー。
……小さい頃から良く知っているグラントに再会出来たのもつかの間、その彼から自分の父の死を知らされることになるなんてこと、誰に想像できるだろう……。
はじめグラントは、自分が人質に取られていた事を知って老ラズロを心配していたメイリーに彼の死を伝えなかった。
老ラズロからの手紙や、彼から贈られたと言う楽譜の束の事を事細かに質問し終わるまで、彼女からきちんと話を聞かなければならなかったせいだ。
その事もメイリーを傷つける事になったかも知れない……。
幼いころから良く知るグラントと旧交を温める為の他愛のないやり取りもなく、父がどうしたかの質問にも答えてもらえぬままに、次々と手紙や楽譜について答えさせたのも、それら事務的必要事項を満たし一刻も早く彼女に老ラズロの事を知らせるためだったのだけれど……。
「お父様……お父様……お父様……」
ただただそう繰り返しながら泣き崩れるメイリー・ミーをジェイドが支え、私が付き添って部屋まで連れて行った。
ジェイドが部屋を去り、私はベッドに倒れて激しく泣きじゃくるメイリーと二人でその場に残された。
メイリーの嘆きと悲しみに、私の胸は激しく痛んだ。
重ねまいとしても、どうしても父を目の前で失った自分と彼女とが重なる……。
あの時の、一人ぼっちで……辛くて、悲しくて……孤独だった気持ちが蘇り、どうしても彼女を一人残して立ち去ることが出来なかったのだ。
グラントは、残酷なくらいに包み隠すことなくメイリー・ミーにすべてを語った。
老ラズロの死がラズロ・ボルディラマ自身の手によることも、それがメイリー・ミーを救い出すためだったことも……。
床に膝をつき、ベッドに突っ伏して激しく泣きじゃくるメイリー・ミーの背中に、私はそっと手を回して彼女を抱きしめた。
言える言葉なんてひとつも思いつきはしない。
ただ黙ってメイリーの赤褐色の髪や、背中を私は撫でた。
しばらくの間、メイリー・ミーは言葉にならない嗚咽を漏らし体を震わせて涙を流し続けていたのだけれど、何かに縋らずにはいられないといったように私の腕を掴み、泣きじゃくりながら言った。
「お父様は……私のせいで、死……死んでしまった……私のせいで……私の……っ」
締め付けられるように胸が痛んだ。
この子は、あの時の私と同じ……。
「お願い、メイリー……そんな風に言わないで。貴女を苦しめたくて貴女のお父様は亡くなられたんじゃないわ」
「私がいなければ、お父様は……私が……。わ……私の……」
しゃくりあげる合間に、尚もメイリーは自分を責めることをやめない。
「貴女を、護りたかったのよ。命を賭けてでも、貴女に生きていて欲しかったから……」
だから、お父様は……。
「あ……アナタに、何が分かるの?私とお父様の事、何も知らないのに……そんな」
涙に濡れた顔を上げ、メイリーは怒りに満ちた目を私に向けた。
何でもいい、何かに怒りを向けたい彼女の気持ちはよく分かる。
「何も知らない癖に……!」
確かに、私はメイリーとメイリーの父、ラズロ・ボルディラマとを知らない。
けれども、老ラズロは自分の命と国への忠誠心や己の名誉を守るため、そうしようと思えば彼はメイリー・ミーを犠牲にすることも出来たはずなのにそれをしなかった。
この娘を愛していたから……。この娘に生きていて欲しかったから……。
私の腕を掴むメイリーの手に、もう片方の手を添えて、私は小さな声で語った。
「ごめんなさい。貴女と貴女のお父様の事を私は何も知らないわ……。ただ、私のお父様もね……私の命を助けて……亡くなっているの」
怒りのこもる眼で私を見ていたメイリーの瞳から怒りが薄れ、また新たな怒りがそこに溢れるのが見えた。
「……嘘だわ……そんな作り話で……」
否定の言葉を遮るように、私は静かに、でも断固として話を続ける。
「私がまだ7歳の時よ。父と私の乗る馬が雷に驚いて……ね、私達は崖下へ落ちて行った……。お父様は私をその胸で庇い、ご自分は頭を強く打って……私の目の前で亡くなったわ。この脚はその時の怪我が原因よ」
淡々と話す私の言葉を、メイリーは怒りの消えた瞳で聞いていた。
