第四章 鉄の歓迎
噂は鉄粉混じりの風よりも速く広がった。
異世界から来た少年がヴァルトラウテを起動した——その報せは、わずか一日のうちに前線城塞都市アイゼンヴァッヘの石壁に染み込むように鉄槌旅団全体へと浸透していった。
格納庫の通路を歩くとき、晃は無数の視線を感じた。好奇や警戒ではなく、もっと冷たく、もっと正直なもの。すれ違う兵士たちの表情が物語っていた。あの華奢な身体で機鋼騎兵に乗ると? あの怯えた目で戦場に出ると? 馬鹿げている、と。
鎧の肩当てを磨いていた中年の下士官が、隣の同僚に聞こえよがしに言った。
「あれが継承者様だとさ。俺の息子の方がまだ根性あるぞ」
笑い声が短く弾けた。晃は俯いたまま歩調を速めた。反論する言葉など持ち合わせていなかった。彼らが間違っているとも思えなかった。
兵舎の食堂では椅子一つ分の空白が晃の両隣に生まれた。誰も近づかないのではなく、わざわざ一席空けて座るのだ。隔離ではなく、値踏みだった。あるいは——汚れが移ることを恐れるように。
固い黒パンを千切りながら、晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてはいない。ただ、そうしないと指の震えが止まらなかった。
昼過ぎ、兵舎の廊下で待ち構えていたレーナに連れられ、晃は城塞の上層へ向かった。石段を昇るたび、壁に嵌め込まれた古びた鉄製の燭台が橙色の火を揺らす。階を上がるごとに空気が乾き、鉄錆の匂いが濃くなった。
「どこに行くんですか」
「団長の私室だ。戦況説明がある」
レーナの声は平坦で、それ以上の説明を許さない響きがあった。
重い鉄扉の前でレーナが三度叩き、内側から低い声が応じた。
「入れ」
部屋は質素だった。石壁に囲まれた空間に、大きな木机が一つ。その上に革装の地図が広げられ、木彫りの駒がいくつか置かれている。壁には武器の類はなく、代わりに書類束が棚に整然と並んでいた。窓から差し込む西日が、机上の地図に赤銅色の影を落としていた。
ダリウス・ヘルムガルドは椅子に座ったまま晃を見た。鉄灰色の瞳は昨日と変わらず感情を映さない。だがその眼差しの奥には、疲弊と、そしてどこか磨り減った刃のような鋭さがあった。
「座れ」
机を挟んで向かい側の椅子を顎で示される。晃は黙って従った。レーナは扉の脇に立ち、壁に背を預けた。
ダリウスは前置きなく地図を指で叩いた。
「ここが我々のいるアイゼンヴァッヘだ。聖皇国の南西前線における最大の防衛拠点にして、現状では最も脆弱な一点でもある」
指が地図の南へ滑る。赤い駒がいくつか並べられた一帯を示した。
「隣国連合——シュヴァルツ・ブントの主力は、ここ三ヶ月で南部戦線に兵力を集中させている。偵察部隊の報告では、機鋼騎兵少なくとも八機を含む大規模侵攻部隊の編成が確認された。指揮官は総司令官カルヴァス本人と推定される」
晃は地図を見つめた。駒の配置、距離感、地形の起伏。頭の奥で、無意識にゲームのマップ画面と重ね合わせようとしている自分がいた。
「我が鉄槌旅団の稼働戦力は機鋼騎兵二機。俺のヴァイスヴォルフと、クラウディス辺境伯家から派遣されたセリオンのアグライア。それに通常戦力の歩兵・砲兵合わせて約八百。増援の見込みは当面ない」
ダリウスの声には激情がなかった。淡々と、まるで壊れかけた機械の点検報告を読み上げるように、前線の窮状を数字で語った。
「八機に対して二機、ですか」
晃の声が掠れた。
「加えて喰鋼蟲の出現頻度が上がっている。連合側が意図的に誘引している可能性がある。二正面作戦を強いられれば、この城塞は三週間と持たん」
