小夜啼鳥3
「メイリー・ミーはまだ、自分のお父様が亡くなられたことは知らないのよね……」
修道院で出会った時のメイリー・ミーの、あの元気そうな可愛らしい様子を思い出し、私は思わず溜息をついた。
自分が今どんなに危険な状況にいるかも知らないあの娘を守るために、恐らく老ラズロは自らの命を絶ってその後をグラントへ託したのだろう。
正直政治的目線から言うなら、老ラズロのした事は卑怯な手段だったと思う。けれど、国を裏切っても、そして命を賭してでもラズロ・ボルディラマはメイリー・ミーを護りたかったのだ。
私はどうしても自分と彼女を重ねずにはいられない。
お父様は私を、命を掛けて守ってくださった。
その気持ちを無駄なものに出来ないからこそ、今私は生きてこの場にいるのだ。
ジェイドが何か言いたそうにこちらを向くが、私は首を振ってそれを制止した。
「ごめんなさい、分かってるわ。今メイリー・ミーにそんなことを知らせては、彼女の様子から周囲に何かあった事を気づかれてしまうわよね」
本当のことを知った時、どれだけ彼女は悲しむだろう……。
それを思うと、私の胸も痛んだ。
「……それで、私は明日は何をしていればいいのかしら?」
なんとか気を取り直して顔を上げた私に、グラントはしばし思案してから口を開く。
「メイリー・ミーの為の着替えの用意は……」
「それならさっき私の部屋へ届いたわ。貴方のご注文のとおり、ありきたりなドレスよ。それに帽子や靴も」
「そうか……なら、明日は彼女の為の旅装一式と、君自身の為の荷物を用意して貰おうかな。それと、メイリー・ミーの顔を知らないジェイドに一枚彼女の似顔絵を用意してもらいたいんだが……頼めるかい?」
「じゃあ簡単な絵の道具を用意して描いておくわ。他には何かあって?」
「いや、後は明後日の為に英気を養っていてもらいたい」
「そう? ならあとの時間は好きなように過ごさせていただくわ。それにしても残念ね。……この街は何も知らずに違う機会に来たならきっと、素敵な街として楽しく過ごせたのでしょうに」
肩をすくめる私にグラントは苦笑し、ジェイドは何を呑気なことを……と言いたげな呆れ顔をした。
「ジェイド、確認させてもらえるか」
テーブルの上の封筒を指し示すグラントにジェイドがそれを手渡す。
彼がこの店に入ってきた時から、それが何なのか気になっていた物だった。
封筒の中には二通の小さな冊子。
それを仔細に確認していたグラントが紺色の表紙のそれを私に一通手渡してきた。
身分証だ。
「……フロー・エマリア・B……これ、もしかして、私?」
偽造だとは思うが、アグナダ公国発行を証明する印も押してある身分証だった。
「フローと言う名前しか教えていただけないようなので、こちらで適当に作らせてもらいましたが、どこへ持って行っても通用するものです」
事務的な中に不機嫌さが見え隠れする様子で、ジェイドが言う。
アグナダ公国発行の本当の身分証がどういうものか私にはわからないけれど、確かに印字も紙質も上等で立派なものに見える。
……そう……。身分証がないばかりに私は大型船「レディ・ダイアモンド」からこのフィフリシス市へ入る時、酷い目にあったのだ。
だいたい自分の部屋から部屋着に室内履きのまま攫われた人間が、身分証なんてものを持っている筈などないのだから、その辺はグラントが全面的に悪い。
……なのに、どうして私が二度も木箱の中に詰め込まれねばならなかったのか……。
不快な経験を思い出し、ムっとした表情で黙りこんだ私を見て、何か勘違いした様子のジェイドが不機嫌な表情のまま……しかし、若干気遣う気配を声色に滲ませて
「年齢も適当に入れてもらってますけれど、他意は無いです」
そんなことを言った。
年齢?
身分証の年齢表示を見る。
「……26歳……」
私は愕然とした思いでその数字を見た。
そして愕然としたまま、向い側に座るジェイドを見る。
私はそれくらいの年齢に見えているのかしら……?
「じょ……女性に年齢を尋ねるのも気がひけたので、本当に、適当に入れただけですから」
慌てたように私から目をそらすジェイド。
グラントは口の端を引きつらせて、笑いを堪えたような顔をしている。
名前を正式名称で答えろと言われたり、年齢を教えろと言われたらまともに答えたかどうか自分でも怪しいとは思うけれど、それにしても4歳も多く見られていたのかと思うと、何とも言えずガッカリした気持ちになる。
「まだ……22歳なのに……」
私は唇を尖らせて、小さな声で言った。
本当はもうすぐ23歳になるのだけれど、今現在は22歳であることに間違いはないんだから。
ジェイドがグラントに目で助けを求めるのが分かった。
大人しく黙って謝罪すればいいものを、これだから男と言うのは……。
「まあ、あくまでも便宜上年齢欄を埋めただけのものだ、気にしないでくれるとありがたいんだが……ね」
「……そうね、これがあればもう二度と狭い箱の中に押し込まれないのなら、私は別に構わなくてよ」
毒を込めて言う私に、グラントは口元に引きつった笑みを湛えたまま、黙って私の前の空になりかけた杯に赤いワインをなみなみと注いでくれた。
「……ところで、この名前のフロー・エマリア・Bの、Bはなんの略と言うことにすればいいのかしら。適当でいいの? それとも何か意味がある?」
「そうだね、適当にブリナーとかビスタとか言ってもらっても構わないけど、場合によってはグラントの妻のバーリーを名乗ってもらうかも知れない」
彼の言った言葉の意味を理解して反応を返すまで、もしかしたらたっぷり10秒間くらいは掛ったかも知れない。
グラントノツマノバーリー……。
それはもしかして グラント の 『妻』 の バーリー と、言うことだろうか?
