トイレットペーパーにウサギちゃん
葵君視点です。
俺の名前は佐倉葵。
県内でも進学校と呼ばれる高校に通ういたって普通の男子高校生だ。少しばかり普通と違うのは、俺が学校で番長と呼ばれていることだろうか。降りかかる火の粉を遠慮なく振り払っていただけだが、気が付けば不動の地位を確保してしまった。
そんな俺は現在片想い継続中の奥手な男でもある。誰だって甘酸っぱい恋の一度や二度は経験したことがあるだろう。
運と努力の末に俺が手に入れた地位は、初恋の相手の後ろの席。中学二年生で初めての恋は遅いのかもしれないが、俺にとっては唯一で特別な恋だ。
瞼を閉じれば今でも色褪せない思い出が浮かぶ。
喧嘩で傷ついた俺に差し出された穢れない白のハンカチ。ウサギのワンポイントも愛らしいそれは、今でも俺の宝物だ。
俺の初恋の相手、向坂藍は、学校でも有数の美少女だ。悪友が調べた結果では、密かに行われる男子間での美少女投票でベスト3から転落したことはないらしい。
好みはあるだろうが、華奢で色白な彼女は庇護欲をそそるタイプの凛とした美しさを持つ美少女だ。俺にとっては、不動の一位である彼女に似合う花は桜。桃色の花弁が風に舞う中、靡く髪を耳にかける仕草が思い浮かぶ和風美人なのだ。
容姿も美しいが、中身も凄いのが向坂藍だ。
試験をすれば学年一位。運動をすればスポーツ抜群。料理も裁縫も隙はなく、選択科目の音楽だって涼やかな歌声が美しい。
ちなみに俺の選択は美術だが、美術室の隣に音楽室があり、音楽に特に気合が入っていない学校の緩々の音楽設備のおかげで雲雀のような美声が届いてくる。雑音の中穢れなき歌声を響かせる彼女を俺が間違うはずもない。
そんな万能な彼女であれば、勿論ライバルの数だって数え切れないほど多い。
物静かで一人でいるのを好んでいる彼女に声を掛ける男は居ないが、一組の遠藤や三組の佐々岡、さらに三年の山崎や一年の岡部など、学校でも有数のイケメンが彼女を狙っていると悪友から聞いた。
無駄に情報網の広い彼からの信頼度の高い情報に、俺の胸が嫌な感じに響いたのは記憶に新しい出来事だ。
どいつもこいつも喧嘩しか特技がない俺とは違い、勉強が出来たり運動が得意だったりピアノが得意だったりと特技がある男たちだ。無駄に秀でた部分があるくせに、さらに天賦の才を得るなど嫉ましくて仕方ない。
しかし残念ながらどれだけ想いを寄せようとも、彼女が振り返ることはない。声を掛けてもあの静かな眼差しで見詰められ撃沈する様を見たが、何とも胸がすく想いだった。ざまあみろ。
俺と違いクラスも離れた奴らはアピールする時間もなければ、相手にすらされて居ない。
ちなみに俺はそこの部分だけ一歩リードだ。
席が前後していることもあり、今日も『落し物拾って大作戦』を決行している。奴らと違い毎日のアピールに予断はない。
しかしながら初日のアピールは成功したのに、それ以降は成果が落ちているのだけが気に掛かる部分でもある。
最近は顔色も芳しくないし、とても心配だ。
先日は弁当箱を持ってどこかに移動しようとした彼女の顔色の悪さについ後ろをついて行ってしまったが、顔色の悪さが心配でも今ひとつ勇気が出せない俺は自分から声が掛けれなかった。
なので彼女から声を掛けてもらおうと、後ろからトイレットペーパーを投げ続けたのだが、体調が悪化したのか彼女はトイレに入ってしまった。
流石に女子トイレの中までついて行くのはできず、かと言ってそのまま放っておくのも心配で入り口で待っていたのだが、暫くして出てきた彼女の顔色は蒼白に近かった。
心配で思わずガン見してしまったが、彼女はすぐに俯いて移動を始めたので、また後頭部狙いにトイレットペーパーを投げ続けた。
しかし結局彼女はそのまま教室へ戻ると、弁当も食べずに自分の席で腰掛けて俯いたままだった。
俺も心配で心配で胸がはちきれそうになり、結局ご飯を食べれなかった。
