第二十七章 古代要塞攻略戦
古代要塞は、夜明けの空を喰らうように聳えていた。
赤銅の月カルマが地平線の彼方に沈みゆく最後の薄明の中、その輪郭は黒々とした歪な山脈のようだった。八百年の風雪に晒されてなお崩れぬ装甲壁。稜線に沿って幾何学的な突起が連なり、ところどころから蒼白い光が脈打つように漏れ出している。古代文明が遺した要塞は、カルヴァスという主を得て再び覚醒し、生ける城砦として鋼の息吹を吐いていた。
要塞の裾野には無数の蝕鋼蟲がうごめいている。大小さまざまな甲殻の群れが有機的な陣形を組み、その奥——要塞の正面門に相当する巨大な裂け目の向こう側に、あの影がある。修復された第十三機鋼騎兵。カルヴァスの乗機であり、かつて聖皇国が封印した禁忌の古代兵器。
晃はヴァルトラウテのコックピットの中で、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてなどいない。右レンズのヒビの線が視界の端で光を屈折させるのが、もう気にならなくなっていた。
「全部隊、配置完了。攻撃開始は団長の号令待ち」
レーナの声が通信に流れた。冷静で、明瞭で、一切の揺らぎがない。後方指揮所から戦場全域を俯瞰し、情報を束ねるその声は、いつだって嵐の海に立つ灯台のようだった。
「鉄槌旅団、全機前進。——これより古代要塞の攻略に入る」
ダリウスの声が通信を支配した。低く、重く、鋼を打つ鍛冶の槌のような響き。ヴァイスヴォルフの白銀の装甲が薄明を弾いて先陣を切る。その後ろに続く旅団の機体群と歩兵支援部隊が、一斉に大地を揺らし始めた。
総攻撃が、始まった。
要塞外縁部は地獄だった。
蝕鋼蟲の大群が波のように押し寄せ、古代要塞の自動防衛システムが稼働して城壁の各所から光の矢を放つ。地表を這う小型の蝕鋼蟲が足元を狙い、空中からは翼を持つ中型種が急降下を繰り返す。旅団の機体が一機、また一機と足を止められ、隊列が乱れかける。
「外縁部の制圧は俺が受け持つ。お前は予定通り内部に入れ」
ダリウスの通信が晃に届いた。ヴァイスヴォルフの大盾が蝕鋼蟲の突進を弾き返し、返す刀で三体をまとめて薙ぎ払う。その動きには迷いがなかった。だが晃は気づいていた。ヴァイスヴォルフの左肩装甲の継ぎ目から、微かに黒い稲妻のような光が漏れていることに。人工刻印紋の負荷の兆候だ。
「団長、出力制限を——」
「黙れ」
ダリウスが遮った。声は荒かったが、そこに怒りはなかった。
「これが最後だ」
その一言に込められた意味を、晃は理解した。ダリウスは知っている。人工刻印紋で全力戦闘を続ければ、その先に何が待っているかを。それでも彼はヴァイスヴォルフの出力制限を解除した。白銀の機体が咆えるように駆動音を上げ、蝕鋼蟲の群れに突進する。大盾が壁となり、剣が嵐となり、ダリウス・ヘルムガルドという男の全てがその一戦に注ぎ込まれていく。
「——ならば私があなたが戻る場所を守ります」
レーナの声が通信に割り込んだ。静かだった。命令でも懇願でもない。ただの宣言だった。ダリウスは一瞬だけ沈黙し、それからかすかに息を吐いた。
「……頼む」
それだけだった。それだけで十分だった。
ヴァルトラウテは外縁部の混戦を抜け、要塞の亀裂から内部へ侵入した。
古代の通路は巨大だった。機鋼騎兵がそのまま直立して歩ける幅と高さ。壁面には消えかけた古代文字が浮かび、天井の発光体が不規則に明滅を繰り返している。足元には崩れた瓦礫と、何百年も前に機能を停止した機械の残骸が散乱していた。
「晃、前方二百メートルに大規模な空間がある。反応が——大きい」
フィーネの声がコックピットに響いた。調律紋を介したリアルタイム制御で、彼女はヴァルトラウテの感覚器をまるで自分の神経のように操っている。声は落ち着いていたが、わずかに呼吸が速い。調律紋の負荷が既に高いのだ。
