夜来鳥1
……ここではない世界
今ではない時を刻む物語
夜闇をものともせずに飛ぶ鳥がいる。
遥かな東の国に生まれたこの鳥は、かの国においては貴人達の恋文を運ぶ使いとして幾つかの古詩にも読まれてもいた。
しかしこのレグニシア大陸にその鳥は本来生息することはなく、存在を知る人間もさほど多くはないだろう。
部屋の隅の金色の籠の中から一羽の鳥が静かに私のことを見守っていた。
青みを帯びて艶やかな黒い羽を持ち、形は鴉に酷似するが、夜闇を見通す瞳は暗闇にあって炯々たる緑色の光を放つ。
『夜来鳥』と東の国で呼ばれる鳥は、詩句に謡われた姿のままにひっそりと羽を休めていた。
……艶やかでエキゾチックな絹と錦に身を包んだ貴人達の、みやびな文を運ぶ鳥。
机に向かい、私はペンを走らせる。
今この時に同じ屋根の下に眠っている『彼』の姿形を眼裏に蘇らせ、手早く精密に、その似姿を紙の上に写し取りながら、これからこの鳥が何を運ぶかを思い皮肉な笑みに唇が歪んだ。
笑みを潜めたような口元には無精ヒゲと片側だけのエクボ。
意志の強さをあらわした顎のラインと、四角く形のよい額。
無造作に束ねた癖の無いこわい砂色の髪。
『対象』を、なるべく正確に……特徴を捉えて写し取る作業は、これまでにも何度も繰り返してきた『仕事』だ。
似姿に特別な顔料で大まかに髪の色や瞳の色を乗せて、誰が見てもこれが『彼』だと分かるモノが仕上がるまで四半時とはかからない。
極薄い紙をくるくると丸め、夜来鳥の脚環の文筒に入れて封をする。
机から鳥かごへ、鳥かごから窓辺へ……。
なるべく音を立てぬように気をつけて歩いたけれど、どうしても不自由な左の足は引きずってしまう。
厚い敷物に覆われた床だ。
恐らく下の階で眠る彼の耳には入っていないだろう。
窓の鍵をあけて鳥を放てばほんの一時間ほどで、夜来鳥はこの一帯を治める領主の部屋のバルコニーへと到着することだろう。
すでに夜更けて遅い。
領主が鳥に気づくのは朝になってからかもしれないが、一両日中には絵姿の男の動向を探る『目』が動き出すだろう。
その後のことは、私には窺い知れぬ事。
二度と『彼』と会うことは無いかもしれない。
今夜は楽しい夜だったけれど、楽しさは偽りの仮面の下で砕け散ってしまった。
悪いのは私じゃない。
私は私の仕事を全うするだけ。
だけど……どうしてこんなに苦しい気持ちになるのか。
窓の掛け金に伸ばした手を戻し、歪んだ笑みに強張ったままの唇に触れると、夜道で交わした口付けの感触が蘇ってきた。
彼にとってはほろ酔い気分でのほんの戯れだったかも知れない。
もちろん、私だってそのくらい分かっている。
ただ一瞬夢を見るくらい、私にだって許されてもいい筈だ。
殊に、今日はラウラの綺麗な花嫁姿を見た帰りだったから、ほんの一瞬だけ、愚かな夢を見たってしかたがない。
翡翠亭の娘ラウラは、私がこの街に下って来て以来7年間、ある程度懇意にしてくれている娘だった。
あくまでも『ある程度』に過ぎないけれど、それでも小間使いのチタや、この街の同世代の顔見知りの娘達よりはずっと 打ち解けた態度をとっていてくれていたラウラ。
「フローお嬢様にも結婚式に顔を出してもらえたら嬉しいんですが……」
と、彼女がはにかんだ表情で言ったのは、たしか先月の半ばの事だった。
店の奥で聞いていた女将のエッダは
「お嬢さんに来ていただこうなんて、失礼なことお言いじゃないよ」
と、ラウラを叱ったし、帰りの馬車を駆るシェムスも無言のままに背中で不賛成を表明していたけれど、私はラウラが声をかけてくれたことが嬉しかったし、彼女の結婚を心から祝福していたから
「エッダ、皆さんのお邪魔にならないようにすぐにお暇するから私にもお祝いさせてくれない? ……ラウラ……きっと素敵な花嫁姿でしょうね。とても楽しみだわ」