……私が?
「な───何の為に?」
内心動揺しながら問う私に、グラントは目を細めて微笑みながら答える。
「強いて言うなら、二人の今後の幸せの為に」
臆面もなく……一体何を言うのだ、この男は。
怒りか恥ずかしさか、自分のことながら何と表現していいのか分からない混乱した感情に赤面しつつ、私はなんとか手元の杯の中身を目の前の男にぶちまけるのを我慢することに成功した。
「……グラント、貴方は殴られるのと頭からワインを浴びるの、どちらがお好みかしら……?」
声を震わせる私に、グラントは残念そうな様子で小首を傾げた。
「いや……それは、どちらも遠慮させていただこうかな。……そういう事もこの先にあるかも知れないと言うことだよ。ま……なんだ、今回はそう言うことにしておこう」
何が今回は……なのかしら。馬鹿にしている。
「この先と貴方は仰るけれど、メイリー・ミーの件がうまく行った後、貴方達は私をどうするおつもり?」
また私を海に沈めるなんて、まさか言い出しはしないでしょうけれど、彼らにとって私は急場しのぎの人材に過ぎない。
そうは言っても、ボルキナ国がリアトーマとアグナダにとっての『敵』である可能性のある今、事の顛末をある程度知っている私をこの街に置き去りにするのは得策とは思えない。
だからと言ってどちらへ転ぶか分からぬ情勢の中で、大人しく私を本国へ帰してくれるのかどうか……。
なにしろ私は色々と事情を知りすぎているのだから。
グラントとジェイドの顔を交互に見据える私の鼻先で、ジェイドが意味ありげな眼を一瞬グラントと交わしあう。
「そうだな……」
思案するそぶりのグラント。
「キミには申し訳ないんだが、もう暫くは俺達と付き合ってもらいたいと思っている。これがうまく行ったなら、アグナダとリアトーマとの両国間で何らかの協議が……まあ、その……秘密裏にもたれると思うんだけど、それが結論を見るまでの間は君を帰すわけには行かないだろうね……」
静かな声でグラントがそう言った。
大柄な体躯に不精ひげ、普通なら粗暴そうに見える筈のグラントが紳士的に見せるのはこの声や話し方、それに理知的な瞳のせいだろうと私は思っている。
「そう、わかったわ」
別段グラントの答えに予測がつかなかったわけではない。
だから私は比較的冷静にそう答え、普通に食事の続きを続けられたのだと思う。
……だけど、何故だろう。
心の奥底で、私は安堵の気持ちを抱いていた。
この街、フィフリシスのような人工的華やかさこそありはしないけれど、誰にも誇れる美しい自然に溢れたエドーニアを、お父様同様に私は心から愛していたはずだ。
なのに、どうしてか私の心はエドーニアへは暫く帰ることが出来ない現状を、喜んでいる……?
宿の自室に引き上げ一人きりになった私は、心からは落ち着くことは出来ない仮の住処をぐるりと見渡した。
柔らかすぎるベッド。
重厚感を出すためか、あまりにも暗い配色の家具達。
座り心地は悪くないけれど、どうにも落ち着かない椅子。
ここでは道具の一つ一つをまた集めなおさねばまともに絵を描くことすら出来ず、私の気性や生活を熟知する使用人もいない。
エドーニアの私の館は、どうなったのだろうか?
グラントはお酒に眠り薬を混ぜただけだと言っていたけれど、それを飲んだシェムスは無事だろうか?
私がいなくなった事をシェムスはもうきっと屋敷にも連絡しただろうけれど、この事で彼は酷い罰を与えられたりはしていないだろうか……?
それに……私がいなくなった事を……屋敷の人々はどう思ったことだろう……。
母様や……兄様は……。
「エドーニアに帰りたいわ」
私は小さい声でそっと呟いてみた。
声にはほんの少しも感情が籠らず、寒々しい程に嘘っぽく聞こえた。
「エドーニアに、帰りたい……わ」
もう一度言う。
私は自分の声が震えるのを腹立たしく思った。
気がつくと私の両の目はとめどなく溢れ出る涙に濡れて、唇だけでなく体までもがブルブルと震えだした。
自分の心の弱さが腹立たしくて、情けなくて仕方がない。
私は手にした杖をベッドに投げつけ乱暴にドレスを脱ぐと、寝台に潜り込んで枕に顔を埋める。
私はエドーニアを愛している。
美しい土地だ。
だけど、あの場所は私にとって、母様や兄様からお父様を奪った罪に対する贖罪の土地でもあった。
私は生きてあの土地で詫び続けねばいけないのに、こうして遠くへ来たことを、しばらくは帰れない事を、心のどこかで安堵している。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
誰にともなく詫びながら、私は声を殺して泣いた。
外には欠けた月。
薄薔薇色の街を照らすこの同じ月が、エドーニアの森と湖沼を照らしているのだろうか……。
2012・9・5
2015・1・14
誤字脱字等修正いたしました。
ご報告ありがとうございます。




