第二十五章 弟の手紙
それは、深夜の通信室に火花のように飛び込んできた。
聖都ヴァルケンハイムの防衛準備が続く中、前線通信塔が受信した緊急暗号電文。発信元はクラウディス辺境伯領——セリオン・クラウディスの故郷だった。
晃がその報せを知ったのは、通信士官がレーナのもとへ駆け込んだ慌ただしい足音と、廊下に響いた短い怒声によってだった。
隣国連合の別動隊が、辺境伯領の東方から奇襲をかけた。
主力がカルヴァスのもとに集結し聖都を狙う中、その裏をかくように薄い防衛線を突き破った一隊が、辺境の村落と領都を脅かしている。非戦闘員の避難は開始されたが、護衛戦力の不足は明白であり、時間の猶予はほとんどなかった。
通信文には、辺境伯代行を務める文官の悲痛な要請と共に、一つの名前が記されていた。
リュシアン・クラウディス。十三歳。セリオンの弟。
まだ避難列に合流できていない、と。
晃がその場で聞き取れたのはそこまでだった。レーナが通信室の扉を閉め、ダリウスと協議に入る。晃は廊下に取り残され、壁に背を預けたまま、乾いた唇を噛んだ。
クラウディス辺境伯領。セリオンが生まれた場所。刻印眼の適合者として幼い頃から兵器的な育成を受け、故郷を離れた少年が、一度も返事を書かなかった手紙の差出人がいる場所。
晃はセリオンと個人的な会話を多く交わしたわけではない。だが、あの夜——銀翼序列との合同訓練の後、月光の下でセリオンが一瞬だけ見せた横顔の硬さを覚えていた。誰にも向けていない視線。何かを押し殺すことに慣れすぎた人間の、凍った表情。
セリオンがその報せを受け取ったのは、聖都外壁の巡回哨戒から戻った直後だったらしい。
晃が格納庫に足を向けたのは、レーナから簡潔に状況を告げられてからおよそ十分後のことだった。格納庫の奥、ヴァルトラウテとは反対側の壁際に、銀翼序列の機体群が整備架台に固定されている。その手前の暗がりに、セリオンは立っていた。
壁に片手をつき、もう片方の手で一枚の紙片を握りしめている。
いや——握りしめているというより、手放せずにいるように見えた。
晃は足音を殺さなかった。殺す意味がないと思ったからだ。セリオンほどの人間が、近づく者の気配に気づかないはずがない。
案の定、セリオンは振り返りもせずに口を開いた。
「……用か」
その声は、いつもの透徹した冷たさを保っていた。だが、晃の耳には微かな軋みが聞こえた。氷の表面に走る、目に見えないほど細い亀裂のような。
「いや」晃は数歩の距離で立ち止まった。「……用ってわけじゃない。ただ、聞いた」
沈黙が落ちた。格納庫の天井から吊るされた灯火が、二人の影を長く引き伸ばしている。セリオンの手の中の紙片が、かすかに震えていた。手紙だ、と晃は直感した。弟からの手紙。一度も返事を書かなかったという、あの。
「辺境の状況は知っているな」
セリオンが言った。問いかけではなく、確認だった。
「ああ。別動隊が攻撃してる。避難が間に合ってないって」
「護衛戦力は半個中隊。機鋼騎兵は旧式が二機。別動隊の規模が中隊以上なら、持って半日だ」
淡々と並べられる戦力分析。だが、その声の奥には、論理では処理しきれない何かが渦巻いているのを晃は感じ取った。
セリオンが振り向いた。
刻印眼が仄かに明滅している。金色の虹彩の中で、光が不規則に揺れていた。普段の彼からは考えられない——制御の揺らぎ。
「俺は銀翼序列を率いて聖都を守る。それが聖皇直属の騎手としての任務だ」
言葉は正しかった。論理は正しかった。聖都の防衛戦力から銀翼序列を引き抜けば、カルヴァスの本隊に対する防衛線は著しく弱体化する。最強の騎手が聖都を離れることの戦略的損失は計り知れない。
それを、セリオン自身が誰よりも理解している。
だからこそ、その正しさが彼を引き裂いているのだと、晃にはわかった。
「お前に聞く」
セリオンが一歩、晃に近づいた。刻印眼の光が晃の灰青色の瞳を射抜く。
「お前はなぜ恐怖しながら戦う」
唐突な問いだった。だが、晃はそれが——今この瞬間に、セリオンが本当に聞きたかったことなのだと理解した。戦術論でも戦略分析でもない。もっと根本的な、言葉にするのが難しい何かを、この「最強の騎手」は問うている。
晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてはいなかったが、指が勝手に動いた。
「……怖いよ。毎回怖い。足が震えるし、吐きそうになるし、頭の中がぐちゃぐちゃになる」
飾らない言葉だった。飾る余裕がなかった。
「でも——ここにいる人たちが死ぬのを見たくないから」
それだけだった。それだけが、晃を操縦席に座らせ続けている理由だった。戦略でも義務でも英雄的な使命感でもない。ただ、隣にいる人間が目の前で壊れていくのを、黙って見ていることができなかった。臆病だからこそ、恐怖を知っているからこそ、他者の恐怖が自分のことのように胸を抉る。
セリオンは黙って晃を見ていた。その視線の奥で、何かが音を立てて崩れていくのが見えた。あるいは——凍りついていた何かが、溶け始めていたのかもしれない。
