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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第一部 落日の召喚

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第五章 壊れた眼鏡

 朝の光は、この世界でも容赦がなかった。

 石壁の隙間から差し込む陽光が瞼を刺し、晃は硬い寝台の上で身を捩った。一瞬だけ自分の部屋にいる錯覚に陥り、目を開けた途端に灰色の天井石が視界を埋めて、現実が背骨を殴りつけるように戻ってきた。

 昨夜の戦闘の記憶。格納庫に響いた轟音。通信越しの悲鳴。そして、自分は——何もしなかった。

 身体を起こすと、眼鏡のレンズ越しに滲んだ世界が揺れた。ポケットの中で、電源の入らないスマートフォンが沈黙している。いつもの朝と同じように画面を確認しようとして、指先が虚空を撫でた。

 扉を叩く音がした。控えめではあったが、有無を言わせない律儀な三打。

「入る」

 返事を待たず、レーナ・フォン・ベルツが部屋に踏み込んできた。軍服の襟元まできっちり留められた姿は早朝だというのに隙がなく、右手には薄い紙束——訓練計画書のようなものが握られている。

 晃は寝台の縁に腰をかけたまま、思わず視線を逸らした。昨夜、格納庫の隅で震えていた自分を、この人は見ていたのだろうか。見ていなかったとしても、知っているだろう。搭乗しなかったという事実は、この小さな城塞都市の中で隠しようがない。

「御影晃」

 レーナの声は感情を削ぎ落としたように平坦だった。左頬から顎にかけて走る古傷が、朝日の角度で深い影を落としている。その左袖の袖口に縫い取られた百合の刺繍が、昨夜見たときと同じように静かに揺れていた。赤い百合。意味は分からない。けれど何か重いものが込められていることだけは、縫い目の丁寧さが語っていた。

「本日〇六〇〇より、基礎操縦訓練を開始する。スケジュールはここに記載した通りだ」

 紙束が寝台の上に置かれた。晃は反射的に手を伸ばしたが、文字は当然ながら読めなかった。刻印紋の言語変換機能は会話には辛うじて追いつくが、文字の解読にはまだ時差がある。

「……あの、俺、まだ——」

「乗るなら死なない程度の技術を身につけろ」

 レーナは遮った。その声に怒りはなかった。軽蔑もなかった。ただ、事実だけがあった。

「昨夜、お前の代わりに前に出た兵士がいる。三人が死んだ。ダリウス団長は右腕に裂傷を負った。お前が乗らなかったことの是非を問うつもりはない。だが——訓練を受けることは、あの兵士たちへの最低限の礼儀だ」

 反論の言葉が喉の奥で固まった。何を言えばいい。俺は怖かったんだ、と正直に告げれば許されるのか。許されるはずがない。怖かったのは死んだ三人も同じだ。

「……分かりました」

 声が掠れた。レーナは一瞬だけ晃の顔を見つめ、それから何も付け加えずに踵を返した。扉が閉まる直前、左袖の赤い百合がもう一度だけ視界の端を掠めて消えた。


 訓練場は、格納庫に隣接する半屋外の空間だった。

 石畳の地面に操縦桿のシミュレーション台が据えられ、その背後にヴァルトラウテの巨体が薄暗い格納庫の奥で膝をついている。全高十二メートルの灰白色の装甲が、天窓から落ちる光を鈍く反射していた。

 フィーネ・アルヴェスタは既にそこにいた。革のエプロンの上にいくつもの工具を吊り下げ、シミュレーション台の配線を最終確認している。銀灰色の髪を無造作にまとめた後ろ姿は、年齢の割に——いや、年齢を忘れさせるほどに職人然としていた。

「座れ」

 振り返りもせずに言った。晃は素直に操縦桿の前の椅子に腰を下ろした。革張りの座面は硬く、背もたれの角度が妙に浅い。人間の快適さより機械との接続効率を優先した設計だと直感的に分かった。

「基礎操縦系統の解説を行う。一度しか言わない」

 フィーネが振り返った。その琥珀色の瞳が晃を捉え、感情の温度を測るように一拍置いてから、彼女は語り始めた。

「機鋼騎兵の駆動制御は三層構造だ。第一層はグルント・コマンド、操縦者の意識信号を刻印紋経由で受信し機体骨格のアクチュエータに変換する基幹命令系。第二層はフェルト・レゾナンツ、操縦者の空間認識と機体の姿勢制御をリアルタイムで同期させる触覚フィードバック回路。第三層はティーフェ・バント——深層紐帯。操縦者と機体の意識を直接接続する古代技術の中枢で、これが暴走すると神経焼損を起こす。昨日の初回搭乗で発生した情報過多は第二層と第三層の境界で——」

「待って」

 晃は思わず片手を上げた。眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。ずれてはいない。けれど指が勝手に動いた。

