第二十六章 鍛冶屋の孫
格納庫の天井は高く、鉄骨の梁が闇の中に幾重にも交差していた。壁面に据えられた鋳鉄の燭台が橙色の光を投げかけ、巨大な影を床に這わせている。空気には鉄粉と潤滑油と、微かに焦げた絶縁材の匂いが混じっていた。いつもの匂いだ。この世界に放り込まれてからずっと、晃の日常はこの匂いの中にあった。
ヴァルトラウテは直立していた。
数日前まで左肩装甲が剥離し、右膝の駆動系が露出し、胸部の核機関外殻には亀裂が走っていた。今、それらは全て修復されている。装甲の継ぎ目には新しい溶接痕が銀色の稲妻のように走り、古い金属と新しい金属が互いの傷を補い合うように一体となっていた。全高十二メートルの鋼の巨人は、格納庫の中央で静かに佇み、センサーアイの青白い光を消したまま眠りについている。
明日、この機体は最後の戦場に立つ。
晃は格納庫の床に腰を下ろし、ヴァルトラウテの足元から見上げていた。視界の端で、右レンズにヒビの入った眼鏡のフレームが歪んだ世界を映している。あの日フィーネに借りた精密工具で直したフレームは、何度かの戦闘を経てもなお晃の顔にしがみついてくれていた。
足音が聞こえた。
軽い靴音ではない。工具箱を腰に下げた人間特有の、金属が微かに触れ合う音を伴った足取り。晃は振り返らなくても分かった。この格納庫でその足音を立てるのは一人しかいない。
「整備完了だ」
フィーネ・アルヴェスタの声が、静寂の中に落ちた。
晃が顔を上げると、フィーネは作業台の角に工具箱を置き、油で汚れた布で両手を拭いているところだった。いつもの灰色の作業着。袖を肘まで捲り上げた右腕には調律紋の淡い燐光が残り、左手を覆う包帯は新しいものに替えられていたが、指先に滲んだ赤黒い染みが完全には隠しきれていなかった。あの火傷は、まだ癒えていない。
「核機関の安定性は八十パーセント」
フィーネは晃の隣まで来ると、ヴァルトラウテを見上げたまま報告した。声はいつも通り平坦で、感情の色を意図的に排した技師の声だった。
「全力稼働は一度が限界だ。二度目はない。核機関が耐えられない」
「……一度」
「一度だ」
晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてはいない。分かっている。それでも指は勝手に動く。
「一度で十分だよ」
「十分かどうかは戦場が決める。お前が決めることじゃない」
相変わらずの物言いに、晃は小さく息を吐いた。笑いとも溜息ともつかない、この世界で身につけた呼吸の仕方だった。
フィーネは間を置いてから、やや声のトーンを落とした。
「戦いの後に、門の開放を試みることができる」
晃の指が止まった。
「核機関の残存エネルギーを次元接続に転用すれば、お前が来た経路を逆行させる門を開ける可能性がある。理論上の話ではなく、ヴァルトラウテの深層領域にそのプロトコルが存在することは確認済みだ」
淡々とした説明。技師としての報告。けれどフィーネの視線はヴァルトラウテの胸部装甲に固定されたまま、一度も晃の方を向かなかった。
「ただし」
「……ただし?」
「核機関を門の開放に使えば、ヴァルトラウテは永久に停止する」
その言葉が格納庫の空気に沈んでいくのを、晃は黙って聞いた。永久に停止する。二度と動かない。核機関という心臓を差し出して、門を開き、そして鋼の巨人は眠りにつく。今度こそ、誰にも起こされることのない眠りに。
晃はヴァルトラウテを見上げた。消灯したセンサーアイ。銀色の溶接痕。フィーネが眠る間も惜しんで叩き、磨き、繋ぎ直した装甲の一枚一枚。この機体に出会った日のことを思い出す。赤錆色の荒野で膝をつき、胸部装甲を開いて待っていた姿を。あのとき晃は何も分からないまま手を伸ばし、そしてここまで来た。
「フィーネ」
晃は静かに言った。
「フィーネは、俺に帰ってほしいのか」
問いは格納庫の空間に放たれ、鉄骨の梁に反響し、そして消えた。
フィーネは答えなかった。
一秒。二秒。五秒。十秒。燭台の炎が揺れ、二人の影が床の上で微かに形を変えた。晃はフィーネの横顔を見ていた。唇が僅かに動いたが、声にはならなかった。包帯を巻いた左手が、無意識に腰の工具袋を握り締めている。
沈黙が長く伸びた。
フィーネ・アルヴェスタという人間は、感情を言葉にしない技師だった。機体の状態は百の言葉で語れても、自分の内側については一言も漏らさない。それが技師としての矜持であり、アルヴェスタ家の最後の一人としての鎧だった。晃はそれを知っている。この数週間で、嫌というほど知った。
だから、フィーネの声が震えたとき、晃は息を呑んだ。
「技師として言えば」
低い声だった。いつもの平坦さが剥がれ落ち、その下にあった生の声が剥き出しになっていた。
「操縦者の意思を最優先にすべきだ。操縦者が帰還を望むなら、そのために最適な手順を組み、核機関の出力配分を計算し、門の安定性を確保する。それが技師の仕事だ。技師として言えば、そうだ」
フィーネの目がようやく晃を見た。燭台の炎を映した瞳が、揺れていた。
「しかし——」
声が途切れた。フィーネは一度唇を引き結び、それから息を吸った。その呼吸が震えているのを、晃は見逃さなかった。
「——私はお前にいてほしい」