「……自分は」
セリオンが目を伏せた。手の中の手紙が、くしゃりと音を立てた。
「戦うことしかなかった」
それは告白だった。刻印眼の天才、銀翼序列の筆頭、聖皇国最強の機鋼騎兵操縦者——その全ての称号の下に、ひとりの少年がいた。
「母に言われた。強くなくていい、と」
声が微かに揺れた。セリオンの声が揺れるところを、晃は初めて見た。
「だが、強くなければ守れないものがある。母の言葉を受け取れなかった。受け取れば、自分が何のために存在するのかわからなくなると思った」
格納庫の闇に、その言葉が沈んでいく。
「弟が手紙を寄越す。季節ごとに。辺境の花が咲いたとか、猟犬の仔が生まれたとか、そんなことを書いてくる。一度も返事を書かなかった。何を書けばいいかわからなかった。……戦場のことしか知らない人間が、花の話にどう答える」
セリオンの声は平坦だった。だが、その平坦さこそが痛みの証だと晃には感じられた。感情を殺すことに熟達した人間の、精緻な防壁。
けれど今、その防壁に亀裂が入っている。
弟が危ない。故郷が燃えている。自分が行けば守れるかもしれない。だが行けば聖都の防衛が崩れる。最強であるがゆえに、どちらかしか選べない。
選べない——のではない、と晃は思った。
選ぶことを、許されていないと思い込んでいるのだ。「最強の兵器」は、私情で動いてはならないと。
晃は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「なら、弟を守りに行けばいい」
セリオンの刻印眼が見開かれた。金色の光が一瞬、強く燃えた。
「聖都は俺たちがなんとかする」
無茶を言っている自覚はあった。銀翼序列なしで最終決戦に臨むことの意味を、晃の頭の中のHUDは冷徹に計算している。戦力比は悪化する。リスクは跳ね上がる。それでも。
「お前はお前にしかできないことをやれ」
その言葉を口にした瞬間、晃は自分がかつて誰かに言ってほしかった言葉を喋っているのだと気づいた。「お前でなくてもよかった」の反転。お前にしかできないことがある、という肯定。
セリオンは無言で晃を見つめていた。長い沈黙だった。格納庫の灯火が揺れ、二人の影が壁の上で重なり、離れた。
やがて、セリオンの口の端が——本当に微かに、ほとんど見間違いかと思うほど僅かに——上がった。
晃がセリオンの笑みを見たのは、初めてだった。笑みと呼ぶにはあまりにもかすかで、あまりにも不慣れな表情の動き。だがそこには、氷の奥に閉じ込められていた何かが、確かに息を吹き返した気配があった。
「お前でなければ言えなかっただろうな」
セリオンが言った。
「三十秒の男」
あの初めての共闘で晃が見せた——三十秒で戦局を読み替えた、あの瞬間を指す呼び名。だが今、その言葉には戦術的な評価以上の響きが含まれていた。
お前でなければ。
最強の騎手が、臆病な少年にしか言えなかった言葉を受け取った。強さの頂点に立つ者が、弱さを知る者の言葉によって、初めて足枷を外す許可を得た。
セリオンが踵を返した。手の中の手紙を、今度は丁寧に——壊れ物を扱うように胸元にしまった。
「銀翼序列の半数を連れていく。残りは聖都に置く。指揮は副長に預ける」
すでに声はいつもの冷徹さを取り戻していた。だが、その冷徹さの質が変わっていることに晃は気づいた。「最強の兵器」としての冷徹さではない。弟を守ると決めた兄の、覚悟に裏打ちされた静けさだった。
「死ぬなよ」
セリオンが背中越しに言った。振り返らなかった。
「お前が死んだら、弟に手紙を書く理由がなくなる」
意味が分からなかった。だが、それがセリオンなりの——不器用で歪で、およそ素直とは言い難い感謝の形なのだと、晃には伝わった。
格納庫の扉が開き、セリオンの背中が夜の中に消えていく。
その後ろ姿はもう「最強の兵器」ではなかった。手紙を胸にしまった、ひとりの兄だった。
一時間後、銀翼序列の精鋭五機がセリオンと共に聖都を発った。残された戦力が再編され、防衛配置が組み直される。数字の上では明らかな弱体化だった。レーナが晃のもとに来て、静かに言った。
「セリオンを送り出したのはお前か」
「……無茶だって分かってる。でも」
「言い訳は聞いていない」
レーナの声は厳しかった。だが、その唇の端にはかすかな——本当にかすかな承認の色があった。
「残った戦力でやるしかない。お前の言葉の責任は、お前が戦場で取れ」
晃は頷いた。足は震えていた。いつものことだった。それでも、膝は折れなかった。
格納庫に一人残された晃は、ヴァルトラウテの足元に座り込んだ。巨大な装甲の影の中で、眼鏡のブリッジを押し上げる。
セリオンが残していった言葉が、胸の中で反響している。
お前でなければ言えなかっただろうな。
その言葉の重さを、晃はまだ完全には理解していなかった。
だが、いつか——全てが終わる瞬間に、この夜の会話が違う形で返ってくることを、物語はすでに知っていた。
赤銅の月カルマが聖都の上空で鈍く光っている。
最終決戦の朝が、もうすぐそこまで来ていた。




