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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第四部「継承の地平」

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第二十四章 兄の声

 軍の特別医療施設は、城塞都市アイゼンヴァッヘの最奥部に位置していた。

 戦線から最も遠く、最も厚い石壁に守られた区画。そこに至るまでの回廊は幾重もの鉄扉で区切られ、ダリウス・ヘルムガルドが通るたびに衛兵が敬礼し、錠前が重い金属音を立てて開いた。松明ではなく、古代文明の残滓である淡い燐光灯が天井に埋め込まれ、廊下を青白く照らしている。その光は生者のためではなく、生と死の狭間に繋ぎ留められた者たちのために灯されているのだと、ダリウスはいつも思った。

 靴底が石畳を叩く音だけが、静寂の中に規則正しく響く。

 この道を歩くのは何度目だろう。年に二度。時に三度。それが十九年。足を運ぶたびに、自分の中の何かが硬く凝り固まっていくのを感じてきた。罪悪感ではない。義務感とも違う。もっと名前のつけようのない、鉛のように重い感情だった。

 最奥の病室の扉の前で、ダリウスは足を止めた。

 右腕には先日の戦闘で負った傷がまだ残っている。包帯の下で鈍く疼く痛みが、ここに立つ自分が紛れもなく生きた肉体を持つ人間であることを思い出させた。眠り続ける兄の前に立つとき、その事実がいつも胸を締めつける。

 深く息を吸い、扉を押し開けた。


 病室は広かった。しかし、その空間のほとんどは一人の人間のためだけに存在していた。

 寝台の上に、ジークハルト・ヘルムガルドが横たわっている。

 白い敷布に覆われた体は、十九年という歳月に相応しい痩せ方をしていた。かつて「ヘルムガルド家の至宝」と讃えられた少年の面影は、頬骨の高さと、閉じた瞼の下にうっすらと残る睫毛の長さにしか見出せない。十二歳で過負荷事故を起こし、脳神経に不可逆的な損傷を負った兄は、以来ずっとこの寝台の上で、断続的な意識の断片だけを保ちながら眠り続けている。三十一歳になった兄の肉体は、しかし時が止まったように少年と青年の狭間で凍りついて見えた。

 寝台の脇に置かれた椅子に腰を下ろす。木の軋む音が静寂を揺らした。

 古代技術を応用した生命維持装置が、微かな振動音を立てている。規則的で、感情のない音。兄の心臓が動いていることを示す唯一の証。

 ダリウスは兄の手を見た。

 敷布の上に投げ出された右手は白く、血管が透けて見えるほどに細い。この手がかつて機鋼騎兵の操縦桿を握り、誰もが驚嘆する精度で古代兵器を操ったのだという事実が、今ではほとんど神話のように感じられる。

 自分の手を見た。傷だらけの、大きな手。父ヴォルフが望んだ通りに戦い、兄の代わりとして鍛え上げられた手。人工刻印紋を移植され、兄と同じ機体に乗り、兄と同じ戦果を求められ続けた手。

