トイレットペーパーに『あい』★注入!
葵君視点です。流血表現あります。
俺の名前は佐倉葵。
県内でも進学校と呼ばれる高校に通ういたって普通の男子高校生だ。少しばかり普通と違うのは、俺が学校で番長と呼ばれていることだろうか。降りかかる火の粉を遠慮なく振り払っていただけだが、気が付けば不動の地位を確保してしまった。
無駄に大振りなフォームで殴りかかってくる雑魚を最小限の動きで避け、カウンターのパンチを顎に叩き込む俺は、現在呼び出しの真っ最中だ。それも可愛らしい女の子なんてことはなく、近隣の不良校のなんたらかんたら言う同級生。同じ中学出身で、中学時代もなにかと絡まれたが高校に入ってから頻度が上がっている気がした。それでも全く興味が持てない俺は、奴の名前すら知らない。
大体今時真っ赤に染めた髪をリーゼントにするとか、どんなセンスだ。高校学ランだからとボンタンを穿き、長ランは中が赤地で上り龍の刺繍がしてある。金糸銀糸で繊細に縫われたそれには一言。『夜露死苦』と入ってるが、誰に何を『夜露死苦』したいのか一切理解できない。むしろそんなに夜露死苦したいなら、せめて背中に縫い付けろと倒れてるところを髪を引っつかんで忠告してやったら、顔面に唾を吐きかけられた。思わず道路に叩きつけてしまったが、この場合俺は悪くないだろう。額が割れ鼻血も止まらないようだが、自業自得だ。
隣で暴れていた小倉も片をつけたらしく、いつもどおりの喰えないヘラヘラ笑いで近づいてくる。にやけた面を眺めていると、つくづく今日は厄日だと深いため息を漏らした。
厄介ごとに巻き込まれているが、俺は別に喧嘩が好きなわけじゃない。降りかかる火の粉を払っていたら気がつけば強くなっていただけの、あだ名が『番長』の一般人だ。不良を自称した記憶もなければ、喧嘩以外の何かに手をつけた記憶もない。あえて言えば髪を染めるくらいだが、高校生にもなればこの程度で非行と呼ぶ人間も居ないだろう。
自分で言うのもなんだが意外と文学を愛し、芸術を愛するユニークな性格をしていると思う。事実特技は絵を描くことで、これは唯一求愛に応用するほどの自信を持っていた。
何しろ、俺はこの絵で片想いの彼女の意識を惹き付けるのに成功したのだ。奥手で恥ずかしがりやな俺の精一杯のアピール方法だが、絶対に間違っていないと自信がある。
特に端整篭めて描いた飼いウサギの絵は絶品だ。誰が見ても俺の可愛い愛ウサギとひと目で判るほど写実的だと思う。少しばかり手を加えれば一気に幻想的な雰囲気が増し、我ながら見事な作品が出来上がる。
今日も今日とて出来上がった自慢の作品を悪友の家に居る師匠に見せようと学校から帰宅中、たまたま近道しようと通った裏道で喧嘩中の小倉と遭遇し、たまたまその相手が中学時代の知り合いで因縁をつけられ今に至る。
鼻歌交じりの爽やかだった気分は台無しにされ、投げ出された鞄の中の大事な絵が汚れて居ないかチェックした。幸いなことに教科書の間に挟んで保存しておいたそれは欠片の破損もないが、気分を害されたのには違いがないため倒れていた頭をもう一度踏みつける。
かえるが潰れたような鈍い声が聞こえたが、一切無視だ。
「あれ?先輩帰っちゃうんすか?」
「・・・ああ」
「もうちょっと遊びましょうよー。折角久しぶりに相手してくれる奴らなのに」
「俺はいい」
「えー?つまんないっす」
ブーブーと文句を言う小倉をじろりと睨み付ける。喧嘩大好き殴り合い大好きなドMでドSな小倉と違い、極めてノーマル思考の俺はあいつほどイカれた頭をしていない。血を見て興奮してバーサーカーモードに突入もしなければ、相手が倒れた後も執拗に甚振る気もない。