「分かった。……行くよ」
晃は操縦桿を握り直した。掌が汗で滑る。心臓が喉元まで跳ね上がっている。怖い。当然だ。ここに来てまで怖くないふりなどできるはずがない。
だから考える。怖いからこそ考える。
頭の中にHUDを展開した。要塞の構造推定マップ、ヴァルトラウテの残存エネルギー、武装の状態、神経接続の負荷率。全てを「画面上の情報」として再構成し、恐怖を処理可能なデータに変換する。晃だけの戦い方。臆病者にしかできない戦い方。
通路が開けた。
巨大な円形の広間だった。天井は吹き抜けになっており、遥か上方に古代の天蓋が崩れかけた状態で残っている。そして広間の中央に、それは立っていた。
第十三機鋼騎兵。
ヴァルトラウテと同じ古代文明の遺産でありながら、決定的に異質な存在。漆黒の装甲は蝕刻印の紋様で脈動し、四肢の関節部から赤黒い光が脈打っている。禁忌の技術で修復され、カルヴァスという鉄蝕の将の意志を宿した鋼の巨人。
通信が開いた。
「来たか、灰瞳の子供」
カルヴァスの声は穏やかだった。戦場にいるとは思えないほど静かで、どこか教師が生徒に語りかけるような響きがあった。
「お前がここまで辿り着いたこと自体は認めよう。だが、お前には分からないはずだ。この世界が何を必要としているか」
第十三機鋼騎兵が一歩を踏み出した。広間が揺れる。
「全ての機鋼騎兵を制御する者が必要だ。散逸した古代の力を一つに束ね、次の滅びを防ぐために。それができるのは、核機関を統合し得る者だけだ」
「……それを自分だと決めるのは傲慢だ」
晃の声は震えていた。だが言葉は震えていなかった。
「あんたが正しいのかもしれない。全部を一つにまとめれば、確かに効率はいい。でも——それは、あんた一人が決めていいことじゃないだろ」
カルヴァスが一瞬だけ沈黙した。そしてその沈黙が、対話の終わりを告げた。
「……では、力で語れ」
第十三機鋼騎兵が踏み込んだ。
衝突は、音を超えた。
漆黒の拳がヴァルトラウテの胴を捉え、晃は衝撃で操縦桿ごと揺さぶられた。歯の奥がガチリと鳴る。HUDに警告が乱立する。装甲損耗、フレーム歪曲、出力低下。一撃でこれだけ持っていかれる。
「くっ——右に回避、距離を——」
ヴァルトラウテが横に跳ぶ。だが第十三機鋼騎兵の追撃は容赦なかった。蝕刻印が脈動するたびに機体の速度が上がり、その動きは人間の操縦の域を超えていた。カルヴァス自身の神経が蝕刻印に侵され、機体と一体化しつつある。人と機械の境界が溶けた存在。それがカルヴァスの力の正体だった。
「フィーネ、左脚の駆動系を二段階上げてくれ。回避パターンを変える」
「やる。三秒待て」
フィーネの声が返る。調律紋が光を放ち、ヴァルトラウテの左脚が唸りを上げた。晃はその三秒を、壁面の瓦礫を盾にして稼ぐ。古代の構造物が第十三機鋼騎兵の一撃で粉砕される。破片がコックピットのモニターを叩く。
「今!」
フィーネの合図と同時にヴァルトラウテが跳躍した。天井近くまで浮き上がり、落下の勢いを乗せて斬撃を叩き込む。だがカルヴァスはそれを片腕で受け止めた。漆黒の装甲に火花が散る。びくともしない。
「足りないな」
カルヴァスの声に感情はなかった。
反撃の蹴りがヴァルトラウテの腹部を抉り、機体が壁面に叩きつけられた。コックピット内で晃の体がハーネスに食い込む。視界が一瞬白く飛ぶ。眼鏡がずれ、右レンズのヒビが星形に広がった。
「晃! 神経接続の負荷が許容値の八十七パーセント——」
「分かってる……!」
分かっている。押されている。このまま正面からぶつかっても勝てない。カルヴァスの機体性能は蝕刻印によって底上げされ、操縦技術も晃とは次元が違う。一対一では——
そのとき、要塞の天蓋が砕けた。
