第六章 初陣
それは予定より三日も早かった。
夜明け前の城塞都市アイゼンヴァッヘに、鉄錆の匂いとは異質な——腐食と酸の混じった悪臭が風に乗って届いたとき、外縁部の監視塔が立て続けに警鐘を鳴らした。南西の荒野を埋め尽くすように蠢く黒い潮流。喰鋼蟲の大規模群が、斥候部隊の予測を大幅に裏切って押し寄せていた。
格納庫の通路を軍靴の音が激しく行き交う。整備兵が怒号を飛ばし、機鋼騎兵の起動準備が慌ただしく進む中、晃は兵舎の薄い寝台の上で跳ね起きていた。聞き慣れてしまった警鐘の音。だが今日のそれは、前哨遭遇戦のときとは比べものにならない密度と切迫感で空気を震わせていた。
制服の上に革紐で留めた防護布を羽織り、格納庫に駆け込んだとき、最初に見えたのはダリウス・ヘルムガルドの広い背中だった。右腕に巻かれた包帯はまだ新しい。先日の戦闘で負った傷が完治していないことは誰の目にも明らかだったが、その声に一片の揺らぎもなかった。
「ヴァルトラウテを出す」
格納庫の空気が凍った。
整備兵たちの手が止まり、視線が一斉にダリウスの横顔に集まる。そしてほぼ同時に、格納庫の奥——ヴァルトラウテの足元で計器を確認していたフィーネ・アルヴェスタが、工具を握ったまま振り返った。
「駄目です」
その声は低く、しかし鉄のように硬かった。
「調律が万全ではありません。神経接続回路の第三層と第五層の同期率がまだ規定値に達していない。この状態で実戦負荷をかければ、操縦者の脳に不可逆的な損傷を与える恐れがあります」
フィーネの琥珀色の瞳がダリウスを真っ直ぐに射抜く。華奢な体躯に似合わぬ気迫だった。彼女の背後では、全高十二メートルのヴァルトラウテが格納庫の薄闇の中に膝をつき、眠れる巨人のように沈黙している。
ダリウスは振り返らなかった。格納庫の入口から差し込む赤い朝焼けの光が、その横顔に深い陰影を刻んでいた。
「出さなければ——何人死ぬ」
言葉ではなかった。それは計算だった。ダリウスの声には感情を押し殺した、純粋な算術だけが残っていた。
フィーネの唇が白くなるまで引き結ばれた。工具を握る指の関節が軋む。数秒の沈黙。格納庫に響くのは遠くの警鐘と、整備兵たちの荒い呼吸だけだった。
やがてフィーネは目を閉じ、一つだけ息を吐いた。
「——二時間が限界です」
歯を食いしばるようにして、彼女は起動手順に取りかかった。ヴァルトラウテの胸部装甲に精密工具を当て、調律紋を刻んだ指先で回路を一つずつ開いていく。その手つきは正確で、迷いがなく、そして怒りに満ちていた。
「二時間を超えたら私が強制停止をかけます。それが条件です」
「了解した」
ダリウスはそれだけ言って背を向け、自身の機体ヴァイスヴォルフに向かって歩き出した。すれ違いざま、晃の前で一瞬だけ足を止める。
「乗れ」
それだけだった。命令でも励ましでもない、ただの事実の通告。
晃の両足が震えていた。膝が笑うという表現があるが、まさにそれだった。膝だけではない。指先が、肩が、顎が、身体中のあらゆる関節が制御を失ったように微細に揺れ続けていた。
ヴァルトラウテの胸部装甲が開く。内部のコックピットが暗い空洞を晒し、操縦桿が晃を待つように佇んでいた。
昇降用の足場に足をかける。一段、また一段。たった数メートルの高さが途方もなく遠い。コックピットの縁に手をかけたとき、指がまるで氷水に浸したように冷たくなっていることに気づいた。
座席に身を沈める。背中を包む金属の感触。操縦桿を握る。震えが止まらない。左鎖骨下の刻印紋が熱を持ち、じわりと発光し始めた瞬間——通信回路が繋がった。
「御影」
フィーネの声だった。格納庫の調律台から送られる、ノイズ混じりだが明瞭な声。
「恐怖を感じているか」
返答に一瞬の間もなかった。
「当たり前だ」
声が裏返った。情けなかった。だがそれが紛れもない本音だった。怖い。怖くてたまらない。逃げたい。ここにいたくない。母の寝顔が見たい。祖父の工場の油の匂いが嗅ぎたい。スマートフォンの画面を指でなぞって、存在しないアプリを起動したい。
「そのままでいい」
フィーネの声が、不思議な静けさを湛えて言った。
「データ上、恐怖を感じるほど神経接続は深化する。人間の脳が危機を認識したとき、刻印紋を介した情報伝達量は通常時の三倍以上に跳ね上がる。恐怖を消すな」
