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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第一部 落日の召喚

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第七章 水の温度

 痛みは、朝日よりも先にやってきた。

 石造りの小部屋で目を覚ました瞬間、御影晃は自分の身体がまるで他人のもののように感じられた。両腕の筋肉が焼けた鉄のように熱を持ち、指先を動かそうとするだけで肘から肩にかけて鋭い痛みが走る。背中は寝返りのたびに悲鳴をあげ、首筋には岩を載せられているような重圧がのしかかっていた。

 だが、最も堪えがたいのは頭の中だった。

 こめかみの奥で低い金属音が鳴り続けている。耳鳴りとも幻聴ともつかない、あのヴァルトラウテの駆動音に似た振動が脳の奥に居座って離れない。神経接続の残響だと理性では理解していても、頭蓋の内側を細い針で引っ掻かれているような不快感は消えなかった。

 晃はゆっくりと上体を起こし、眼鏡を手探りで掴んだ。右レンズのヒビが朝の光を乱反射させ、視界の端に虹色の線が走る。こめかみを押さえ、深く息を吐いた。

 昨日のことが現実だったという事実を、身体の痛みが容赦なく証明していた。


 格納庫に足を引きずるようにして辿り着いたのは、朝食の鐘が鳴り終わる頃だった。

 ヴァルトラウテは昨晩と同じ姿勢で格納架に固定されていた。左腕部の装甲板が数枚剥がされ、内部の駆動フレームが露出している。技師たちが足場を組んで作業にあたっており、金属を叩く音と油の匂いが空気を満たしていた。

 その足元に、フィーネ・アルヴェスタがいた。

 作業台に広げた紙片の山に囲まれ、計測器具を片手に何かを書き込んでいる。晃の足音に顔を上げた彼女は、琥珀色の瞳でこちらを一瞥し、感情の読めない声で告げた。

「昨夜の神経接続データを解析した。安全閾値を超えていた」

 晃は格納庫の壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。石の冷たさが背中の熱を少しだけ和らげる。

「超えてた、って……どのくらい」

「第三段階の許容負荷を一・四倍。接続時間があと三十秒長ければ、末梢神経に不可逆的な損傷が生じていた可能性がある」

 淡々と、まるで機体の整備報告を読み上げるような口調だった。だがフィーネの指先が計測器具を握る力がわずかに強まっていることに、晃は気づいた。気づいてしまった。

「次回は接続時間を短縮する。出力制限も再設定する。それまで無断で操縦席に触れることは禁止だ」

「……了解」

 反論する気力もなかった。頭の中の耳鳴りが一段階強くなり、晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてもいないのに、指が勝手に動く。