上方から差し込む光の中を、蒼銀の閃光が落ちてきた。
アグライア。
セリオン・フォン・クラウディスの機鋼騎兵が、天蓋を突き破って広間に降り立った。着地の衝撃が地面を放射状にひび割れさせ、蒼銀の装甲が古代の発光体に照らされて燐光を纏う。
通信が入った。
「遅れた。三十秒稼いでくれたな」
セリオンの声だった。いつもと変わらない、感情を削ぎ落としたような平坦な声。だがその言葉の端に、ほんのわずかな——謝意にも似た何かが滲んでいた。
晃は操縦桿を握ったまま、笑った。笑って、泣いた。目尻から零れた涙が頬を伝い、壊れかけの眼鏡のフレームを濡らした。
「三十秒どころじゃなかったよ……!」
声が裏返った。情けなかった。だが構わなかった。
セリオンは答えなかった。ただアグライアの双剣が抜き放たれ、刻印眼が蒼く燃え上がる光がコックピットの通信映像に映った。
同時刻、要塞外縁部。
ダリウスのヴァイスヴォルフが最後の蝕鋼蟲の大型個体を大盾で押し潰し、外縁部の制圧を完了した。人工刻印紋の黒い稲妻は左肩から胸部にまで広がっていたが、ダリウスは微動だにしなかった。
「外縁部を制した。合流する」
短い通信の後、ヴァイスヴォルフが要塞内部に向けて前進を開始した。
広間の戦闘は、三対一の様相を呈した。
だが単に数で押しているのではない。
晃が戦術を組んだ。頭の中のHUDが三機分の情報を統合し、カルヴァスの動きのパターンを解析し続ける。第十三機鋼騎兵の攻撃には癖がある。蝕刻印の出力が跳ね上がる直前に、左肩の発光が〇・三秒早く点滅する。そこが予兆だ。
「セリオン、次の左肩の発光後に右から斬り込んで。ダリウス、その直後に正面から盾で押す。俺は——」
「言わなくていい。お前の考えは分かった」
セリオンが遮った。それが信頼の形だった。
ダリウスは何も言わなかった。ただヴァイスヴォルフの盾を構え直す動作が、肯定の全てだった。
三機が動いた。
セリオンの剣がカルヴァスの右側面を切り裂く。アグライアの速度は第十三機鋼騎兵すら捉えきれない。カルヴァスが反応して右腕で防御した瞬間、正面からダリウスの盾が轟音と共にぶつかった。第十三機鋼騎兵の姿勢がわずかに崩れる。
だがカルヴァスは強かった。即座に体勢を立て直し、蝕刻印を全開にして三方向への同時攻撃を放つ。広間全体が赤黒い光で染まり、三機がそれぞれ弾き飛ばされる。
何度もそれを繰り返した。攻撃、防御、後退、再構築。晃が戦術を練り直すたびにセリオンの剣とダリウスの盾がそれを形にし、カルヴァスがそれを力で打ち砕く。消耗戦だった。そして消耗のレースでは、蝕刻印で強化されたカルヴァスに分がある。
「フィーネ」
晃が呼んだ。
「全部出せるか」
短い沈黙があった。調律紋の負荷が何を意味するか、二人とも分かっていた。
「……お前が倒れたら意味がない。神経接続を限界の手前で止める。それが私の仕事だ」
フィーネの声は震えていなかった。技師としての矜持が、恐怖を鋼に変えていた。
「だから——全部出せ、晃。私が支える」
名前を、呼んだ。
調律紋が輝きを増した。フィーネが持つ全ての紋を、一つ残らずヴァルトラウテに注ぎ込む。機体の各部が悲鳴を上げるように軋み、しかし同時に——ヴァルトラウテが応えた。センサーアイが蒼白く燃え上がり、装甲の隙間から古代の光が溢れ出す。晃の神経接続が深化し、機体の全感覚が自分の体の延長として流れ込んでくる。
技師と操縦者の完全同期。
フィーネがヴァルトラウテの限界を見極め、晃がその限界の一歩手前で全力を振るう。信頼という名の制御装置が、人と機械の境界を超えさせた。
「セリオン、ダリウス——あと一回だけ、あいつの防御を崩してくれ」
晃の声には、もう震えがなかった。
「〇・五秒でいい」
セリオンが短く息を吐いた。
