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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第四部「継承の地平」

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結末 行ってきます

 最終決戦から四日が過ぎていた。

 古代要塞の崩落が巻き上げた粉塵はようやく晴れ始め、アイゼンヴァッヘの上空には鉄錆の匂いではなく、春先の乾いた風が流れていた。二つの月——銀白のゼルダと赤銅のカルマ——が朝焼けの空に薄く残り、城塞都市の三重の石壁に淡い影を落としている。

 停戦交渉の場は、城塞都市の中央塔に設けられた大広間だった。


 長卓の片側に鉄槌旅団の幹部が並び、もう片側には隣国連合の使節団が座している。カルヴァスを失った連合は、盟約を束ねる柱を喪失していた。使節団の顔には疲弊と警戒が等分に刻まれていたが、その奥にかすかな安堵も見て取れた。戦い続ける理由を支えていた男が、もういないのだ。

 ダリウス・ヘルムガルドは長卓の上座に立っていた。右腕はいまだ包帯に覆われ、軍装の袖が不自然に膨らんでいる。その背後に、通信越しに枢密院の意向を伝える父ヴォルフの声が硬く響いた。

「和平など時期尚早だ。連合の軍事力は瓦解しかけている。今こそ版図を広げる好機ではないか」

 ダリウスは一拍の沈黙を置いた。広間の空気が張り詰める。使節団の視線が一斉に彼に集まり、鉄槌旅団の幹部たちも息を呑んだ。

 そしてダリウスは、通信装置に向かって静かに、しかし揺るぎない声で告げた。

「父上。俺はこの前線で三年、鉄と血の匂いの中で判断を重ねてきました。版図の拡大ではなく、持続可能な安定をこの地に築くことが、聖皇国の利益に適う。これは枢密院の命令ではない。俺の提言です」

 通信の向こうで、ヴォルフの呼吸が止まった。

「お前は——」

「俺は兄さんの代わりではない」

 ダリウスの声が広間に響いた。包帯の巻かれた右手が、かすかに震えていた。だがその震えは恐怖ではなく、長い年月をかけて堆積した言葉がようやく形を得た振動だった。

「俺はダリウス・ヘルムガルドだ。この名前で、この場所で、俺自身の判断を下す」

 沈黙が広間を満たした。通信越しのヴォルフは何も言わなかった。その沈黙の意味を、ダリウスはもう問わなかった。

 傍らに一歩進み出たのはレーナだった。副官の制服に刻まれた鉄十字の紋章。左袖の百合の刺繍——赤百合。姉エルゼの喪失を静かに纏い続けるその女性は、ダリウスの隣に並び、使節団と幹部たちの前で口を開いた。

「付き合わされたのではなく、私が選んだ道です」

 その声は淡々としていたが、底に流れる確信の熱は誰の耳にも届いた。ダリウスが一瞬だけ横を向き、レーナと目が合った。何も言わなかった。言う必要がなかった。


 辺境の街道を、一頭の馬が駆けていた。

 クラウディス辺境伯領。赤土の丘陵が連なる辺境の風景は、聖皇国の中央とは異なり、どこか荒涼として素朴だった。石造りの館の門前で馬を降りたセリオンの蒼い外套は砂埃にまみれ、旅の長さを物語っている。

 門が開く前に、中から駆け出してきたのは十三歳の少年だった。

 リュシアン・クラウディス。兄の帰還を信じて毎日門の前に立っていたのだろう、その目は赤く腫れ、頬には涙の跡が乾いていた。だが兄の姿を認めた瞬間、新しい涙が溢れた。

 セリオンは弟の前で立ち止まった。かつて戦場で機鋼騎兵を完璧に御した天才操縦者の瞳に、ほんの一瞬、戸惑いが走った。言葉を探しているのだ。手紙を何通も受け取りながら、一度も返事を書かなかった。書けなかった。強さ以外の言語を、持っていなかったから。