恐怖を、消すな。
逆説だった。およそ戦場に送り出す者がかける言葉ではなかった。「大丈夫だ」でも「落ち着け」でもなく、「怖がれ」と言ったのだ。だがその言葉が——晃の脳の奥で、何かの回路を繋いだ。
怖い。怖いままでいい。恐怖は欠陥ではなく機能だ。
震えが止まったわけではない。むしろ震えたまま、意識だけが異様に透明になっていく感覚があった。眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。ずれていないのに。いつもの癖。
ヴァルトラウテの双眸が蒼白く灯った。
城塞の外門が開いた瞬間、世界が変わった。
赤土の荒野に展開する光景を、晃の脳は最初の数秒、処理できなかった。
通常の機鋼騎兵——ヴァルケン聖皇国の量産機が四機、荒野の窪地で金属質の蟲の群れと泥臭くぶつかり合っていた。剣を振り下ろし、蟲を踏み潰し、装甲を齧られ、関節部から火花を散らしながら後退し、再び斬りつける。戦術も美しさもない、生存のための原始的な暴力の応酬。蟲の体液が赤土に黒い染みを広げ、機鋼騎兵の装甲片が砕けて飛び、兵士の絶叫と蟲の甲高い共鳴音が入り混じって——地獄だった。
晃の脳がフリーズしかけた。
視界が白くなる。神経接続を通じてヴァルトラウテの全感覚が流れ込んでくる。装甲表面の温度、風向き、地面の傾斜、周囲の音響——情報の濁流が意識を押し流そうとする。
駄目だ。このままでは溺れる。
そのとき、晃の中で無意識の習慣が起動した。
HUD。ヘッドアップディスプレイ。ゲームの画面だ。
視界の右上にミニマップを配置する。左下にHP——いや、装甲耐久値のゲージ。画面中央にクロスヘア。敵ユニットの数と位置を色分けしたアイコンで配置。味方ユニットの残存数と行動状態をステータスバーで表示。
現実の戦場を、頭の中で「画面上の情報」として強引に再構成する。
荒唐無稽な対処法だった。だがそれは晃が何千時間もの対戦で身体に染み込ませた、唯一の情報処理の枠組みだった。恐怖で震える身体の内側で、脳だけが凍りついた明晰さを取り戻していく。
——右翼。
ダリウスの声が通信に割り込んだ。
「右翼の第三小隊が後退している。あと三分で防衛線が崩れる」
晃の再構成したHUDの中で、右翼に配置された味方アイコンが二つ、点滅を繰り返していた。後退。蟲の群れが楔形に食い込み、防衛線を引き裂こうとしている。
崩壊ポイント。右翼。
敵を倒す技術はない。五日間の基礎訓練で身につけたのは、歩くことと、立つことと、倒れないことだけだ。剣の振り方も砲の撃ち方も、まともに教わる時間すらなかった。
だが——。
「……いや、待って。待ってくれ。整理させて」
口が勝手に動いていた。独り言のように、しかし通信回路は開いたまま。
「右翼の蟲、進路が扇状に広がってる。中央の大型個体が突破点で、その左右に小型が追従してる構造だ。突破点を塞げば扇が折りたたまれる。倒さなくても——塞げばいい」
ヴァルトラウテの巨体。全高十二メートル。古代文明の至宝。その装甲は現行の機鋼騎兵とは比較にならない。
壁になる。
操縦桿を握る手が震えたまま、晃はヴァルトラウテを右翼の崩壊ポイントへ向けて踏み出させた。
一歩ごとに赤土が揺れる。二歩目で蟲の群れが新たな脅威を認識し、甲高い共鳴音を上げた。三歩目でヴァルトラウテは後退する二機の前に立ちはだかり——四歩目で、蟲の波が正面から激突した。
衝撃が走った。
装甲に蟲の牙が突き立てられるたび、神経接続を通じて晃の全身に鋭い痛みが走る。腕を、脚を、胸を齧られる幻覚。機体の痛みが操縦者の神経に逆流する。奥歯を噛みしめ、こめかみから冷たい汗が流れた。
「ぐ——ッ」
叫びたかった。逃げたかった。だが足を動かさなかった。ヴァルトラウテの両足を荒野に踏みしめ、両腕を広げるようにして蟲の進路を塞いだ。
古代兵器の装甲が、蟲の牙を弾いた。
分厚い金属がきしみ、火花が散り、だが破れない。蟲が装甲の表面を滑り、弾かれ、体勢を崩す。楔形の突撃陣形が正面の壁に激突して押し返され、扇の形が歪み始める。
その隙を、後退していた二機が見逃さなかった。