「それだけあれば十分だ」
ダリウスが盾を掲げた。
「やれ」
三機が最後の突撃に入った。
アグライアが旋風のように回転しながらカルヴァスの上方から急降下する。双剣が交差し、第十三機鋼騎兵の両腕の装甲を同時に斬りつけた。カルヴァスが防御で腕を上げた——その瞬間にダリウスのヴァイスヴォルフが全重量を乗せた体当たりを正面から叩き込んだ。人工刻印紋の黒い稲妻がダリウスの全身を走り、ヴァイスヴォルフの盾が砕けた。だが——第十三機鋼騎兵の姿勢が、崩れた。
〇・五秒。
ヴァルトラウテの右腕が引き絞られた。フィーネの調律紋が最後の光を放ち、全出力が拳に集中する。晃の神経が灼けるように熱い。視界が白く染まりかける。だがフィーネが——約束通り、限界の手前で接続を制御し続けている。意識は保たれている。
晃は叫んだ。言葉にならない声だった。
ヴァルトラウテの拳が、第十三機鋼騎兵の胸部装甲を貫いた。
指先が核に触れた。古代の光が炸裂し、蝕刻印の赤黒い脈動が一瞬にして消え失せる。第十三機鋼騎兵の全身から力が抜け、膝が崩れ、地響きを立てて広間の床に沈んだ。
静寂が戻った。
古代の発光体が弱々しく明滅する中、第十三機鋼騎兵の胸部装甲がゆっくりと開いた。内部のコックピットから、カルヴァスが半身を起こしていた。蝕刻印の侵食が全身に広がり、その顔は老人のように憔悴していたが、瞳だけがまだ生きていた。
ヴァルトラウテが片膝をつくようにしてその前に停止した。晃はコックピットの中から、外部スピーカーを通じて声を発した。
「……偶然だったかもしれない」
晃は言った。自分の声が、自分でも驚くほど穏やかだった。
「俺がここに来たのも、ヴァルトラウテに乗れたのも、全部たまたまだったのかもしれない。でも——」
眼鏡のブリッジを押し上げた。ヒビだらけのレンズ越しに、カルヴァスの目を見た。
「ここまで来たのは偶然じゃない。俺が選んだんだ。逃げたくて、怖くて、何度もやめたくなって——それでも選び続けてここにいる。それだけは、誰にも否定させない」
カルヴァスは晃を見つめていた。長い沈黙があった。要塞の奥で何かが崩れ落ちる音が遠く響いた。
やがて——カルヴァスの口元が、かすかに緩んだ。
それは笑みとも呼べないほど微かなものだった。だがそこに浮かんでいたのは、怒りでも悔恨でもなく、安堵に近い何かだった。まるで長い旅路の果てに、ようやく座れる場所を見つけた旅人のように。
「……そうか」
カルヴァスは目を閉じた。蝕刻印の光が、静かに消えていった。
古代要塞の深部で、戦いが終わった。
ヴァルトラウテのコックピットの中で、晃は操縦桿に額を押し当てたまま動けなかった。全身から力が抜けている。神経接続の残響が指先をびりびりと痺れさせ、こめかみの奥が鈍く痛む。
通信が入った。
「晃。生体反応安定。……よくやった」
フィーネの声だった。いつもより少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。
レーナの声が続く。
「全部隊に通達。古代要塞の制圧を確認。カルヴァス司令官の無力化を確認——作戦は成功です」
通信の向こうで、誰かが歓声を上げた。それが波紋のように広がり、やがて要塞の外からも、遠い雷鳴のような歓呼が聞こえてきた。
晃はゆっくりと顔を上げた。ヒビだらけの眼鏡越しに、ヴァルトラウテのモニターを見た。隣にはアグライアが剣を地面に突き立てて佇み、ヴァイスヴォルフが砕けた盾を片手にぶら下げて立っていた。
三機の機鋼騎兵が、古代の光の中に並んでいた。
晃は目を閉じた。まだ指先が痺れている。心臓がまだ早い。怖かった。ずっと怖かった。今も怖い。
でも——ここにいることを、選んだのは自分だ。
それだけが、揺るがない。