ダリウスは地図から目を上げ、晃を真っ直ぐに見た。
「ヴァルトラウテは古代文明の最高傑作の一つだ。あれが完全稼働すれば、戦力比を根本から覆す。お前はその唯一の起動者だ」
唯一。その言葉が、石の部屋に重く落ちた。
晃はしばらく黙っていた。地図の上の赤い駒を見つめ、それから自分の手を見た。細い指。ゲームのコントローラーを握るためだけに存在していたような、何の力もない手。
「……一つ、聞いていいですか」
「言え」
「帰れる方法は——あるんですか。元の世界に」
沈黙が落ちた。
ダリウスは答えなかった。一秒、二秒。窓の外で風が唸り、遠くの鉄嵐の気配が石壁を震わせた。レーナが微かに目を伏せた。
やがて、ダリウスは口を開いた。
「分からん」
その声には嘘がなかった。慰めも、ごまかしも、削ぎ落とされた後に残る、ただの事実だった。
「だが——生きていれば可能性はある。死ねばそこで全て終わりだ。それだけは確かだろう」
晃は唇を噛んだ。希望とも絶望ともつかない言葉だった。だが不思議と、安易な励ましよりもずっと胸に残った。この男は嘘をつかない。少なくとも、嘘で人を動かすことを選ばない——そういう種類の不器用さが、ダリウスの声にはあった。
「……わかりました」
何がわかったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、椅子から立ち上がる以外にこの場でできることがなかった。
夕刻。格納庫に戻った晃は、ヴァルトラウテの巨大な右足の陰に座り込んだ。
整備兵たちは奥の工廠で作業に追われており、この一角は薄暗く静かだった。天井の高い格納庫に残響する金属音が、断続的に遠くから届く。
ポケットからスマートフォンを取り出した。画面は黒いままだ。電源ボタンを何度押しても応答しない。バッテリーが切れたのか、それとも異世界の何かが電子機器そのものを殺してしまったのか。いずれにしても、もう光ることのない四角い板だった。
それでも晃は、親指でそっと画面をなぞった。
ロック画面をスワイプする動作。ホーム画面が開く——はずの、何もない黒いガラス。指は正確に記憶を辿った。左上がカメラアプリ。その隣が時計。中段の右端にメッセージアプリがあって、そこをタップすれば——
Specterからの最後のメッセージが表示されるはずだった。
「明日も対戦しよう」
あの一文。返信を打とうとして、打てなかった。光に呑まれたから。
指先がガラスの上を滑る。冷たい。ただ冷たいだけの、何も返してこない表面。
母の顔が浮かんだ。夜勤明けでソファに横たわる沙織の、疲弊しきった寝顔。毛布をかけ直した自分の手。「行ってきます」を言えなかった玄関の靴。
祖父の工房が浮かんだ。油と金属の匂い。旋盤の回る低い唸り。「まず触れ。話はそれからだ」と言って、壊れたラジオの裏蓋を外してくれた鋼一の節くれだった指。
目の奥が熱くなった。泣きはしなかった。泣けるほど、まだ何かを諦めてはいなかった。ただ、胸の中に重たい石が一つ増えたような感覚だけがあった。
スマートフォンを両手で包み込むように握り、額に押し当てた。
「脱水状態の操縦者は使い物にならない」
声は唐突に降ってきた。
顔を上げると、レーナが立っていた。片手に素焼きの杯を持ち、無言で差し出している。水だった。透き通った、冷たい水。
晃は一瞬ためらい、それから杯を受け取った。喉が渇いていたことに、受け取ってはじめて気づいた。水が喉を通る感覚が鮮明で、身体の内側にいのちが滲みていくようだった。