私はラウラが気持ちを変えてしまう前にと、急いでそう答えたのだ。
翡翠亭に『客』として行く分には構わないだろうが、私のような得体の知れない『お嬢様』が愛娘の結婚式に紛れ込むことが迷惑であることくらい分かってる。
「お邪魔だなんて……とんでもない、お嬢さん」
エッダは驚いた顔をしてオロオロと否定したけど、実際、このエドーニアの人間が私のことをなんと思っていることか……。
私が暮らしている街外れの館は、20年程前まで王都フルロギの豪商が別荘として所有していたものだった。
何年も空家となっていた屋敷を修繕しはじめた時、街の人達はどんな人間が来るかと話していたそうだ。
家督を譲った老貴族が住み着くか、大きな街の富豪が別邸として夏場に訪れたなら気にする者もなかっただろう。
けれど、数人の従者を引き連れた脚の悪い娘がどこからともなく現れて住みついたとなれば、人の口に上らぬ方が可笑しいと言うものだ。
不自由な脚のせいで社交界入り出来ない貴族の娘が、世間の目から逃れるために移り住んで来たか、それともどこかのお偉い人の落とし胤が隠れ住んでいるのかと人々は話題にしたが、本人はもとより周囲からも一向に素性のヒントすら出てきはしない。
従者には口の堅い信用できる人間だけを選んで連れてきたし、私自身、生家の事は口にしないのだもの……当然だ。
大きな館ではないにしろ立派な家に住み、使用人を使い、華美ではないにしろそれなりの生活を送っている娘がいわゆる平民の筈もない。
それでも私が館に閉じこもってでもいれば良かったのだろうけれど、私は一人で馬を駆り、またはシェムスに馬車を御させては街をうろつき、杖をつきつつ翡翠亭のような宿場兼酒場に気安く出入りしては食事を摂るともなれば、嫌でも人の目を引く。
街の人たちは私の事を『お嬢さん』『お嬢様』または『フローお嬢様』と呼んでいる。
出自も生家も身分も分からぬ……『お嬢様』
こんな人間に来られてはお邪魔だろうけれど、私は本当にほんの少しだけ幸せな花嫁姿のラウラを見て、心ばかりのお祝いを届けたなら早々に退散しようと、そう思っていたのだ。
ラウラの結婚式の日にあんな事があり、また、たまたま『彼』が翡翠亭に来合せてさえいなければ。
シェムスの御す一頭立ての小さな馬車で、いつものように私が翡翠亭に到着したのは結婚式の始まる少し前。
まだ正午を回ったばかりの時間だった。
ふだんより丁寧に髪を結い上げ、悪目立ちしない程度にお洒落なドレスを身に着けた私は、馬車を裏手に回した後でお祝いの品を店内に運び込むよう言いつけると、店名にもあるカワセミのドアノッカーを飾りにつけた樫の扉をくぐった。
店内にいた招待客たちとマスターや女将のエッダが一斉にこちらを見て、すぐに困惑した表情を浮かべる。
いくら煙たい存在ではあろうとも、ここまで落胆されるほど酷いことした覚えなど無い。
「ああ……フローお嬢さん、ようこそいらっしゃいませ」
いつもの実用的なエプロン姿ではなく、ふくよかな胸の上に入り組んだ花模様のレースが幾重にも重なる豪華な衣装を着けたエッダが、弱弱しい笑みを浮かべて私に挨拶の言葉をかけに来た。
「一体どうしたの?なにかあった……?」
「いえ、たいしたことじゃないんですお嬢さん……」
言葉とは裏腹にエッダの表情はさえない。
店の奥のステージの周囲にいた何人かが、険しい表情で話す言葉がざわめきをついて耳に入った。
「ディカロの部屋はもぬけの殻だって」
「あいつ……ラウラの事が好きだったんだよ」
「だからって当日にこんな……最低じゃないかよ。どうするんだ? シェンバル弾きを今から手配出来んのか?」
……ディカロ……?
そう言えば、いつもこの翡翠亭でシェンバルを弾いていた小柄な男がそんな名前だったような気がする。
彼が一体どうしたと言うのか?