 だが今、セリオンは知っている。強さだけでは届かない場所があることを。あの戦場で、臆病な少年が教えてくれたことだ。

「遅くなった」

 セリオンの声はいつもの鋭さを欠いていた。それでいて、これまでのどの言葉よりも真っ直ぐだった。

「元気か、リュシアン」

 弟は声にならない叫びを上げて兄に抱きついた。細い腕が外套を掴み、顔を胸に押しつけ、堰を切ったように泣いた。セリオンの腕がぎこちなく持ち上がり、弟の背中に回された。抱き方を知らない人間の、不器用で、だからこそ嘘のない抱擁だった。


 アイゼンヴァッヘの格納庫は、いつもの油と金属の匂いに満ちていた。

 フィーネ・アルヴェスタは作業台の前に座り、調律紋の刻まれた両腕を広げていた。薄い包帯の下で、腕の皮膚にはまだ赤みが残っている。古代要塞での門開放の反動は、調律師としての彼女の身体に深く刻まれていた。

「精度は以前の八十パーセントだ」

 フィーネは自分の両手を見つめながら、感情を排した声で告げた。測定値をそのまま読み上げるような口調。だがその瞳の奥には、技師としての矜持が削られる痛みが、薄い膜のように張っていた。

 晃は格納庫の床に腰を下ろし、フィーネの隣で膝を抱えていた。修理された眼鏡——右レンズに走る細いヒビの線は、フィーネの精密工具で丁寧に補修された跡を残している。フレームの微妙な歪みすら、もう馴染みのあるものだった。

「お前の八十パーセントは、他の技師の百パーセントより上だ」

 晃の声は静かだったが、はぐらかしでも慰めでもなかった。この世界で機鋼騎兵に触れ、フィーネの技術を間近で見てきた人間だけが言える、実感を伴った言葉だった。

 フィーネの口元が微かに緩んだ。ほんの数ミリ、唇の端が持ち上がっただけの変化。だが晃はそれを見逃さなかった。出会った頃のフィーネなら、決して見せなかった表情だ。

 二人の間に短い沈黙が流れた。格納庫の天井からぶら下がる作業灯が、ヴァルトラウテの巨体を橙色に照らしている。膝をついたままの姿勢で沈黙する全高十二メートルの機体は、まるで主の言葉を待っているかのようだった。

 晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてはいない。いつもの癖だ。

「フィーネ」

 名前を呼んだ。ファーストネームで。この世界では深い信頼の表明であることを、もう知っている。

「俺は帰る。母さんが待ってる」

 フィーネの瞳が揺れた。琥珀色の虹彩の中に、光が複雑に屈折した。だがその揺れは一瞬で、すぐに静かな水面に戻った。予想していた答えだったのだ。あるいは、最初から分かっていた。この少年は——御影晃は、この世界の人間ではない。帰るべき場所がある。待っている人がいる。それを知っていて、それでも共に戦った。

「知っている」

 フィーネはそれだけ言って、作業台の工具を整え始めた。感情を手作業に逃がす。技師としての習性だった。


 晃は立ち上がり、ヴァルトラウテの前に歩いた。

 巨大な装甲の脚部。錆と傷だらけの表面。晃が初めてこの機体に触れたとき——あの赤錆色の荒野で、膨大な情報が脳に流れ込み、意識を失ったとき——この鋼の巨人は、膝をついた姿勢で晃を待っていた。胸部装甲を開き、コックピットという空洞を晒して。

 あれから何日が経ったのだろう。数えられるほどの日々のはずなのに、途方もなく長い旅をしてきた気がする。

 晃は装甲に右手を当てた。金属の冷たさが掌に伝わる。だがそれは無機質な冷たさではなく、馴染みのある温度だった。

「ありがとう」

 声が震えた。泣くつもりはなかったのに、喉の奥が熱くなる。

「お前のおかげで、臆病なままでも前に進めた」

 俺は最後まで臆病だった。怖くて、情けなくて、何度も逃げ出したくなった。それでも——この機体の中で、恐怖を計算に変えて、震える手で操縦桿を握って、一歩ずつ進むことができた。

