時計職人の娘は、三年前からすべての時計が止まった公爵邸に呼ばれました
時計は、素直な機械だ。
油が切れれば遅れ、埃が入れば止まり、手入れをすれば必ず応える。人間よりよほど正直だと、父はよく言っていた。王室付き時計師、故グラン・ミショー。その一人娘のわたし、ノエルが店を継いで、四年になる。
継いだ、というのは正確ではない。時計師組合は、女の親方を認めない。だから店の看板は『ミショー時計修理店』のまま、職人の名は空欄で、わたしは「先代の娘が店番のついでに直している」ことになっている。店番のついでに直した時計が四年で千二百台。組合の皆様の時計より、うちの時計はよく合うと評判である。
その日、店の前に停まった黒塗りの馬車から降りてきた老執事は、深々と一礼して言った。
「ランベール公爵家の家令、バティストと申します。お屋敷の時計を、診ていただきたいのです。……全部で、三十七台ございます」
「三十七台!? 一体どんな故障で」
「故障では、ございません」
老執事は、少し目を伏せた。
「三年前から、すべて止めてあるのです。――当主の、命により」
◇
ランベール公爵邸は、静かな屋敷だった。
いや、屋敷というものは大抵静かだ。でもここの静けさは質が違った。何かが足りない。玄関ホールに入って、すぐに分かった。時計の音がしないのだ。大時計の振り子の音も、棚時計の刻みも、何もない。時間の脈拍が、この家にはない。
ホールの大時計の前で、わたしは足を止めた。文字盤は、四時十二分を指して止まっていた。
応接間の置時計も、四時十二分。廊下の掛時計も、四時十二分。三十七台、ぜんぶ――同じ時刻で、揃えて止めてある。
「……バティストさん。これは」
答えたのは、執事ではなかった。
「三年前の秋、四時十二分に、弟が死んだ」
振り向くと、広間の入口に、背の高い人が立っていた。ランベール公爵、ジスラン様。三十歳。三年前まで王国軍の連隊長で、いまは領地に引きこもり、社交界には一切出ない人――というのが、王都で聞ける噂のすべてだ。
「北の国境紛争の、最後の戦闘だ。命令を出したのは私で、死んだのは弟だった。報せの伝令が屋敷に着いたとき、ホールのその大時計が四時十二分を指していた。……それだけの話だ」
それだけ、と言うには、三十七台は多すぎる。でもわたしは黙っていた。時計師は、依頼主の時間に口を出さない。
「依頼はこうだ。三十七台、すべて分解し、清掃し、修理し、完全な状態に直せ。――ただし、動かすな。針は四時十二分のまま、ぜんまいは巻かずに戻せ」
「……確認いたします。『直すが、動かさない』のですね」
「そうだ。三年も止めたままでは、機械が傷むと家令がうるさい。だが、動かすことは許可しない。矛盾していると思うなら、断ってくれて構わない」
矛盾している。大いに矛盾している。けれど、わたしは即座に頭を下げていた。
「お受けします」
理由は二つ。一つ、三十七台には父の納めた時計が含まれているはずで、父の機械を三年も止めたまま錆びさせるのは、娘として我慢ならない。
二つ。――「傷むから直せ、でも動かすな」というこの依頼は、機械の言葉に訳すとこうなるからだ。
まだ動けない。でも、死なせたくもない。
それは時計師が、聞き捨てにしていい言葉ではない。
◇
わたしは週に三日、公爵邸に通うことになった。
一台ずつ、運べるものは作業室に、大時計はその場で分解する。埃を払い、固まった油を落とし、摩耗した歯車は交換ではなく、父ならそうしたように、できる限り元の部品を生かして研ぎ直す。
止まった時計を三年放置すると、どうなるか。油は樹脂のように固まり、ぜんまいは巻き癖のまま固着し、軸受は湿気で曇る。三十七台は、どれも重症だった。でも、直らないものは一台もなかった。時計は素直な機械だ。手入れをすれば、必ず応える。
そして、通ううちに分かってきたことがある。
この屋敷の使用人たちは、時計の話に飢えていた。
「その置時計はね、亡くなったユーグ様が十五のお誕生日に旦那様から贈られたもので」と、掃除女中のマノンさんが教えてくれる。「ユーグ様ったら嬉しくて、ひと月ずっと持ち歩いて」
「食堂の掛時計は、先代の奥方様のお輿入れ道具です」と、料理長。「あれが鳴らないと、どうも塩加減が決まらん」
三十七台には、三十七の話があった。皆、話したかったのだ。三年間、この家では時間の話が禁忌だったから。止まった針の前で、思い出まで止めて暮らしてきたから。
公爵様は、作業中のわたしの後ろに、時々立った。何も言わずに、分解された歯車を眺めている。ある日、ぽつりと聞かれた。
「……直すのに、なぜ部品を替えない。新品にすれば早いだろう」
「替えれば動きます。でも、それはもう、同じ時計ではありませんので」
わたしは、研ぎ直した歯車を光にかざした。
「この摩耗は、三十年動いた記録です。癖ごと生かして直せば、この時計は『三十年動いて、三年止まって、また動いた時計』になれます。ぜんぶ新品にしたら、ただの『新しい時計』です。過去ごと直すのが、修理という仕事です」
公爵様は長いこと黙って、それから、静かに言った。
「……過去ごと、直す」
「はい。過去を消すのではなく」
その日から、公爵様は作業室に椅子を持ち込むようになった。相変わらず口数は少ない。でも、部品を洗う音と、やすりの音のする部屋に、黙って座っていた。時計のない家で、たぶんそこだけ、時間の音がしたからだと思う。
◇
三十六台を直し終えた冬の初め、最後の一台が、わたしの前に置かれた。