その日から昼の時間もずっと教室にいるのだが、彼女が弁当に手を付けた痕跡はなく、徐々に痩せていく姿に俺の心も削られていく。
心配で心配で仕方ないのに、トイレットペーパーを投げることでしか自分のアピールが出来ない不甲斐ない俺はなんて情けない男なのだろう。
本気の恋がこんなに怖いものなんて知らなかった。遊びなら簡単で肌を合わせるのだって欲望の放出にしかならないのに、この小さな彼女に俺は心底怯えている。
やつれていく彼女に心痛を堪えながら俺は考えた。どうすれば彼女を元気付けられるか考えて考えて考えて考えて、ついに一つ方法を思いついた。
後頭部にトイレットペーパーをぶつけ続けてこちらを向いてくれるのを待つのではなく、さり気無い仕草で想いを託す方法。
投げ続けたトイレットペーパーをミシン目一つのところで丁寧に千切る。
そして持っている黒のサインペンと、赤のサインペンを取り出した。
最近気がついたのだが、もしかしたらサインペンはトイレットペーパーに何か描くのに向いていないかもしれない。滲む先を利用し絵を描きながら唐突に思う。
しかしながら今手持ちの色ペンはこれしかないので、カリカリカリと手を動かした。
途中で化学の担当のスダレ禿と目が合ったが、物言いたげな様子を一睨みで黙らせる。
化学の授業より恋愛だ。恋こそが青春の醍醐味で学生の本分。
昔の偉人だって言っている。『せつなる恋の心は尊きこと神のごとし』と。
つまり今の俺の想いほど尊く高潔なものはないのであり、他に優先すべき何かなど存在しない。
何か言いたげに口を開いたスダレ禿にさらに眼光を鋭くすれば、諦めたように首を振った。
勝った、と心の中で快晴を叫びつつ手を動かす。
実は俺は絵を描くのが得意だ。デフォルメされたキャラクターやイラストは苦手だが、写実などは得意だ。見たままを描くのは楽しく、それ故に選択だけは彼女と違う授業を取っている。
ちなみに今トイレットペーパーに描いているのはミニロップの我が家の天使の『あいちゃん』だ。
俺が言うのもなんだが、うちの子は毛並みもいいし睫毛も長いし耳の垂れ具合も最高だし、もうモッフモフのラブリーさんだ。勢い余って全力で抱きしめたくなる愛らしさで、胸のときめきは留まるところを知らない。つまり、絶世の美人さんだ。
彼女を見て心和まない存在など世界に居るはずがない。向坂藍と同じくらいに魅力的なミニロップなのだ、『あいちゃん』は。
本当は番の『あおいくん』も描いてやりたいが、生憎色ペンが足りない。似た色を購入することを胸に決めつつさかさかと手を動かす。
ああ、そうだ。俺の想いを表現するためにもう少しプラスしよう。『あいちゃん』の姿に心が和み、ついでに俺の想いも表現できる。一石二鳥のアイデアに俺の心は一気に浮き立つ。
描く途中の『あいちゃん』の胸の部分に赤いペンでハートを描き、そこに黒ペンで矢を通す。まさしく俺の心そのものだ。
貴女に心を射抜かれてます的な。我ながら凄い表現力の絵に頷く。そうだ血も流してみよう。貴女に心を射抜かれ、振り向いてもらえない俺は心から血の涙を流しています的な。
いいアイデアだと納得し、絵の続きを描く。
これなら奥手の俺でも表現できると絵に夢中になっていると、不意に名を呼ばれた気がした。
教室が静かになり顔を上げて周りを一瞥すれば、教室の入り口に見慣れた後輩の姿があった。
「ちわーっす!佐倉先輩居ますかー?」
騒々しい声にひっそりと眉根を寄せる。
俺は目立つのは嫌いだ。それなのに俺の苛立ちを理解できない後輩は、俺を見つけるとへらりと笑った。
彼の名は小倉桂一。一つ下の一年生だ。
一年生にしてはでか過ぎる態度で余裕たっぷりに上級生の教室に足を踏み入れた小倉は、垂れ目と学校で唯一の肩を超える金髪を軽く結わえた姿が特徴的な男だ。
顔立ちは整い、身長も190越えをする俺より少し低い程度なので長身の部類に入る。痩身だが鍛えているので十分な筋肉が体についており、犬のようになつっこそうな雰囲気を持つがひと縄筋じゃ行かない奴でもある。