「どうやら、困ったことになっているみたいですよ。フローお嬢様」
様子を伺いながら入り口を離れ店の隅に移動した私の耳元に、後ろからかがみこむように長身の男が言葉をかけてきた。
驚いて振り向くと、そこに『彼』……グラント・バーリーが、いたずらめかした表情で立っていた。
「グ……ラント。あなた、いつここへ……」
「先ほどです。今夜の宿の予約がてら昼食を摂りにここに立ち寄ったら、ラウラの結婚式だと言うじゃないですか。これは幸せな花婿がどんなヤツなのか拝んでゆかねばと思いまして」
話しながらグラントは、大勢の人間を入れるため店の壁際に寄せられた椅子を一客引き出して私を座らせてくれた。
言葉の気安さとは裏腹に、初めて出会った時と変わらぬ慇懃な物腰が心地よい。
「ありがとうグラント。ねぇ一体何があったの?」
「どうやらラウラ嬢に岡惚れしていたシェンバル弾きが、結婚式の音楽を引き受けながら土壇場で消えうせたようです」
「まぁ……なんてことを……!」
本来なら結婚式の参列者を陽気に出迎える筈の音楽が、どうりで聞こえない筈だ。
弦楽器のウードやブリーヨン、管楽器のフェタを手にした男女が、ステージのシェンバルの空席を困り果てた顔で見上げている。
式の進行を盛り上げる音楽の要とも言えるシェンバルを欠いて、途方にくれているのだ。
「酷い……せっかくのラウラのお式に……」
いくら自分の思いが叶わなかったからといって、こんな腹いせをするとはなんて卑怯な男なのかと、私は心底腹がたったし、同時に情けない気持ちにもなっていた。
ラウラは本当に良い娘だし、ディカロを傷つけるような振る舞いをしたとは思えなかった。
彼女は幸せな花嫁になるべき娘なのに……。
「どうしましょう女将さん。今からシェンバル奏者を手配するとなると……イーダの娘じゃ未熟だし、ダルハはいま街にいないし」
「誰か……心当たりはおいでじゃないかい?」
エッダが身を揉むように周囲に目をさまよわせている。
ああ……本当に、なんでこんな酷いことに……。
「……助けて差し上げたいものですね」
象牙の杖の柄を手が白くなるほど握り締め身をよじる私に、グラントが呟くように言った。
「なんとかならないのかしら……誰か……。ああ、ラウラのお式なのに!」
「じゃあ……助けて差し上げなければいけないでしょうね……」
ではグラントには心当たりがあるのだろうかと椅子の上からグラントを見上げると、彼は良く通る低い声で楽団員とエッダに向けて、こう言った。
「シェンバル弾きならここにいます。彼女がラウラの為にぜひお手伝いしたいと申しています!」
彼の指し示す先には……私。
「……え……?」
エッダがぽかんと口を開けて私とグラントを見ている。
私もぽかんと口を開けてグラントを見た。
他の式参列者も驚いた表情をして私とグラントを交互に見つめた。
「……え?」
「ラウラを助けたいと仰いましたよね?」
にっこりと笑いながらグラントは私に言った。
確かにラウラを助けたいと私は思っている。でも……。
「まさか……でも……私……」
呆然とした気持ちで彼とこちらを見つめる参列者に目線を彷徨わせる私を、グラントは
「では失礼して」
……と目礼しつつ、有無を言わさず抱き上げてスタスタとステージまで運んでしまう。
ざわめく人々。
思いがけぬほど力強いグラントの腕に、私は赤面しながら小さくこぶしを打ちつけた。
「な……なにをするの、下ろしてっ」
「はい、下ろさせていただきますから気をつけて……」
あれよと言う間にシェンバルの鍵盤の前に座らされ、私は怒りのこもった目で彼を睨みつけるも、グラントには怒りの視線もどこ吹く風。
「助けて差し上げたいとフローお嬢さんは仰いましたよね?」
「言ったわ……。でも……っ」
「フローお嬢さんはシェンバルをお弾きになれますよね? ……ラウラ嬢の晴れの日を台無しにしないためにも、ここはぜひに……」
極めて丁寧に、低姿勢にグラントは言う。
確かに私はシェンバルを弾くことが出来る。
だけど『私』が、この席に座るなんて。
見渡すと結婚式の参列者達の驚きと好奇心に満ち溢れた目……。
