トイレットペーパーの呪いの効能
私の名前は向坂藍。
至って一般小市民であり、大勢に埋没するタイプの花の高校二年生である。
私にはつい昨日まで頭を悩ませるすさまじい悩みがあった。それは、後ろの席の番長が関係している。
彼の名前は佐倉葵。最近ではもう私には彼のキャラクター性は判らない。ただ判るのは、ひと睨みで熊も引付を起こすだろう鋭すぎる三白眼に、長身の男子を吹っ飛ばす腕力の威力、あと節分の鬼の役をやって保育園に行ったとしたら園児が気絶するだろうと想像する程度だ。
基本的に友達が居ない私は、他人とのコミュニケーションをとるのは苦手だ。中学になり引っ越すまで近所に住んでいた私を溺愛してくれた母方の親戚は感情が豊かだと言ってくれたが、父方の遠い血縁関係の幼馴染には無表情すぎて不気味だと子供の頃から言われ続けた。
何かと言うと絡んでくる幼馴染に柳眉を吊り上げた母方の親戚が笑顔で『俺の可愛い藍を貶すなんて信じられないねぇ。ちょっと説得してくるよ』といきなりバッドに釘を打ちつけ始めたのも、今ではいい思い出だ。
柔らかな笑顔を保ちつつ花束の真ん中に釘つきのバッドを差し入れて一体何をしたのか謎だが、幼馴染の口から語られることもない。ただ翌日から暫くの間、随分と恭しく扱われたのを覚えている。
ああ、違う。今は恭弥のことなんてどうでもいい。
問題は私にコミュニケーション能力が不足している部分にある。長らくクラスメイトからも遠巻きにされ続けた私は、他人の感情の機微に鈍い部分がある。表情筋だって怒ったり笑ったりしていないからあまり動かないし、寝起きでぼうっとしていたら顔を真っ赤にした恭弥に不気味だと叫ばれた。
今まで友達が出来なかったのだってどうやって話しかければいいか判らなかったからだし、嫌になるほど自分の不器用さは自覚している。
しかしながら私は問いたい。
神様、彼の行動の意味が理解できないのは、私の能力不足の所為ですか、と。
小説や漫画、ドラマや映画。学園ものと呼ばれるジャンルのものを幾つも見てきたが、後頭部にトイレットペーパーを投げられる人間なんて見たことないし、投げ続ける人間も見たことない。
道行く人間に聞いてみても、トイレットペーパーを授業中絶えず投げ続ける人間とコミュニケーション取れますかと言われても、イエスと答えれる人間は何割居るのだろうか。
私の予想では百人聞いて一人いるかいないかだと思う。
そしてあのトイレットペーパーに描かれた呪われた絵を見たら、その一人も消滅するに違いない。
長いわけではないが今までの人生を平穏に生きてきたと思っている。
根暗だがいきなり奇声を上げて走り出すわけでもないし、不器量でも他人のお目汚しをしないようにひっそりと生きている。これといって特別な才能はないが、誰かに迷惑をかけすぎる生き方はしていない───はずだ。
クラスの片隅で存在するだけならいじめにもあっていなかったし、このまま地味な人生を過ごしていくのだと思い込んでいた。
なのに蓋を開けてびっくりだ。新しいクラスになり心機一転、今年こそ変わろうと気合を入れていた最中に、まさかクラスメイトから、しかも学校中どころか近隣の不良まで恐れる番長から呪いを受けようなんて誰が想像できるか?否、誰も想像出来るはずがない。それこそお天道様でも判るまいという奴だ。
トイレットペーパーを投げ続ける奇行の挙句、頭に置かれた呪いのペーパー。あれは彼が手書きしたのだろうか。だとすれば技術力は凄いが、神様も文字通り罪な才能を授けたものだと思う。
喧嘩上等とばかりの鋭すぎる三白眼や、立派過ぎる体型、さらに進学校である高校で上位をとる頭脳に併せて人を呪う才能。
いや、良く考えるんだ私。曲がりなりにも神様が人間にそんな能力を与えるだろうか。神様の祝福を受けた人間って言うより、むしろ悪魔の洗礼の方がしっくりくる。冗談のつもりだったのに、何処から何処までを冗談として考えていたのか判らなくなり、怖くなってきたので考えるのを止めた。
とにかく受け取った呪いのペーパーは昨日恭弥の鞄に潜ませて置いたから、何か不幸が起こるとしても恭弥からだろう。心臓から血を流す憐れな兎は彼にどんな影響を与えているのだろうか。
まさかいきなり髪の毛が全部なくなったりしないだろうが、そうなったら憐れすぎる。後頭部狙いが本気で髪の毛の消失を狙っているのだとしたら、私は恭弥にお詫びに鬘を作ってあげよう。それが駄目なら額に六つの点でも書いてやる。どっかの漫画のキャラクターみたいで自然な感じだ。幸いにして顔はいいからきっと剃髪も似合うだろう。
ついでに子供の頃の怨みも晴らせて一石二鳥だ。精々ファンの女の子に嘆かれるがいい。