「待ってくれ。……整理させて」

 フィーネの眉がわずかに寄った。説明を遮られることに慣れていないのだろう。あるいは、遮る度胸のある人間がこれまでいなかったのかもしれない。

 晃は目を閉じた。頭の中にゲームのインターフェースを描く。GRID:VANGUARDの設定画面。操作カスタマイズのツリー構造。入力デバイスがあり、レスポンス速度の調整があり、画面表示のリフレッシュレートがある。三層。入力、同期、深層接続。

「……要するに」

 目を開けた。

「この操縦桿が信号を送って、機体の反応速度を調整する——ってこと? 第一層が入力コマンド、第二層が入力と出力のラグを埋めるリアルタイム補正、第三層がハードウェアとソフトウェアの直結。で、第三層に負荷がかかりすぎるとシステムごとクラッシュする」

 沈黙が落ちた。フィーネは腕を組み、晃の顔をじっと見つめた。その視線に侮蔑はなかった。かといって称賛もなかった。分析している目だった。機体の駆動音を聴いて不調箇所を特定するときと同じ精密さで、晃という存在を値踏みしている。

「粗雑だが」

 フィーネはようやく口を開いた。

「本質は間違っていない」

 それだけだった。けれど晃には、その一言がフィーネにとって最大級の譲歩であることが何となく伝わった。技術者としての矜持が許す範囲で、素人の言い換えを認めた。それは二人の間に初めて架かった、細い橋のようなものだった。

「続ける。第一層の制御パラメータから順に——」

 フィーネの解説が再開された。今度は晃も、専門用語が出るたびに自分の言葉で置き換えるという作業を繰り返した。フィーネはそれを遮らなかった。間違っていれば無言で首を振り、正しければ何も言わずに次に進んだ。不思議なリズムが生まれていた。言語が違い、世界が違い、前提知識がまるで噛み合わないはずの二人の間に、「機械を理解しようとする意志」だけが共通言語として機能し始めていた。


 事故が起きたのは、実機シミュレーションに移行してからだった。

 ヴァルトラウテのコックピット内。神経接続は最小出力に制限されていたが、それでも操縦桿を握る両手には微かな振動が伝わってくる。機体の心臓が脈打つような、低い共鳴。

 フィーネの指示に従い、右腕部の駆動テストを行っていたときだった。操縦桿を手前に引く動作で身体が前のめりになり、顔面が操縦桿の上端に接触した。

 鈍い音がした。

 最初は何が起きたか分からなかった。視界の右半分が不自然に歪み、顔の右側に冷たい感触が走った。手を当てると、眼鏡のフレームが——右のテンプルの付け根から、ぐにゃりと内側に折れ曲がっていた。

 レンズにヒビが入っている。蜘蛛の巣のような亀裂が右レンズの中央から放射状に広がり、光が不規則に屈折して視界を掻き乱した。

「——っ」

 血の気が引いた。

 異世界にスペアはない。眼鏡屋もない。度数の合うレンズを削れる職人がこの世界に存在するかどうかすら分からない。

 これがなければ、文字が滲む。操縦桿の目盛りが読めなくなる。母が買ってくれた——入学祝いに、少し奮発して選んでくれた眼鏡だ。

 手が震えた。戦闘で震えたのとは違う種類の恐怖が胸を締め付けた。この世界で壊れたものは、元には戻らない。二度と。

「操縦者。損傷報告を」

 フィーネの声が通信機越しに響いた。冷静な、業務上の確認。

「……眼鏡が、壊れた」

 声が情けなく裏返った。


 格納庫の隅に座り込んだ晃は、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。スパナの形をした金属製のキーホルダー。祖父・鋼一から譲り受けたもので、晃がお守り代わりに持ち歩いていた。

 スパナの柄の部分を支点にして、歪んだフレームをゆっくり押し戻そうとする。金属が軋む音がして、フレームが微かに動いた。だが角度が悪い。力の加減が分からない。テンプルの蝶番部分に余計な力がかかり、嫌な手応えが返ってきた。

「くそ……」

 指先が滑った。スパナ型のキーホルダーでは大きすぎる。精密な作業には向いていない。それでも他に道具がない。晃は唇を噛み、もう一度フレームに取りかかった。

 足音がした。

 革底の靴が石畳を叩く、軽いが正確なリズム。晃が顔を上げると、フィーネが三歩ほど離れた場所に立っていた。腕を組み、晃の手元を無言で見つめている。

 どれくらいそうしていたのだろう。十秒か、三十秒か。フィーネの琥珀色の瞳が晃の指の動きを追い、キーホルダーの形状を確認し、フレームの変形角度を測定していた。技師の目だった。

 やがてフィーネはエプロンのポケットに手を入れ、一本の工具を取り出した。先端が極めて細い、精密な曲げ矯正用の治具。調律紋の微調整にでも使うのだろうか、その金属の輝きは格納庫の薄暗がりの中でも美しかった。