 ヴァルトラウテのセンサーアイが光った。

 淡い蒼白の光が、一度だけ瞬いた。まるで返事をするように。まるで別れを受け入れるように。その光は数秒間だけ格納庫の暗がりを照らし、静かに消えた。

 晃は手を離した。指先に、金属の余韻が残っていた。


 フィーネが作業台から立ち上がり、ヴァルトラウテの胸部装甲の前に移動した。核機関へのアクセスパネルを開く手つきは、包帯越しでも正確だった。八十パーセントの精度。だがその八十パーセントに込められた意志の密度は、かつてのどの作業よりも濃い。

「門開放シーケンスを起動する」

 フィーネの声には、いつもの事務的な冷静さがあった。だがその奥に、技師としてではなく一人の人間としての感情が、静かに脈打っていた。

 調律紋が淡く発光する。両腕の紋様が複雑な幾何学模様を描き、核機関に伝播していく。ヴァルトラウテの胸部から光が広がり始めた。最初は淡い燐光のようなものが、やがて格納庫全体を白く染め上げていく。

 フィーネの手は震えていなかった。

 震えない手で、全ての意志を込めている。送り出す意志を。信じる意志を。再会を待つ意志を。

 光が格納庫を満たしていく。晃の輪郭が光に溶け始める。刻印紋が——左鎖骨下の幾何学的な紋様が、最後の共鳴を放つように熱を持った。

 その光の中で、フィーネが口を開いた。

「また来い」

 短い言葉だった。飾りのない、素朴な命令形。だがその二語に、フィーネ・アルヴェスタという人間の全てが詰まっていた。父の昏睡。一族最後の技師としての孤独。ヴァルトラウテの深層解析に父の回復を託す日々。その全てを知った上で共に戦った少年への、これが彼女の別れの言葉だった。

 晃の目から涙が流れた。拭う余裕もなく、拭う気もなく、ただ真っ直ぐにフィーネを見て言った。

「また来る。約束する」

 声は震えていた。臆病な少年の声だった。だがその震えの中に嘘はなかった。

 格納庫の入口に、二つの影が立っていた。

 ダリウスが腕を組み、壁に背を預けていた。包帯に覆われた右腕を庇うように、左腕だけで。その顔にはいつもの厳しさがあったが、晃と目が合ったとき、無言で頷いた。深く、一度だけ。それは命令でも許可でもなく、対等な人間としての承認だった。

 レーナがその隣で、かすかに微笑んでいた。左袖の赤百合が、光の中で揺れるように見えた。

 光が全てを包んだ。


 意識が戻ったとき、晃は地下通路に立っていた。

 コンクリートの壁。蛍光灯の白い光。足元には何の変哲もないタイル張りの床が広がり、幾何学紋様の痕跡すらない。ポケットの中のスマートフォンに指が触れた。画面が点灯する。動く。バッテリー残量七十三パーセント。日付と時刻が表示されている。

 四月——消えた日と同じ朝だった。

 晃は左手を見た。鎖骨の下に手を当てる。刻印紋は消えていた。あの幾何学的な痣は、もうどこにもない。だが左手に痺れが残っていた。指先から手首にかけて、微かな、しかし確かな痺れ。操縦桿を握り続けた手の記憶。ヴァルトラウテとの神経接続が残した、消えない感覚。

 眼鏡に触れた。右レンズのヒビは修復されている。フレームの歪みはフィーネの精密工具で直された形のまま。あの世界の工具で、あの世界の技師の手で直された眼鏡が、今も顔にかかっている。