レーナは晃の隣に立ったまま、ヴァルトラウテを見上げていた。格納庫の薄い照明を浴びて、巨大な機体の装甲が鈍い光を帯びている。
「……怖いんです」
晃は自分でも驚くほど素直に言葉が出た。
「ああ。知っている」
レーナの返答は突き放すようでいて、不思議な静かさがあった。
「恐怖を感じているなら正常だ」
そう言って、一拍置いた。
「感じなくなったときが危ない」
それだけ告げると、レーナは踵を返した。軍靴の底が石の床を打つ音が、規則正しく遠ざかっていく。
晃はその背中を見送った。左袖の袖口に、小さな刺繍が施されているのが目に入った。赤い花。百合だろうか。繊細な糸で丁寧に縫い取られた、場違いなほど美しい紋様だった。
その意味を、晃はまだ知らなかった。
夜が更けた。
格納庫の照明が夜間警戒用の最低限に落とされ、ヴァルトラウテの輪郭が闇に溶けかけた頃——
警報が鳴った。
甲高い金属音が格納庫の天井に反響し、壁を震わせた。鐘ではない。石壁に埋め込まれた古代の警報装置が、断続的に耳を劈く振動を発していた。
晃は弾かれるように立ち上がった。
格納庫の各所で整備兵が走り、怒号と指示が飛び交う。重い鉄扉が次々に開かれ、武装した兵士たちが外壁へ向かって駆けていく。
「喰鋼蟲だ! 外縁部、南西の鉄柵線を越えてきた!」
「数は——小規模群、十数体! ただし見たことのない大型個体が混じっている!」
通信兵の叫びが石壁に跳ね返る。格納庫の空気が一変した。さっきまで油と鉄錆の匂いしかしなかった空間に、戦の気配が濃密に充満する。
晃は立ち尽くした。足が動かなかった。
格納庫の奥から、ダリウスが現れた。すでに操縦用の接続服を身につけ、灰色の外套を翻して大股でヴァイスヴォルフの格納区画へ向かっている。すれ違う兵士たちが道を開け、敬礼する。その足取りには一片の迷いもなかった。
「団長、ヴァイスヴォルフ起動準備完了しています!」
「了解。全通常戦力は外壁防衛線に展開。俺が前に出る」
ダリウスの声が格納庫に響いた。無駄のない、鉄のような命令。
その背中が格納区画に消え、間もなく地鳴りのような起動音が格納庫全体を揺らした。ヴァイスヴォルフの白銀の装甲が照明を弾き、巨大な人型の影が立ち上がる。射出口の大扉が轟音とともに開かれ、夜の荒野の冷気が吹き込んできた。
ヴァイスヴォルフが駆け出す。その一歩が地面を震わせ、晃の足元まで振動が伝わった。
そして——フィーネが走ってきた。
息を切らし、作業着の袖を肘まで捲り上げたまま、晃の前に立った。調律用の工具が腰のベルトで揺れている。銀灰色の髪が乱れ、琥珀色の瞳が真っ直ぐに晃を射抜いた。
「ヴァルトラウテは出力可能な状態だ」
その声には感情が削ぎ落とされていた。技師としての報告。事実の伝達。だがその目の奥には、晃に何かを問うような光があった。
晃はフィーネを見返した。
乗れ、と彼女は言わなかった。乗るな、とも。ただ「可能だ」という事実だけを差し出した。選択は晃に委ねられていた。
格納庫の外から、轟音が響いた。ヴァイスヴォルフの砲撃音。続いて金属を引き裂くような悲鳴——喰鋼蟲の咆哮だった。通信機から断片的に声が漏れる。
「前衛第三小隊、押されています! 新型個体の装甲が厚い、通常火器では——」
「負傷者搬送、担架が足りない!」
「左翼が崩れる、左翼が——」
晃の手が震えた。膝が笑った。呼吸が浅くなり、視界の端が暗くなる。
ヴァルトラウテは晃の背後に佇んでいた。膝をつく姿勢のまま、暗い格納庫の中で沈黙している。胸部装甲は開いたままだった。コックピットの空洞が、まるで口を開けて待つ何かのように闇を湛えていた。
乗らなければ。