私の話はただ彼女の耳を素通りするだけで本当には届いていないかも知れないけれど、それは別に構わない。
今は自分の悲しみと苦しさでいっぱいいっぱいで当たり前なんだもの。
「私のこの脚ではダンスも踊れないわ。馬には乗れるけれど、それも長い距離は行けない。走り回ることも出来ないけれど、お父様の救ってくださった命を大事にして生きている。……メイリー・ミー。貴女は、貴女を本当に愛して下さったお父様に戴いた命に、誇りを持って生きてゆかねば行けないんじゃなくて?」
話ながら、私は涙を堪えるのに必死だった。
「貴女が自分を責めることなんて、きっとお父様は望んでいないわ。……ただ、愛する貴女に生きていて欲しかっただけ。……そうじゃないの……?」
胸が苦しくて、苦しくて、激しく痛む。
「……私も……お父様に……生きていて欲しかったの……」
メイリー・ミーが震える小さな声でそう呟いた。
「分かるわ……メイリー……でも……」
私はメイリーの涙に濡れた頬にそっと唇を当て、彼女をギュッと抱きしめた。
「ただ、貴女のお父様の為に、自分を責めないであげて……」
その言葉にメイリーは泣きながら、微かに頷いたようだった。
この先、アグナダ公国が老ラズロの死をどのような形で公表するかは分からないけれど、事情を知る人間の中には、ラズロ・ボルディラマを娘可愛さで国を売ったと考える人間も出るかもしれない。
彼は公国への事実報告をせず、公の場での裁きを受ける事を厭い自死を選んだ卑怯者と言われる可能性もある。
メイリー・ミーは強くならねば生きていけない……。
そうか……。グラントはだからこそメイリー・ミーに全てを、包み隠すことなく話したのだ……。
私はそっと部屋を離れながら、予てからの胸の痛みが気持ちの悪さに変わるのを感じていた。
私は、嘘つきだ。
メイリー・ミーに自分を責めないで誇りを持って生きろなどと綺麗事を言いながら、私は、自分に誇りなど持った試しがない。
私のお父様もメイリー・ミーの父同様、私を愛していたからこそあのような最期を遂げた事は承知しながら、私は何度もそれを恨み、嘆いていた。
私は、惨めな偽善者……。
でも……だからこそ、メイリーには強く前向きに生きていて欲しいと、心から思っていた。
彼女は私には得られぬ幸せを、明るい場所で……。
「君はもう、休んでいた方がいい」
表情の冴えぬ私を気遣い、グラントが言う。
私は首を振った。
今は一人、部屋に閉じこもっていたくなかった。
少しでも誰かの役に立ちたいと思った。……相手がグラント達だとしても。
「大丈夫よ疲れていないわ。お願いだから手伝わせて」
言いながら、メイリー・ミーが老ラズロから贈られたと言う楽譜を私も覗き込んだ。
彼女の話ではこの楽譜は老ラズロが、古いアグナダ公国の歌を学内の音楽会の折に歌いたいと言うメイリーの求めに応じ、学校の音楽担当者に送付したものらしかった。
楽譜の束には担当者に宛てた手紙が同封されており、楽譜自体がメイリー・ミーの亡き母親の持ち物であり、使用の後には是非メイリー・ミーへ渡してくれるように要請する内容がそこには書かれていたそうだ。
老ラズロからメイリーへ届けられた手紙類はすべて封蝋が緩んでいたり、一部欠けていたりなど、中を検めたような形跡があったと彼女は言っていたが、学校宛てに直接送られた……それもたくさんの人間の目に触れた楽譜が重要な意味を持つとは、監視の人間も考えなかったのだろう。
楽譜を渡されてその話を聞いた時、メイリーの母が音楽に親しんでいたなどと言う話を聞いたことがなかった彼女は、とても不思議に思ったそうだ。
楽譜にはアグナダ公国の文字で曲の名前が入っているが、その下に後から書き加えられた古い時代の文字での原題が入っている。
その文字には私は見覚えがあった。
あの時……ラウラの結婚式からの帰りの馬車で、グラントが懐から落とした紙片にあった文字と同じ……。
古代アグナダ文字を使った暗号だ。
2012・9・17
ご指摘いただきました誤字、脱字・誤変換等修正しました。