小倉は俺より弱いが、俺より遙かにやばいタイプだ。一度目をつけたらとことんまで相手を追い回し勝負を挑む。勝てばそこまで、満足するまで甚振り倒す。負ければ勝つまで付きまとい、一見すると無邪気にも見える様子で近づきながらも常に隙を伺っている。
今だって間違えたふりをして拳や蹴りが飛んできた回数は片手じゃ収まらない。一発一発に体重が乗っていて、喰らえば骨くらい折れていただろう。
首に手を当てクルリと回す。こいつの相手よりも俺には重要な使命がある。
俺の恋の成就のために、俺は行かなくてはならない。そう、いつでも心の中にある、黒髪を靡かせた凛とした佳人のために、行かねばならないのだ。
「興味がない」
俺が興味があるのは心の女神、向坂藍だけ。
闇を紡いだ漆黒の髪は、絹糸よりも尚美しく。白皙の肌に桃色に染まる頬。ふるいつきたくなる唇は紅を塗らずとも艶やかで、サクランボより美味そうだ。俺よりも随分と低い身長で、華奢な体は文字通り触れれば折れてしまいそうなほど。腰など片手で掴めそうだし、確実に片手でも持ち上げれる。小さな頭が乗る体はバランスよく整っており、細い足は同じ日本人か疑いたくなるくらい長い。
最近気がついたのだが、下から見上げるとオニキスの瞳が少し潤み、悶え転げそうになるほど愛らしい。心の中では『可愛いぞー!!』と大絶叫だが、実際に言葉にすると引かれそうなので堪えている。
何しろ三年越しの片想いだ。今年に入り同じクラスになれただけでも喜ばしいのに、この苗字のおかげで前後の席ときている。当たり前だが席替えなどという邪道なシステムは先日選ばれたクラス委員長に丁重にお願いして遠慮してもらっている。
隣同士になれたら、なんて夢想しなくもないが、何しろ俺は超がつく奥手。隣になれば横顔が見れるかもしれないが、今のようにじっくりとはいかない。やはり後ろから小さな頭にある渦を毎時間眺めるのが幸せだ。呼吸するたびに微かに上下する肩だとか、たまに邪魔になった髪をさらりと後ろに流す仕草とか、小さな手がかりかりと動く姿とか、そんなのを永遠に眺めていたい。
その愛らしさは我が家のアイドルミニロップの『あいちゃん』の上を行く。勿論『あおいくん』よりもだ。『あいちゃん』も世界で類を見ない愛らしいウサギだが、番の『あおいくん』も負けていない。夜の闇を纏う黒毛が自慢の『あいちゃん』は大人しく控えめな性格の女の子で、ゴールデンオレンジの毛色の『あおいくん』はそんな『あいちゃん』を恋い慕うヤンチャ盛りの男の子だ。
自慢じゃないがうちのウサギたちは可愛い。俺が家に帰ればいそいそと小屋の入り口に立ち、ひくひくと鼻を鳴らして今か今かと瞳を輝かす。今まで動物を飼ったことがないからその良さを知らなかったが、彼女に出会い惹かれたウサギの中でもこの二匹を選んだのは正解だったろう。何しろうちの子は世界一可愛いのだから。こう後ろ足のあの丸いフォルムや、触れるとひくりと動く耳や、大きく円らな瞳や、たまに漏らす良く判らない鳴き声などもう愛しさマックスだ。
声なき声で叫びながらごろごろと部屋を転げまわっていたところ、不審人物でも見るような目で母に睥睨された。すぐさま姿勢を正し何もなかったふりをしたのだが、あの日から少しだけ母の対応が変わった気がするけれど気のせいだと思いたい。
そう、話しはそれたがうちの子はとにかく愛らしいのだ。しかしその愛らしさを持ってしても彼女には叶わない。何せ彼女は女神だ。きっと春の女神か花の女神か、いや、清廉な空気を思えば月の女神でもいいかもしれない。留まることを知らない美しさに敵うものなど居るはずがない。たとえ神レベルに愛らしい我が家のミニロップも、彼女にかかれは使役獣になる。ん?可愛い女神に可愛い使役獣。これは予想以上にしっくりかもしれない。
つらつらと想いを膨らませて歩いていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「あれ?そこを歩くのはもしかして佐倉?」