ここで逃げては後々まで失笑を買うことは間違いなかった。
「覚えてなさい……っ」
キッとばかりにグラントを
ひと睨みして私は彼にだけ聞こえるように小さく呟く。
肩をすくめるグラント。
私は観衆に混ざり事の成り行きを見守っていた楽士達に、取り繕った微笑みを浮かべて会釈をひとつ送ると、ままよとばかりシェンバルの銀色の鍵盤に指を躍らせた。
もしかしたら内心の怒りを含み、はじめの音はいささか乱暴な響きを放ったかもしれない。
けれど、かまうものか。
耳に聞き覚えた祝祭の日の、陽気で軽やかな旋律を刻む。
やがて自分達のやるべき事を思い出した楽士達が慌てた様子でステージに上がり、シェンバルに絡むように軽快に演奏を始める。
当初驚きをもった静けさに支配されていた場ではあったが、やがて人々はポツポツと談笑をはじめ、座は楽しいお祝いにふさわしい雰囲気にかわって行った。
視線の端に、馬車を裏に回し終えてお祝いの品を運び込んできたシェムスの姿が映る。
ありえないモノを見た人間の驚きが、いつもは寡黙な彼からあふれ出すよう。
翡翠亭の女将、ラウラの母エッダが泣きそうな……それでいてほっとしたような顔で深々と頭を下げた。
私は笑顔でエッダに目礼を送る。
店の奥から大きな樽を持ったマスターが現れ参列者に祝い酒を振舞いはじめると、いっそう店内は楽しげな喧騒に満ちてゆく。
遅く到着した列席者が私に気づき、驚いて近の知人に事情を尋ねる場面が幾度となく目の端に入り、その反応の滑稽さに、怒りと恥ずかしさに支配されていた気持ちが弛む。
くるくると踊るような、弾むようなリズム。
さすがにプロの楽士。私のような素人奏者の音楽に上手いこと合わせてくれる。
気がつくと私は気持ちよく一曲弾き終えていた。
一瞬の静寂。
パチパチとまばらに起こった拍手の音は、やがて割れんばかりの拍手と口笛の音に変わった。
「思った以上にお上手じゃないですか」
思わぬ皆の歓声に呆然と固まっている私の手に、グラントは大ジョッキに入ったエール酒を持たせて悪びれない笑みを向けた。
もし私がとんでもない下手糞だったらどうするつもりだったのよと…心内に呟きつつ、無言でジョッキからエール酒をごくごく飲み下す。
冷えた泡酒が喉を下るのが心地よい。
「ラウラの仕度が整ったようですよ。次の曲をお願いしますと女将が」
一息に半分以上あけてしまったジョッキを恭しく受け取り、グラントは一礼して下がっていった。
次の曲もなにも、シェンバル奏者が見つからない限り私が弾きつづけるしかないではないか。
入り口の陰のあたりで仏頂面のシェムスとグラントが何やら話しをしている。
恐らく状況を説明して、私をこの場から連れ出そうとするシェムスを説き伏せているのだろう。
シャララ……と、煌くような出だしから始まる花嫁の入場曲を弾き始める。
本当ならこの曲を店の隅で聴きながらラウラの可憐な花嫁姿を垣間見たなら、すぐにもお暇する筈だった。
世の中は何が起こるか分からない。
いや、今回はグラントさえいなければこんな事にはならなかっただろうけど。
その後、私が席を立てたのは何十曲もの楽曲を奏で終え、白髪のシェンバル奏者がよろよろと到着した夜半過ぎになってからの事。
やっとシェンバルの前から腰を上げた私だったが、シェムスに帰りの馬車を回すよう指示を出す間もなく、エッダや機嫌よく酔いの回った宴客達に取り囲まれ手を引かれ、気がつけば店の奥に設えられたテーブルでワインの杯を手に座っていた。
「こんな店の隅に相すみませんフローお嬢さん。立食式にしなきゃこの人数でしたでしょう……。椅子やらなにやら出す場所が無くて……。本当に今日はなんとお礼を言っていいのか。ありがとうございますお嬢さん」
手にした杯になみなみとワインを注ぎ入れたエッダは、何度も頭を下げるとごった返す店内に消えた。
私のテーブルには赤く上気した顔で、または普段になく打ち解けた笑顔で
「いい演奏だった」
とか
「楽しく踊れた」
とか、人々がやってきてはこれまでに無いくらい打ち解けて声をかけてくれた。