 フィーネは工具を晃の前に差し出した。

「そのやり方では悪化する」

 それだけ言って、背を向けた。立ち去ろうとしている。使い方を教えるつもりはないらしい。道具を渡した。あとは自分でやれ。それがフィーネの流儀なのだと、晃は理解した。

「……ありがとう」

 フィーネは答えなかった。

 晃は精密工具を手に取った。指先に馴染む重さ。先端の角度。力の伝わり方が、キーホルダーとはまるで違う。

 祖父の声が蘇った。

 週末ごとに通った、団地の近くの祖父の家。油の匂いが染みついた作業台。壊れたラジオ、動かなくなった時計、誰かが捨てた扇風機。祖父の太い指が、しかし繊細な力加減で金属を扱うのを、晃はいつも隣で見ていた。

「力を入れるな、晃。金属はな、無理に曲げれば折れる。どこまで戻りたがっているかを、指先で聴け」

 フレームの歪みに工具の先端を当てた。力を入れない。金属がどちらに戻りたがっているかを、指先の感触で探る。蝶番の軸がわずかにずれている。そこを支点に、ゆっくりと、呼吸を合わせるように矯正していく。

 一ミリ。また一ミリ。フレームが本来の形を思い出すように、少しずつ戻っていった。

 右レンズのヒビは消えない。それでもフレームの歪みが直れば、かけられる。視界の右半分に蜘蛛の巣模様が残るが、見えないよりはずっといい。

 最後にテンプルの角度を微調整して、晃は眼鏡をかけ直した。こめかみへの圧迫が均等になる。ずれない。視界が、不完全ながらも安定した。

 ふっと息を吐いた瞬間、背後でかすかな声が聞こえた。

「悪くない」

 振り返ると、フィーネは既に格納庫の奥へ歩き去っていくところだった。その背中は小さく、革のエプロンに吊り下がった工具がかちゃかちゃと音を立てていた。

 悪くない。

 フィーネの口から出たその二語が、晃にはどんな賞賛よりも重く響いた。技術で語り、技術で認める。それがこの世界の職人の言葉なのだと、祖父の背中を知る晃には分かった。


 夜が来た。

 二つの月が城塞都市の上に昇っている。銀白のゼルダと赤銅のカルマ。地球の月とは似ても似つかない二重の光が、格納庫の天窓から斜めに差し込んで、ヴァルトラウテの装甲を淡く染めていた。

 晃は機体の足元に座っていた。背中を巨大な脛部装甲に預け、膝を抱えて見上げる。全高十二メートル。膝をつく姿勢のまま沈黙する灰白色の巨人は、まるで何かを待っているように見えた。

 格納庫に人の気配はない。整備班は交代の時間で、次の当番が来るまでの空白。戦闘後の補修が一段落した静寂の中に、金属が冷えていく微かな収縮音だけが響いている。

 晃はポケットからスマートフォンを取り出した。画面は黒いままだ。電源ボタンを押しても何も起きない。それでも指がホーム画面の位置をなぞった。左上がカレンダー。その隣が天気予報。右下にGRID:VANGUARDのアイコン。存在しないアプリをタップして、指が空を切った。

 Specterからのメッセージに、まだ返信していない。

 明日も対戦しよう。

 明日は来なかった。少なくとも、あの世界での明日は。

 スマートフォンをポケットにしまい、晃は装甲を見上げた。

 祖父の声が蘇る。壊れたラジオを前にして、幼い晃が「どうやって直すの」と訊いたとき、祖父は太い指でラジオの筐体をぽんと叩いて言った。

「まず触れ。話はそれからだ」

 立ち上がった。脛部装甲に手を伸ばす。指先が灰白色の金属に触れた瞬間、左鎖骨の下がかすかに熱を持った。刻印紋の反応。初めて触れたときのような膨大な情報の奔流ではなく、もっと穏やかな——静電気にも似た微かな共鳴。

 装甲は冷たかった。けれどその冷たさの奥に、確かに何かが脈打っているのを掌が感じ取っていた。コアが呼吸している。眠っているのではなく、黙っているだけだ。

「……お前も何か言いたいことあるのか」

 声に出してから、馬鹿げていると思った。十二メートルの鉄の塊に話しかける十六歳。誰かに見られたら正気を疑われる。

 けれど——返事があった。

 ヴァルトラウテの頭部。バイザー状のセンサーアイが、ふっと明滅した。暗い格納庫の中で、淡い青白い光が一拍だけ灯り、消えた。機械的なエラーかもしれない。電力の残滓が引き起こしたノイズかもしれない。

 それでも晃には、返事のように見えた。

 掌を装甲に当てたまま、晃はしばらく動かなかった。二つの月の光が天窓から差し込み、少年と機体の影を格納庫の床に長く伸ばしていた。

 怖かった。まだ怖い。明日の訓練も、その先に来るであろう戦闘も、この世界に自分がいることの意味も——何一つ分からない。

 けれど指先だけは、装甲から離さなかった。

 祖父が教えてくれた。まず触れろ。話はそれからだ。

 話の続きは、まだ見えない。けれど少なくとも今夜、晃はヴァルトラウテに触れている。壊れた眼鏡越しに、右レンズのヒビが二つの月の光を砕いて、小さな虹を装甲の表面に散らしていた。

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