 フィーネは一瞬だけ晃の顔を見つめ、それから何も言わずに作業台に視線を戻した。


 どれほどそうしていただろう。

 格納庫の空気が変わったのを、晃は肌で感じた。技師たちの手が止まり、足場の上から何人かが振り返る。

 重い足音が近づいてきた。

 ダリウス・ヘルムガルドだった。

 右腕が包帯で吊られている。昨夜の出撃で負った傷だ。それでも歩く姿に揺らぎはなく、鉄灰色の瞳は格納庫の薄暗い空気を切り裂くように真っ直ぐ前を向いていた。

 晃の前で足が止まった。

 見下ろされている。昨夜、自分の代わりに戦場に出た男に。三人の兵士が死んだ夜の後に。

 言葉が来る、と覚悟した。叱責か、失望か、あるいはもっと冷たい何かが。

 だがダリウスは何も言わなかった。

 無傷の左手が差し出された。その手には、素焼きの杯が一つ握られていた。水が入っている。それだけだった。

 晃は反射的に両手で受け取った。ダリウスはそのまま背を向け、格納庫の出口に向かって歩き始めた。

「次はもう少しマシに動け」

 振り返らない声だった。低く、硬く、感情を削ぎ落としたような。

「壁になるだけなら岩でもできる」

 足音が遠ざかり、やがて消えた。

 晃は杯を見つめた。指先に伝わる温度があった。冷たくもなく、熱くもない。ちょうど飲みやすい温度だった。

 戦場帰りの、片腕を吊った男が——わざわざこの温度に調整した水を持ってきた。

 その事実が、どんな言葉よりも重く晃の胸に落ちた。

 杯に口をつけた。水が喉を通るとき、耳鳴りがほんの少しだけ遠のいた気がした。


 午後、レーナが格納庫に姿を見せた。

 フィーネの作業台の前に立ち、損傷報告書の紙片を一枚ずつ確認していく。左袖の百合の刺繍が、油灯の光を受けてわずかに揺れた。赤い百合——その意味を晃はまだ知らない。

「左腕部の第三装甲板、駆動系への干渉は」

「ない。表層損傷のみ。ただし肩部関節の軸受けに微細な歪みが出ている。放置すれば旋回動作に支障が出る」

 フィーネが広げたのは、操縦データの記録紙だった。晃の神経接続中の生体反応と、機体の挙動を時系列で並べたものだ。二人の視線がその上を行き来し、やがてある一点で止まった。

 レーナの眉がわずかに動いた。

「ここだ。恐怖指数が最大値に達している」

 フィーネが頷いた。細い指が記録紙の上を滑り、隣接する数値を示す。

「にもかかわらず、同時点で操作精度が上昇している。通常、恐怖反応が閾値を超えれば筋緊張と判断遅延が生じる。操作精度は低下するのが常識だ」

「だが、こいつは逆だった」

 レーナの声には困惑と、それを隠しきれない何かが混じっていた。晃という存在をどの枠組みに当てはめればいいのか、測りかねている声だった。

「説明がつかない。操縦者としての訓練を受けていない人間が、恐怖の極点で精度を上げる。経験則にも理論にも合致しない」

 レーナは腕を組み、フィーネを見た。

「説明がつかないことを許容できるのか。技師として」

 フィーネは記録紙から顔を上げた。琥珀色の瞳が、レーナの翡翠色の瞳と正面から交差した。

「許容する必要はない。解明すればいい」

 短い沈黙が落ちた。だがその沈黙は対立のものではなかった。二人の視線が交差したまま数秒が過ぎ、レーナの口元がかすかに——本当にかすかに——緩んだ。

「いい答えだ」

 それだけ言って、レーナは記録紙に視線を戻した。フィーネもまた何事もなかったように数値の検証を再開した。

 だが格納庫の隅で膝を抱えていた晃には見えていた。あの一瞬、二人の間に何かが通じ合ったこと。言葉にはならない、けれど確かな信頼の回路が——あるいはその萌芽が——接続されたこと。