トイレットペーパーを後頭部に投げ続ける番長の考えは全く理解できないが、それでも私には逃げ場所が出来た。いっそ引きこもり生活をしてやろうとまで考えたが、正式に生徒会になれたら公認で授業をエスケープできる。成績の維持は必須だが、これで後頭部の襲来を免れるなら安いものだ。
つらつらと考えている内に学校に着き、下駄箱の蓋を開けた。
登校時間は帰宅部にしては早い私は、朝錬をしている青少年たちの声をBGMに靴を履き替え───ようとして固まった。
学校用のスリッパの上に、見慣れない封筒が置いてある。
桃色の便箋にワンポイントの黒兎のシール。随分とファンシーなそれに息を止める。一昔前の漫画でよく読んだ光景だが、経験するのは初めてだ。
経験はないが、もしかしてこれはラブレターというものだろうか。
年頃の乙女らしい淡い期待に胸を高鳴らせ、学校用のスリッパの上からそっと手に取る。裏返しても差出人の名前はなく、頬を赤らめながら丁寧にシールを剥がした。
昨日の帰宅時にはなかったので、私が帰った後から、今日の登校前までに入れておいた計算になる。
こんな可愛らしい封筒を使う男子など想像できないが、まさか不幸の手紙ではないはずだ。小学校時代に一斉を風靡したそれは、学校中に回っても私の元には届かなかった。それくらい人との付き合いがない私に、今更それはない。
とすると、やはり恋文と考えるのが妥当だろう。
自然と緩む口元を気合で堪えながら、中に入っているものに手を伸ばす。
手先に触れたなんともいえない感触に、ん?と慌てて封筒を広げて覗き込み固まった。
眼が合ってしまった。
どうしてか知れないが、観音開きになっていた封筒の中身は、とんでもなくおどろおどろしい物体だった。
オレンジがかった毛並みの劇画調兎が、ぎょろりと大きなブラウンの瞳でこちらを見ていた。実にリアルに丁寧に描かれている。今にも動き出しそうな躍動感を感じさせる作品だが、これは空想上の生き物だろう。
だって、兎なのに目からビームが出てる。ビームが出てる上に羽が生えていて、頭には光輪まである。しかも何か臭っているのか、体中から黄色いものが出ていた。黄色で表現されるのは大体が異臭だが、彼だか彼女だか判らないこの生き物は、どんな臭いを漂わせているのだろうか。
もしかして悪魔の使いか何かだろうか。今まさに天に召されようとしてるのか、それとも異界から召喚されたのか全くわからない。芸術的センスがない私だから理解できないのだろうか。いいや、これはそんな生ぬるいものではない気がする。
だらだらと額から汗が流れ、呼吸と鼓動が早くなる。
つい先日、これと良く似たものを受け取った気がした。異常に劇画調の兎の絵を、徒ならぬ人物から頭に置かれた気がした。
ぎぎぎぎと音が聞こえそうなぎこちない仕草で周囲を窺い、冗談じゃなく息が止まる。
素早い動きで隠れたが、その巨体がはみ出ている。ちらりと見える制服と、半分以上が出ている顔。ぎらぎらと輝く三白眼を細めて獲物を狙う猛獣のようにこちらを睨みつけていた。
大きな手が下駄箱の端を力強く握っているお陰で、めきめきとした破壊音が聞こえ、冷や汗の勢いが増す。確かあの場所は相沢君だか、相田君だかの下駄箱だったと思うが、もう今日は開けれないだろう。彼らは職員室でスリッパを借りるしかない。
いや、それはどうでもいい。むしろ今は自分の命の心配だ。殺られる。これは絶対に殺される。だってそんな目をしてる。血走って充血してる。唇なんか噛み締めすぎて血が出てるし、未だに下駄箱はめきめきいっている。
もしかして、私が彼から渡された例の物を恭弥に押し付けたのがばれたのだろうか。だからあんなに血管ぶっちぎれそうな勢いで怒り狂ってるのだろうか。
恐ろしさからまたぎこちない動きで俯いた私に、自然とトイレットペーパーに描かれた絵が入る。震える手で上手く掴めず下に落ちたトイレットペーパには、兎の絵以外にも何かが書かれていた。
両目1.2を誇る私の視界に、しっかりとそれは焼き付く。
真っ赤な文字でただ一言。『生きろ』と書いてあった。
静かな玄関に野球部(多分)の『ラスト、一本!』との掛け声がBGM代わりに響く中、私の意識は徐々にブラックアウトしていく。
『生きろ』って何、『生きろ』って。どういう意味?何か生命的な危機が近づいてるの?むしろあなたの呪いに気をつけろって忠告?本人なのに?と頭のどこかが冷静に突っ込む中、このまま行ったら頭蓋骨陥没かもしれないと馬鹿みたい考える。
これはもしかして、あの呪いのトイレットペーパーの効果かと、うっかり押し付けてしまった幼馴染を初めて心から心配した。
視界から景色が消えたと思った瞬間、甲高い悲鳴が聞こえた気がしたが、きっと気のせいに決まっている。