 夢ではない。

 晃は走り出した。


 団地の階段を駆け上がる。息が切れる。華奢な体はすぐに悲鳴を上げる。それでも足を止めなかった。三階。自宅の扉。鍵は——ポケットにある。震える手で鍵を回し、玄関に飛び込んだ。

 靴を脱ぐのももどかしく、廊下を抜けてリビングに入る。

 母がいた。

 御影沙織が、ソファに横になって眠っていた。夜勤明けの疲弊した体が、薄い毛布の下で小さく丸まっている。テーブルの上には飲みかけのコップと、畳まれた洗濯物。いつもの光景。何も変わっていない光景。晃が「行ってきます」を言えないまま玄関を出た、あの朝と同じ光景。

 だが晃は、もう同じことを繰り返さない。

 ソファの前に膝をつき、母の寝顔を見た。目の下の隈。乾燥した唇。夫を失ってから、昼夜を問わず働き続けてきた人の顔。互いに心配をかけまいとして本音を隠し合い、「手のかからない子」であろうとした自分と、「大丈夫」であろうとした母と。

 晃ははっきりと声に出した。

「行ってきます」

 たった五文字。だがその五文字を口にするために、異世界で機鋼騎兵に乗り、恐怖に震えながら戦い、仲間を得て、別れを選んだ。意味は最初からあったのではない。選び続けた結果として、事後的に生まれるのだ。

 沙織が薄く目を開けた。焦点の合わない瞳が、息子の顔を捉える。

「……行ってらっしゃい。気をつけてね」

 いつもの言葉。いつもの声。夢と現実の境界で紡がれた、何気ない返答。だがその声を、晃は初めて——本当の意味で初めて——受け取った。

 声を殺して泣いた。

 膝をついたまま、両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いた。声を出してはいけない。母を起こしてはいけない。そんな強迫観念すら込みで、御影晃という人間だった。だが涙だけは止められなかった。あの世界の記憶が、鉄と血と油の匂いが、フィーネの「また来い」が、ダリウスの無言の頷きが、レーナの微笑みが、セリオンの不器用な握手が、ヴァルトラウテの最後の光が——全てが一度に押し寄せて、この小さな体から溢れ出ていた。


 通学路を歩く。

 四月の朝の空気は柔らかく、桜の花びらが風に舞っている。地下通路を通る。足元のタイルは何も光らない。ただの通学路だ。

 ポケットからスマートフォンを取り出す。画面にはSpecterからのメッセージが残っていた。あの朝、返信を打とうとして打てなかったメッセージ。

「明日も対戦しよう」

 晃は立ち止まり、画面をタップした。指が滑らかに動く。左手の痺れが、キーを打つたびにかすかに主張する。

「明日も対戦しよう」

 同じ言葉を返した。それだけで十分だった。画面越しの、顔も名前も知らない仲間への返答。日常への帰還。

 地下通路を抜け、空を見上げた。

 月は一つしかない。銀白のゼルダも赤銅のカルマもない、ただ一つの太陽が昇る朝の空。だが左手の痺れが消えない。操縦桿を握り続けた感覚が、神経接続の残響が、この手に刻まれている。

 ポケットに手を入れる。指先に触れたのは、祖父・鋼一から譲り受けたスパナ型のキーホルダー。使い込まれた金属の表面を親指でなぞったとき——

 一瞬だけ、紋様が浮かんだ。

 刻印紋に似た幾何学模様が、キーホルダーの表面に燐光のように明滅し、すぐに消えた。見間違いかもしれない。朝日の反射かもしれない。だが晃の左手の痺れが、その瞬間だけ強く脈打った。

 晃は目を閉じ、そして開いた。

 眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。ずれてはいない。フィーネが直してくれた眼鏡は、今日もきちんと顔にかかっている。

「また行く」

 声に出した。通学路を行き交う人々の誰にも届かない、小さな独白。

「必ず」

 左手の痺れを握り締めて、御影晃は歩き出した。

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