 自分は見ているだけだ、と思った。この世界の人たちが築いてきたものの、ほんの端に座っているだけだ。


 夕刻、晃は初めて旅団の兵士たちと食事を共にした。

 食堂と呼ぶには簡素すぎる石造りの広間だった。長テーブルが三列に並び、木の椀に盛られた濃い麦粥と、硬いパンと、塩漬けの根菜が一皿。それが兵士たちの夕食だった。

 晃はテーブルの端に座った。隣に座る者はいない。向かいの席も一つ空いている。見えない壁があるように、兵士たちは晃との間に距離を置いていた。

 異世界人。得体の知れない刻印紋の持ち主。昨夜の戦闘で何もしなかった少年。

 その視線の意味を、晃は正確に理解していた。理解していたから、麦粥を匙ですくう手が震えた。

「おい」

 不意に声がかかった。斜め向かいに座っていた古参兵だった。顔の左半分に古い火傷の痕があり、右手の小指と薬指がない。名前は知らない。昨夜の戦闘にも出ていたはずだ。

 晃は匙を止めて顔を上げた。古参兵は麦粥を口に運びながら、晃を見もせずに言った。

「壁でも何でも、生きてる壁はありがたい」

 それだけだった。古参兵はそれ以上何も言わず、黙々と食事を続けた。

 壁。ダリウスもそう言った。壁になるだけなら岩でもできる、と。だがこの古参兵は——壁でもありがたい、と言った。

 同じ言葉なのに、意味が違う。

 複雑な感情が胸の中で絡み合った。嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、自分でも分からない。ただ、この傷だらけの男が自分のことを「いないよりはいた方がいい」と認めたのだという事実が、予想もしなかった角度から胸を突いた。

 晃は広間を見渡した。

 包帯を巻いた腕で匙を握る者がいた。片足を引きずりながら配膳を手伝う者がいた。隣の仲間と低い声で冗談を言い合い、疲れた顔でそれでも笑う者がいた。

 誰もが傷つき、疲弊していた。それでも明日も戦うのだろう。この城壁の向こうから次の脅威が来ることを知っていて、それでも麦粥を食べ、硬いパンを齧り、明日に備えている。

 この人たちのために、と思った。

 同時に、帰りたい、と思った。

 二つの感情が初めて同時に存在した。矛盾しているはずなのに、どちらも本当だった。どちらかを選ばなければならないと思い込んでいた自分が、少しだけ間違っていたのかもしれないと——まだ答えにはならない、かすかな予感として——晃はそれを胸の中に留めた。

 麦粥を最後の一口まですくい、椀を置いた。味は、正直よく分からなかった。


 夜が来た。

 兵舎に割り当てられた小部屋の硬い寝台に横たわり、晃は天井の石組みを見つめていた。耳鳴りはまだ続いている。筋肉痛は姿勢を変えるたびに主張してくる。二つの月の光が窓の隙間から細く差し込み、石壁に銀と赤銅の筋を描いていた。

 ポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面は黒いままだ。電源は入らない。もう何日も前から分かっていることだ。それでも指が画面の上を滑る。ホーム画面の配置は覚えている。左上にカレンダー、その隣に天気予報、中段にSNSとメッセージアプリ、下段にゲームのアイコン。存在しないアプリを、指先がなぞっていく。

 メッセージアプリの位置に指が止まった。

 Specterからの最後のメッセージ。あの朝、地下通路に入る直前に受信した一文。


 ——明日も対戦しよう。


 顔も名前も知らない相手だった。画面の向こうにいる、声すら聞いたことのない誰か。それでもあの言葉には「明日」があった。明日も会おう、明日も一緒に戦おうという、何気ない約束があった。

 晃は黒い画面を見つめたまま、唇を動かした。

「明日、か」

 声は小さく、自分の耳にすら届くか怪しいほどだった。

 昨日までの自分にとって、「明日」は来て当たり前のものだった。目覚ましが鳴り、制服に着替え、母の寝顔を見て、玄関を出る。その繰り返しが永遠に続くと思っていた。

 今は違う。

 この世界では、明日は約束されていない。あの食堂にいた兵士たちの誰かが、明日の夕食のテーブルにはいないかもしれない。自分自身がいないかもしれない。

 だからこそ、明日があるということの重みが——ほんの少しだけ、輪郭を持ち始めていた。

 まだ分からないことだらけだった。この世界で何ができるのかも、帰れるのかも、自分がここにいる意味があるのかも。杯の水の温度も、壁という言葉の本当の意味も、フィーネの視線の奥にあるものも、レーナの袖の百合の意味も。

 何一つ分かっていない。

 でも、明日がある。

 晃はスマートフォンを胸の上に置き、目を閉じた。耳鳴りの奥で、ヴァルトラウテの駆動音がかすかに脈打っている気がした。

 あの鋼の巨人も、格納庫の暗がりの中で明日を待っているのだろうか。

 そんなことを考えながら、御影晃はこの世界で七度目の夜を越えようとしていた。

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