のんびりとした声は聞き覚えあるもので、振り返れば案の定顔見知りが私服で立っていた。ラフな格好でコンビニ袋を持つ彼は、最寄のコンビニで買い物帰りらしい。訝しげに眉を寄せて首をかしげている。
「・・・木戸」
「どうしたんだよ、こんなとこで。お前んちこことは逆方向だろ?」
「いや、学校を出る前にメールが来てな。お前の家に行くところだ」
「メール?って、ららからか?」
「ああ」
ららとは木戸の妹の名だ。小学五年生にして三人の彼氏が居る自称恋のエキスパートの彼女は、俺が片想いを始めてから恋の師匠をしてくれている。ちなみに渡されるのは彼女のバイブルの少女漫画が主だが、これがまた泣ける。今まであんな女々しいものと馬鹿にしてきたが、きゅんと胸を締め付ける片想いの描写とか自分と置き換えると畳───木戸の家は和風建築の平屋だ───をどんどんと叩きまくるくらい感情が抑えきれなくなる。あまりに殴りすぎて畳を凹ませたら弁償させられたくらいだ。
年は下だがかねてから彼女の恋愛話には舌を巻いていた。恋愛経験豊富な相手を師匠と呼ぶのに時間は掛からなかった。
携帯を弄りメールを見せてやると、木戸は複雑そうな顔をする。彼は兄としてもう少し妹には男関係を整理して欲しいらしいが、その内刺されるぞとの忠告は流石に行き過ぎている気がする。
そんなこんなで彼を伴い師匠と語り明かした俺は、手描きの絵に一文書き添えることにした。
ばくばくと高鳴る心臓を宥め、深呼吸しながらそっと目的のロッカーを確認する。『向坂』と書かれたそれは学年どころか学校でも唯一だ。俺が調べたのではない。何故か情報通の木戸から聞き出した。
とにかく、彼女のロッカーの前に立ち、愛らしい色合いの封筒を両手できゅっと握り締める。皺が寄りそうに鳴ったので慌てて力を緩め、祈るように額に当てた。
今日は俺の一世一代の晴れ舞台だ。いや、清水の舞台から飛び降りるひだ。ん?何か違う気もするが、とにかくそんな日だ。
昨日、師匠の下で愛読書を拝見したのだが、今は和風のコミックに嵌まっているらしい。平安時代の男女の趣を嗜みながら切ない女性の心の揺れ動く様を描いた傑作品は涙なしには読めなかった。
何しろ相手の男が最低で、主人公に文を送りながら同時に二人、三人へと同じような手練手管を使って女をたぶらかしていた。最終的にその男が本気になったときには遅く、主人公は影に日向にと支えてくれた幼馴染の青年へ身も心も捧げるが、彼の誠実さったらない。
どれだけお色気たっぷりの女が迫ろうと、親に縁談を進められようと、政敵となった主人公の初恋の男に陥れられようと諦めずに真っ直ぐに志を貫いた。そうして遠方から実直であるが想いの篭った文を送り続け、とうとう主人公の心を射止めたのだ。
あれを読んで目が覚めた。やはりメールで告白など邪道だ。顔をあわせて行うには勇気が足りない俺には、恋文こそが丁度いい。というか、そもそもメールアドレスを知らないのだが。
とにかく手紙の素晴らしさを知った俺は、自分なりのアピール方法である絵も交えて彼女に一番伝えたい一言を書き添えた。
即ち病弱で華奢な彼女に想いを篭めて一言、『生きろ』と。
何しろ彼女は儚げで可憐で吹けば飛んでしまいそうなくらい華奢である。先日も目の前で倒れられたし、とにかく健康に関して心配だ。
彼女が儚くなってしまえば、俺の人生も儚く消える。俺の想い全てを篭めた一文と、愛のキューピットである『あおいくん』の絵。これは昨日保健室で寝ていた木戸にも見せてやったものだが、人生でベストスリーに入る傑作品だ。
愛らしい瞳から光が溢れ、キラキラと輝く体に天使をかたどる羽とわっか。どう考えてもキューピット。俺と彼女を繋げてくれる、俺の想いを伝えるキューピットだ。