銀の懐中時計。裏蓋に、連隊の紋章。
「弟の、ユーグのものだ」公爵様の声は、平坦だった。平坦すぎた。「遺品として戻ってきた。……これも四時十二分で止まっている。戦闘のときの衝撃で、止まったのだろう。直してくれ。動かさなくていい」
わたしは懐中時計を開き、ルーペを構え――手を、止めた。
「……公爵様。申し上げにくいのですが、この時計、衝撃では止まっていません」
「何?」
「衝撃で止まった機械は、天輪やひげぜんまいに傷が出ます。この機械は無傷です。これは――ぜんまいが、ほどけ切って止まった針です。つまり、持ち主が巻かなくなってから、丸一日ほど経って、自然に止まった。四時十二分は、偶然です」
「馬鹿な。では、弟は死の前日から、時計を」
「いえ。もう一つ、妙なことが」
機械を留める裏側のネジに、こじった跡があった。素人が、急いで、何度も開け閉めした跡。時計師の目には、引っ掻き傷の一本一本が悲鳴みたいに見える。わたしは慎重に文字盤を外し、機械を持ち上げ――
あった。
機械と外装のわずかな隙間に、極限まで薄く畳まれた紙が、一枚。
公爵様の手が、震えながらそれを開いた。小さな紙面に、走り書きがびっしりと詰まっていた。読み上げる声も、途中から、震えた。
『兄上へ。これを読んでいるなら、俺は上手くやれなかったのでしょう。先に言っておきます。明日の突撃は、俺が志願しました。兄上は反対した。三度も却下した。四度目に、俺が連隊長権限の代行を盾に押し通した。だから兄上、これは命令ではない。俺の選択です。
時計を巻くのをやめました。覚悟を決める、というやつです。巻くのをやめると、妙に頭が澄みます。時間はぜんまいの中ではなく、明日の俺の役目の中にあると分かるので。
兄上。俺が死んでも、あなたの時計は巻き続けてください。あなたの時間まで止まったら、俺の選択は、ただの親不孝になってしまう。
十五の誕生日の置時計、あれはまだ動いていますか。あれが動いている家に、俺はいちばん、帰りたかった。 ユーグ』
長い、長い沈黙があった。
公爵様は手紙を持ったまま、動かなかった。三年間、三十七の文字盤が指し続けた四時十二分――兄が弟を殺したと信じた時刻は、弟が兄を赦すどころか、最初から責めてすらいなかった証拠を、機械の中で三年間、守り続けていたのだ。
「……ノエル」
初めて、名を呼ばれた。
「頼みがある。依頼の、変更だ」
公爵様は、顔を上げた。三年ぶんの何かが、その目から流れ落ちたあとだった。
「三十七台、すべて――巻いてくれ」
◇
その日の夕方、ランベール公爵邸に、三年ぶりに時間が戻った。
わたしと公爵様とバティストさんと使用人総出で、一台ずつ、ぜんまいを巻いて回った。ホールの大時計が最初の一打を打ったとき、掃除女中のマノンさんが泣き出し、料理長が「今夜は塩が決まるぞ」と怒鳴り、屋敷中の部屋から、振り子の音が、時報が、三年ぶりの脈拍が戻ってきた。
ユーグ様の置時計は、公爵様が自分の手で巻いた。十五の誕生日の時計は、何事もなかったように、素直に時を刻み始めた。時計は素直な機械だ。手入れさえされていれば、三年待っても、必ず応える。
人間も、たぶん、そうなのだと思う。
◇
後日談を二つ。
一つ。銀の懐中時計は、修理を終えて、動いている。公爵様が毎朝巻いている。「弟の遺言だからな。俺の時計は、巻き続ける」。文字盤の四時十二分は、いまは一日に二度、ただ通り過ぎるだけの時刻になった。通り過ぎられる、ということが、どれほどの快復なのか、この屋敷の人たちは皆知っている。
二つ。わたしは今も週に三日、公爵邸に通っている。三十七台の定期整備、という名目である。三十七台に週三日は、正直、多い。多いことは、わたしも公爵様も、たぶんバティストさんも気づいている。
春の初め、大時計の整備をするわたしの後ろで、公爵様が言った。
「ノエル。組合は、女の親方を認めないそうだな」
「……ええ。ですから、うちの看板の職人名は空欄です」
「公爵家お抱え時計師、という肩書きなら、組合の認可は要らない。当主の任命だけでいい」
わたしは、思わず振り返った。公爵様は、生真面目な顔のまま、続けた。
「ついでに言えば、公爵夫人という肩書きも、組合の認可は要らない。……どちらか一つでは、君を週三日しかこの家に置けない。両方なら、毎日いてもらえる。そういう、計算だ」
「……計算、ですか」
「三年止まっていた男の求婚だ。歯車が錆びていて、こういう言い方しかできん。直せるものなら、直してくれ」
わたしは笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱かった。
「お断りします。その言い方は、摩耗も癖も含めて、あなたが三年かけて動き出した記録ですもの。――過去ごと生かすのが、わたしの流儀です」
返事の代わりに、ホールの大時計が、五時を打った。
止まらない音が、こんなに幸せなものだと、この家はもう、忘れない。
(了)
お読みいただきありがとうございました。
「直せ、ただし動かすな」という矛盾した依頼を出す人は、何を守ろうとしているのか――から逆算して生まれた話です。止まった時計を三年放っておくと機械は傷みますが、手入れさえしてあれば、いつでも動き出せます。人の時間も、たぶん同じです。
ノエルの時計店に持ち込まれる別の時計のお話も、ご要望があれば書くかもしれません。
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