ヘラヘラした態度で男女共に人気があるが、あいつはその笑顔のまま遠慮なく人をぶん殴るタイプだ。
入学式当日に俺に喧嘩を売ってきたので思い切り叩き潰してやったが、俺以外の奴らには全勝したらしい。
入学式から三週間後、『いつかあんたを越えてみせるっす』と、一見すると人当たりのいい笑顔で宣言し、付きまとってくる面倒な奴だった。
喰えない笑顔のまま俺に一直線に向かって来た奴は、不意に足を止めると目を丸くする。
そしてへらり、と気の抜ける笑顔を浮かべると、着崩した制服のズボンに手を突っ込み上半身を屈めた。
彼の視線の先には、無言で俯く向坂藍。
好奇心一杯とばかりに目を輝かせた小倉は、何の気負いもなく彼女に手を伸ばすと、その黒く艶やかな髪を一房摘んだ。
さらさらと音がしそうなくらい美しい黒髪が流れ、暫し見惚れる。
「あれー?この人、向坂先輩っすよね?佐倉先輩、同じクラスだったんすか?」
無邪気に聞こえるが、その瞳は獲物を見つけた肉食獣のような色を宿していた。
指先で摘んでいた髪を開放し、くしゃりと笑み崩れる。無邪気にも見える様子に、俺の眉間に一気に皺が刻まれた。
ゆるく口角を持ち上げ、目の前の彼女を見定めるよう顔を近づける。
我慢できたのは、そこまでだった。
「ッ」
俺が立ち上がったのを視界の端で捕らえると、一瞬だけ小倉の顔色が変わる。
だが今更遅い。すでに間合いは俺のもので、振り上げた拳は彼の鳩尾に吸い込まれるよう打衝撃を和らげるためにバックステップを踏んだのだと気付き、少し先で机を薙ぎ倒しながら床に転んだ男を睨み据えた。
腹を押さえ立ち上がれずにいるのを確認してから、動きを止めた彼女に視線をやる。
可哀想に余程怖かったのだろう。
血の気の失せた顔で唇を強張らせている彼女に、無意識に手が伸びた。
初めて触れる彼女の頭は片手で握れるほどに小さくて、黒い髪は『あいちゃん』のものよりも真っ直ぐでさらさらした感触を伝えてきた。
初めて触れた彼女に心臓が爆発するのではないかと思えるくらいに胸が高鳴る。
今なら気絶してしまえそうだと、震える吐息をゆっくりと吐き出した。
それだけでも死んでしまいそうなくらいだったのに、弾かれるように顔を上げた彼女は真っ直ぐに俺を見てきた。
僅かに潤んだ瞳に心が痛み、その涙を拭えたなら、と指先が伸びそうになる。
けれど、ぴくり、と体が震えたのを見て、代わりに小倉が触れた部分を消毒とばかりに摘んだ。
まだまだ触れたいと望む自分をやっとの思いで宥め、もう一度だけ頭に手をやると先ほど描いていたウサギの絵を置く。
『あいちゃん』の姿を見て、彼女が少しでも心慰められれば良いと、勇気付けるよう微笑んだ。
流石に俺の想いが赤裸々に描かれているそれを見たときの反応は直接見るには恥ずかしすぎ、すぐさま視線を逸らし上半身を起こした小倉に向ける。
「・・・来い」
「へ?」
きょとん、と顔を上げた小倉の首根っこを掴み強制的に引き摺っていく。
そのまま廊下に出て、人通りが無い場所まで行くと壁際に向かいぶん投げた。
背中を強かに打ちつけたらしい小倉は、息を詰めてこちらを見上げる。
愛嬌がある瞳に涙を溜めた男に、俺は嗤って教えてやった。
「言っておくが、彼女はロンゲも金髪も好みじゃない」
「はぁ?」
「中学のとき、確かに聞いた。彼女の好みは明るすぎない茶色だ」
正確に言うと、現在の俺のような栗色の髪だ。
中学のときのインタビューで学校新聞に載っていた。
胸を張って教えてやると、ぽかんと口を開けて間抜けな表情を晒した小倉は、茶色の瞳でじっと俺を見た。
「・・・先輩、向坂先輩に惚れてんすか?」
「・・・!!?」
秘めた恋心を見抜かれた俺は、目をまん丸に見開いて鋭すぎる洞察力の後輩に言葉も発せなかった。
そうして彼女の元に届けた絵を思い出し、奥歯を咬んで表に出そうな感情をギリギリで堪えた。