正直こんなにあからさまに想いを伝えて大丈夫だろうか。あの漫画を参考にすればもう少し密やかに想いを忍ばせたものだが、不器用な俺には直接的な表現しか出来ない。
どくどくと鳴る心臓の音を意識しながら、下駄箱の小さな上履きの上にそっと封筒を滑り込ませる。桃色の便箋に、彼女のイメージである黒ウサギのシール。コレクションの中でも特にお気に入りを使ったのだが、気に入ってもらえるだろうか。
以前師匠の家で読んだ漫画には、裏表の激しい美少女が恋文を見つけた瞬間にびりびりに破ったりしていたが、まさかそんなことにならないだろうか。
無駄に緊張してぎちぎちになる体を強張らせ、彼女が来たら判るようにそっと下駄箱の陰に隠れる。彼女の登校時間は部活に入ってない割りに早いと木戸から聞いているので、きっとそろそろ来るだろう。
時計の秒針を気にしながら待つこと十分弱。ついにその一瞬はやってきた。
かたり、と音が聞こえ、顔を覗かせると、神々しくも朝日をバックに靴を脱いだ彼女の姿。
今日も艶やかな黒髪を靡かせ、凛と背筋を伸ばす姿がうっとりするほど麗しい。見惚れずには居られないいでだちに暫しぼうっとしていたが、その白魚の手が下駄箱に掛かり、ごくりと息を飲んだ。
あの中には俺の入れた恋文が入っている。
果たして吉と出るか凶と出るのか。
瞬きすら惜しんで眺めていると、手紙に気がついたらしい彼女は切れ長の瞳を丸くした。珍しくもあからさまな表情に、こんな時でも胸がときめく。心臓が破裂しそうに緊張していても胸はときめくものなんだなと、冷静な頭が暢気に考えた。
逡巡するように動きを止め、ゆっくりと小さな掌を伸ばして封筒を持ち上げる。表面を見て、ひっくり返して裏返したのを確認し、俺は重要なことに気がついた。
名前を書き忘れてしまったのだ。
あれほど傑作品の絵に、想いを篭めた一文を添えた挙句差出人不明。何たる失敗。何たる手落ち。
ぎりぎりと奥歯を噛み締め手近に合った何かを握る。力をいれるたびに奏でられる不協和音すら耳に入らない。
もし万が一あれを他の誰かからと勘違いされ、しかもそれを利用した相手の求愛に彼女が乗ってしまったらどうしよう。自分で言うのもなんだが、あの恋文は他に類を見ないものだろう。
彼女が相手を勘違いし、尚且つあの手紙を気に入って嬉しいと相手に告げたら、俺の心は張り裂けるだろう。ついでに相手の男の顔も張り裂けるだろう、勿論俺の手で。
中身を取り出して瞬きすらせずに見惚れる姿に、喜んでいいのか悲しめばいいのか全く判らない。
手の中でめきめきと音を立てて形を変える『何か』に更なる力を篭めれば、ゆっくりと、それこそ映画のワンシーンのように彼女がこちらを振り返った。
一瞬の永遠。
夜の闇よりも美しい漆黒の双眸が俺を捉える。
その瞬間、俺の心臓は確かに止まった。
三年間憧れ続けた恋しい人は、ただ一人俺だけをその瞳に映す。
この幸せが誰に理解できるだろうか。
今が永遠に続けばいい。そんな愚かな願いは、瞬きする間も続かなかった。
「っ」
息を呑んだような音が聞こえ、彼女の力が膝から抜ける。
長い黒髪が扇形に広がり、手が宙を掻くようにして動いた。
こちらを眺めていたオニキスの瞳は閉じられ、顔は真っ青どころか白くなっている。
今にも儚く消えてしまいそうな彼女に駆け寄りながら、俺は思わず絶叫した。
「あなや────────────っ!!!?」
昨日読んだ漫画の叫び声が思わぬ高さで出てしまったが、最早自分でも何を言っているか理解していない。
今までの人生で一番の全力疾走をして、彼女の頭が床に叩きつけられる前に辛うじてキャッチした。
全身で受け止めた華奢な体はとても軽く、意識を失っても手放されなかった恋文に心のどこかで満足を覚えながら。