格納庫の空気が変わった。
「ここに」
フィーネの声は掠れ、けれど一語一語が明確だった。技師の仮面がはっきりと外れていた。報告でも分析でもない。フィーネ・アルヴェスタという一人の人間の、剥き出しの声がそこにあった。
「技師としてではなく、フィーネ・アルヴェスタとして。お前に——いてほしい」
最後の言葉は、ほとんど吐息に近かった。
晃は動けなかった。
心臓が胸の奥で大きく脈打ち、呼吸が浅くなるのを感じた。フィーネが自分の感情を、自分の欲求を、自分の名前を冠して口にしたのは初めてだった。この人がどれほどの壁を越えてその言葉を絞り出したのか、晃には分かった。分かってしまった。だからこそ、軽い言葉は返せなかった。
左鎖骨の下で、刻印紋が微かに熱を帯びた。
晃は口を開き、そして閉じ、もう一度開いた。
「……答えは」
自分の声が掠れていることに気づいた。咳払いをして、もう一度。
「答えは、戦いが終わってから言う」
フィーネが晃を見た。その目に、一瞬だけ失望のような、あるいは安堵のような、名前のつけられない感情が過ぎった。
「……そうか」
「逃げてるわけじゃない」
晃は自分に言い聞かせるように続けた。
「ちゃんと答えたい。全部終わってから。生きて、ここに立ってる状態で。だから——約束する。答えは必ず言う」
フィーネは数秒の間、晃の目を見つめていた。それから小さく顎を引いた。了承の動作だった。技師としてではなく、フィーネ・アルヴェスタとしての了承だった。
二人は並んでヴァルトラウテを見上げた。
鋼の巨人は沈黙したまま、二人の頭上に聳えている。明日、この機体は最後の戦場に立ち、そしておそらく——二度と動くことはない。修復された装甲の一枚一枚に、フィーネの手の痕跡が刻まれている。晃の恐怖と、逡巡と、それでも手を伸ばした記憶が、操縦桿の摩耗痕に残っている。
「……じいちゃんがさ」
晃はぽつりと言った。
「よく言ってたんだ。機械の前では人間も嘘をつくな、って」
祖父の工場の匂いが、一瞬だけ鼻をかすめた気がした。錆びた旋盤と切削油と、煙草の残り香。週末ごとに通ったあの小さな作業場で、壊れたラジオや扇風機の基盤を前にして、祖父は同じ言葉を繰り返した。機械は嘘をつかない。だから人間も嘘をつくな。ごまかすな。お前の手が何を感じたか、正直に言え。
「鍛冶屋の孫が言うには——」
晃は眼鏡を押し上げ、苦笑した。
「鍛冶屋じゃなくて旋盤工だけど。まあ、似たようなもんだろ。こっちの世界じゃ」
フィーネは何も言わなかった。ただ、ヴァルトラウテを見上げる晃の横顔を、長い時間見ていた。
そして。
「——晃」
名前だった。
姓ではなく、名。この世界で、ファーストネームで呼ぶことが何を意味するか、晃はもう知っている。深い信頼の表明。個人として相手を認識するという宣言。フィーネがその一線を越えたのは、これが初めてだった。
晃の心臓がもう一度、強く脈打った。
「明日、死ぬな」
フィーネの声は短く、硬く、けれどその硬さの奥に切実な祈りが透けていた。命令でも忠告でもない。ただの、一人の人間が一人の人間に向けた願いだった。
「……善処する」
口をついて出た言葉に、晃自身が顔をしかめた。なんだ、善処って。もっとましなことが言えないのか。
フィーネも同じことを思ったらしい。
「善処ではなく確約しろ」
声に、いつもの鋭さが戻っていた。けれどその目は笑ってはいない。真剣だった。包帯の巻かれた左手が晃の袖を掴み——あの革紐で縛った右袖の、肘のあたりを——強く、引いた。
「確約だ。私は整備を完了した。核機関の出力配分も、装甲の耐久閾値も、全て計算し尽くした。あとはお前が帰ってくるだけだ。それだけが、残っている変数だ」
「……変数って言い方、フィーネらしいな」
「はぐらかすな」
フィーネの目が晃を射抜いた。琥珀色の瞳に燭台の炎が二つ、揺れている。
晃は息を吸った。恐怖はある。明日の戦場を想像すれば、内臓が縮み上がるような寒気がある。全力稼働は一度きり。核機関の安定性は八十パーセント。古代要塞。カルヴァス。喰鋼蟲。数え上げればきりがない死の可能性が、頭の中のHUDに赤い警告として点滅する。
けれど。
この格納庫の油と鉄粉の匂いの中に立ち、ヴァルトラウテの足元で、フィーネの手が袖を掴んでいる。この場所にいることを。この人の隣にいることを。「誰かの代わり」ではなく、御影晃として選んでいる。それだけは——嘘じゃない。機械の前だから。
「分かった」
晃は言った。
「確約する。明日、死なない」
フィーネの指が、ゆっくりと晃の袖を離した。
「……よし」
それだけだった。それだけで十分だった。
二人はもう何も言わず、並んでヴァルトラウテを見上げた。格納庫の天井の隙間から、二つの月の光が細い筋となって差し込んでいた。銀白のゼルダと赤銅のカルマ。異世界の夜空が、鋼の巨人の装甲に淡い色を落としている。
明日が来る。
最後の戦場が来る。
左鎖骨の下の刻印紋が、静かに、けれど確かに熱を帯びていた。それは恐怖の熱ではなかった。ここにいると決めた人間の体温だった。鍛冶屋の孫が——旋盤工の孫が——眼鏡のヒビ越しに見る世界は歪んでいるけれど、隣に立つ人の輪郭だけは、はっきりと見えていた。