体勢を立て直した味方機が左右から蟲の側面を突き、重い刃が甲殻を断ち割る。黒い体液が飛散し、蟲が悲鳴のような共鳴音を上げて崩れる。晃の背後で——彼が壁になったその陰で、右翼の防衛線が持ち堪えた。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
体感では永遠だった。実際にはおそらく二十分にも満たなかっただろう。ダリウスのヴァイスヴォルフが中央で大型個体を仕留め、左翼が押し返し、蟲の群れが退潮のように引いていったとき、晃は操縦桿を握ったまま意識が半分飛んでいた。
一体も倒していない。
剣を振るっていない。砲も撃っていない。ただ立って、蟲にぶつかられて、踏ん張っていただけだ。壁になっただけだ。
それでも——右翼は崩壊しなかった。
格納庫にヴァルトラウテが戻り、膝をつく姿勢で停止した瞬間、胸部装甲が開いた。
コックピットの中で、晃は操縦桿にしがみつくようにして嘔吐した。胃の中にほとんど何もなかったから、出てきたのは酸っぱい液体だけだった。それでも身体は何度も痙攣するように嗚咽を繰り返し、涙と鼻水と胃液で顔がぐちゃぐちゃになった。
震える唇で、最初に出た言葉。
「ヴァルトラウテ——壊してないよな」
自分の身体より先に、機体のことを聞いた。なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。ただ、あの蟲の衝撃を全身で受け止めてくれた金属の巨人に対して、それだけが最初に確認すべきことだと思った。
通信越しに、一拍の間があった。
フィーネの声が返ってきたとき、そこにはいつもの無感情な技師の声とはわずかに異なる何かが混じっていた。
「操縦は下手だ」
容赦のない評価だった。だが続けて——
「だが、機体への負荷分散が異常に均等だった。普通の操縦者は恐怖で力みが出て、特定の関節部に過剰な負荷が集中する。お前は——全身で均等に受けていた」
格納庫の昇降台が上がり、フィーネの小柄な姿がコックピットの縁に現れた。その手には布が一枚握られていた。顔を覗き込み、嘔吐物にまみれた晃の惨状を一瞥し——表情を変えないまま、布を投げた。
「口を拭け」
それだけだった。労いも賞賛もない。だが布は清潔で、乾いていて、かすかに機械油の匂いがした。
晃は震える手でそれを受け取り、口元を拭った。
格納庫の奥。通信記録の再生装置の前に、ダリウスとレーナが並んで立っていた。
画面には戦闘中のヴァルトラウテの行動記録が数値と図形で表示されている。右翼崩壊ポイントへの移動経路、蟲の衝突箇所と装甲負荷の分布、停止位置の座標。そして——通信音声の波形。
晃が独り言のように吐き出した戦場分析の音声が、ノイズ混じりに再生された。
「右翼の蟲、進路が扇状に広がってる——突破点を塞げば扇が折りたたまれる——倒さなくても、塞げばいい——」
ダリウスが包帯の巻かれた右腕を組み、低く息を吐いた。
レーナが横で黙ったまま記録を見つめている。その左袖の百合の刺繍が、格納庫の薄い灯りにかすかに揺れていた。
「あの小僧」
ダリウスの声は、感情を排した軍人の声だった。だがその中に、ほんの微かな——困惑とも感嘆ともつかない何かが滲んでいた。
「怖がりながら、戦場が見えている」
レーナは何も言わなかった。ただ通信記録の波形を見つめ続け、やがて小さく息を吐いた。あの恐怖に裏返った声で、それでも的確に戦況を読み解いた少年の声。それがどういう種類の才能なのか——あるいは才能という言葉で片づけてはいけない何かなのか、レーナにはまだ分からなかった。
格納庫の片隅で、晃はヴァルトラウテの足元に背を預けて座り込んでいた。口を拭いた布をまだ握りしめたまま、ぼんやりと天井を見上げている。眼鏡の右レンズのヒビ越しに、格納庫の灯りが歪んで見えた。
全身が痛い。頭が痛い。指先の感覚がまだ戻らない。
だが生きている。壊していない。誰も——少なくとも右翼では、自分が立っている間は誰も死ななかった。
それが何の意味を持つのか、今の晃にはまだ分からなかった。ただ左鎖骨下の刻印紋が、戦闘の余韻を残すようにじんわりと熱を帯びており、背中に触れるヴァルトラウテの装甲が、不思議とまだ温かかった。