頭ではわかっていた。乗って、動かして、前に出て、あの化け物を——
身体が、動かなかった。
恐怖が全身を支配していた。操縦桿を握った瞬間に流れ込んでくるあの膨大な情報の奔流。意識を引きちぎられるような神経接続の衝撃。そしてその先にあるもの——殺すか、殺されるかという、ゲームのリセットボタンがない現実。
晃は一歩も動けなかった。
フィーネは数秒間晃を見つめ、それから何も言わずに踵を返した。通信機を掴み、整備班への指示を飛ばしながら格納庫の奥へ走っていく。その背中には失望も軽蔑もなかった。ただ、自分にできることへ向かう技師の矜持だけがあった。
晃はヴァルトラウテの足元に崩れるように座り込んだ。
両手で耳を塞いだ。それでも音は入ってきた。砲声。金属の軋み。人の叫び。遠くで何かが崩れる音。通信機の途切れがちな声が、格納庫の壁に反響して消えない。
どれくらいの時間が経ったのか。
三十分か、一時間か。永遠のように感じた時間の果てに、戦闘の音が徐々に遠ざかり、やがて——沈黙が訪れた。
格納庫の大扉から、ヴァイスヴォルフが帰還した。
白銀の装甲は各所が黒く焦げ、左肩の装甲板が半ば剥離してぶら下がっていた。足元には喰鋼蟲の体液と思しき黒緑色の液体がこびりつき、一歩進むごとに粘性のある音を立てた。
コックピットが開き、ダリウスが降りてきた。
右腕が赤く染まっていた。操縦時の振動で古傷が開いたのか、それとも接続部の逆流によるものか。包帯も巻かずに、血が肘から滴っている。
格納庫に残っていた整備兵や兵站要員が駆け寄るが、ダリウスは片手でそれを制した。
晃は座ったままだった。立ち上がれなかった。
ダリウスがこちらへ歩いてくる——と思った。何か言われる。罵倒か、叱責か、あるいは「役立たず」の一言か。どれでも受け入れるしかない。受け入れるべきだ。
だがダリウスは、晃の前を通り過ぎるとき、一度だけ視線を向けた。
ほんの一瞬。鉄灰色の瞳が晃を捉え、そして——何も言わずに去った。
叱責よりも重かった。罵倒よりも深く刺さった。あの一瞥には怒りすらなかった。ただ、「そうだろうな」という理解だけがあった。お前が乗れないことは分かっていた。期待などしていなかった。そう言われた方がまだ楽だった。
後から聞こえてきた会話の断片が、格納庫の冷たい空気の中で晃の耳に届いた。
「死者三名。第三小隊のヴェーバー伍長、第五小隊のハルトマン上等兵、衛生班のクリスティーネ准看護師」
三つの名前。知らない名前だった。会ったこともない人たちだった。それでも、その数字は晃の胸に錘のように沈んだ。三人。三人が死んだ。あの戦闘で。あの格納庫の隅でうずくまっている間に。
ヴァルトラウテのセンサーアイが微かに明滅した。暗い格納庫の中で、淡い光が一瞬だけ灯り、消えた。まるで、何かを待っているかのように。
晃は膝を抱え直した。爪が掌に食い込むほど強く拳を握り、額を膝に押し付けた。
「……俺がいても、いなくても、同じだった」
声が震えた。誰にも聞かれないほど小さな、独り言だった。
だがそれが嘘であることを、晃自身がいちばんよく知っていた。同じではなかった。同じであるはずがなかった。乗れる人間が乗らなかったのだ。動かせる機体が、ここに在ったのだ。
それでも——足は動かなかった。手は震え、歯の根が合わなかった。
格納庫の闇の中で、巨大な鋼の騎兵と、その足元にうずくまる小さな少年の影が、一つの沈黙を分け合っていた。
外では赤銅の月カルマが中天に昇り、戦場の跡を冷たく照らしている。城塞の石壁に、新しい血の染みが三つ増えた夜だった。