もしかしたら私がこのエドーニアのはずれに住み着いて7年間に、街の人からかけられたすべての言葉よりも多くの言葉をこの時に聞いたかもしれないくらいだ。
酔った男性達が何度か私の杯にワインを注ごうと近づいてきたりもしたが、いかついシェムスが私の後ろから睨みを効かせて酔客を追い払ってくれた。
「楽しい夜じゃないですか、フローお嬢さん」
シェムスの視線をものともせずに潜り抜け、グラントが私の前に腰を下ろす。
確かに楽しい夜だった。
くたくたに疲れはしたけれど、自分の奏でる調べに乗ってクルクル踊る人達の楽しげな様子は見ていて気持ちが良いものだ。
ラウラの幸せそうな姿をステージの上からたっぷりと見ることが出来た。
ラウラ……お日様色のドレスの幸せそうな花嫁。
花婿のトレロは美男子ではないけれど勤勉で誠実そうな男性で、なによりも心からラウラを愛しているのが見て取れる。
きっと彼女は幸せになることだろう。
「そうね。楽しい夜だったわ」
顔を合わせたら嫌味のひとつもグラントに言ってやろうと思っていた私だったけれど、こんな日には眉間にシワを刻むより、笑顔の方が簡単に浮かぶことを知った。
「フローお嬢様!」
件のラウラがエッダに伴われて人ごみの中から現れ、ドレスの裾を絡げて駆け寄ると私の手を取って半泣きの笑顔で礼の言葉を言う。
「ありがとうございます……お嬢様。このご恩をどうやって返していいか……本当に分かりません……っ」
「幸せそうな貴女の姿を見れただけで十分よ。ラウラ……」
にっこりと心からの笑顔で答える私にラウラの隣でエッダがまた頭を下げた。
「しかもあんな立派なお祝いまで戴いてしまって。ねぇ、まぁ!」
エッダが指し示す店のカウンターの上には、ラウラの結婚を祝う品々が飾られ、その中に私が彼女に贈った二つのプレゼントも見えている。
ひとつは彼女の家族がたくさん増えて、楽しいお客さんがたくさん集う家庭になるようにとの願いをこめた銀のカトラリー。
ありがちだけれどあっても困らないものの筈。
そしてもうひとつは『ラウラの肖像画』
「あんまりにも生き写しに描いてあるもんだから驚いたですよお嬢さん。あんたいつの間にモデルをしたんだって聞いてもラウラは知らないと申しますし」
「急いで描いたから、まだ少し乾いていないかも……ごめんなさいね。暫くの間気をつけて頂戴」
「じゃあこれ、お嬢さんが描いたんですか?てっきりどこかの画家先生が描いたんだと思いましたよ! そう言えばフローお嬢さんが湖の辺りで時々絵をお描きなすってるって、聞いたことがありました。上手なもんですねぇ……まるきりこの子そのものですよ」
額の中から、暖かな茶色の髪に琥珀色の瞳のラウラが優しく微笑みかけている。
「お嬢さん、この絵、ラウラへ戴いたもんですけれど、ここに飾らせて戴けませんかね? いいだろラウラ? トレロの家にはあんたがいるからいいだろうけど、この家からはあんたは居なくなってしまうんだからさ。絵ぐらい置かせておくれよ」
「まぁ……母さん、どこか遠くに出て行くわけでもないのに……。だいたい当座、店の手伝いに通うのに何を言っているのよ」
「あんたにゃ……娘を嫁に出す母親の気持ちなんかわからないわよ」
不意に涙ぐむエッダをラウラは優しく揺さぶる。
睦みあう母娘。
暖かくて優しい光景にかすかに切なさを覚える。
「お嬢さんは風景画が専門だと思っていましたよ」
カウンターに立てかけられたラウラの肖像を食い入るようにじっと眺め、グラントが小声で言った。
「だいたいは風景を描くけど、人物も時々描くの」
なんとはなし、その表情に緊張した硬さを感じた私は一瞬心に首を傾げた。
でも。
「本人を見ながらじゃなくともあの出来ですか。いや、シェンバルの腕前もたいしたものと感心しましたが……。
実に多彩な才能をお持ちですね、お嬢さんは」
こちらに向き直ったグラントは深みのある声で言い、普段と変わらぬ嫌味の無い丁寧さで私に微笑んだから、あの横顔に感じた違和感は気のせいだったのかと思ったのだった。
2012・9・5
誤字脱字等修正いたしました。
ご報告ありがとうございます。