 ダリウスはその手を伸ばし、兄の右手を握った。

 冷たかった。いつもと同じ、体温を感じさせない冷たさ。十九年間変わらない、生きているのに生きていないような温度。

 そのとき——指が動いた。

 微かに。ほんの僅かに。ダリウスの掌の中で、兄の指先が痙攣のように震え、そしてゆっくりと、意志を持った動きで握り返してきた。

 ダリウスの呼吸が止まった。

 反射ではなかった。筋肉の不随意な収縮でもなかった。明らかに、誰かがそこにいて、握り返そうとしている動きだった。

 閉じていた瞼が震える。睫毛が僅かに揺れ、そして——開いた。

 灰色がかった青い瞳。ヘルムガルド家の血筋に特有の、鉄を溶かしたような冷たい色彩の虹彩が、燐光灯の光を受けて鈍く輝いた。

 瞳孔が拡大し、収縮し、焦点が合わないまま天井を彷徨い、そしてゆっくりとダリウスの顔に辿り着いた。

 焦点が——合った。

 十九年間、一度も誰のことも見なかった目が、ダリウスを見ていた。

 沈黙が落ちた。世界が呼吸を止めたような、途方もない静けさだった。生命維持装置の振動音すら遠のき、ダリウスの鼓動だけが耳の奥で暴れ狂っている。

 兄の唇が動いた。乾いた唇が何度か開閉を繰り返し、声帯が十九年の沈黙を破ろうともがくように震え、そして——掠れた、砂を噛んだような声が漏れた。

「ダリウス」

 その一語が、ダリウスの胸を貫いた。

 名前だった。役職でも、称号でも、「ジークハルトの弟」でもない。ただの名前。自分だけに与えられた、たった四音の響き。

「……大きく、なったな」

 ジークハルトの瞳に、微かな光が宿っていた。混濁の中から一瞬だけ浮上した明瞭な意識が、目の前の弟の姿を捉え、認識し、理解していた。十二歳の記憶の中にいる小さな弟と、二十八歳になった目の前の男を重ね合わせるように、瞳がゆっくりと瞬いた。

 ダリウスは声を出せなかった。喉が石になったように硬く、胸の中で言葉が渦を巻いて砕けていた。何を言えばいい。十九年分の何を、この一瞬に込めればいい。

 兄の瞳がダリウスの全身を見つめていた。軍服の襟章を。傷だらけの手を。右腕の包帯を。そして——胸元から僅かに覗く、人工刻印紋の端を。

 ジークハルトの目が、一瞬だけ悲しみに翳った。

「お前は……俺の、代わりに……なったのか」

 その問いは、責めるような響きを持っていなかった。詰問でもなかった。ただ静かな痛みだけが、掠れた声の中に滲んでいた。眠りの底にいても、兄は知っていたのだろうか。自分の事故の後、弟がどんな運命を背負わされたのかを。あるいは今この瞬間、ダリウスの目を見ただけで全てを読み取ったのか。

 ダリウスの唇が震えた。

 この問いに対する答えを、自分は二十八年間ずっと用意してきたはずだった。父に命じられた日から。人工刻印紋を胸に刻まれた日から。ヴァイスヴォルフの操縦桿を初めて握った日から。その答えは明確で、揺るぎなく、自分という人間を定義する唯一の輪郭だった。

「兄さんの、代わりとして——」

 声が掠れた。絞り出した言葉は、いつもなら何の感情も伴わずに口にできたはずの定型句だった。父の前で。部下の前で。鏡の前で。何千回と繰り返した言葉。それなのに、兄の目の前では、その言葉が喉を通るたびに内臓を引き裂かれるような痛みが走った。

「兄さんの代わりとして——俺は」

 続きが出なかった。

 ジークハルトは黙って弟を見つめていた。焦点の合った瞳が、既に僅かに揺らぎ始めている。意識の灯火が再び遠のこうとしている。その残り僅かな明瞭さの全てを使って、兄は口を開いた。

「馬鹿だな」

 掠れた声に、叱責の色はなかった。あったのは、途方もない優しさだった。兄が弟に向ける、あまりにも当たり前で、あまりにも長く届かなかった優しさ。

「お前は……お前だろう」

 ジークハルトの指がダリウスの手の中で微かに力を込めた。

「代わりなんか……いない」

 その言葉が病室の空気を震わせた。

 燐光灯の光が揺れたわけではない。生命維持装置の音が変わったわけでもない。だが、ダリウスの中で何かが決定的に崩れる音がした。二十八年間、一枚ずつ重ねてきた鎧の一番奥の——最初の一枚に亀裂が入る、取り返しのつかない音。

 ジークハルトの唇が微かに弧を描いた。笑ったように見えた。十二歳の少年が弟をからかうときに浮かべていた、あの不器用な笑みの残像のように。

 そしてその表情を最後に、兄の瞳から光が遠のいた。

 焦点がゆっくりと解け、虹彩の色が濁り、瞼が重力に引かれるようにゆっくりと閉じていく。握り返していた指の力が抜け、ダリウスの掌の中で兄の手は再び冷たい静物に戻った。

 生命維持装置の振動音が、変わらぬ調子で病室を満たす。

 規則的で、感情のない音。

 ダリウスはしばらく動けなかった。兄の手を握ったまま、寝台の傍らで石像のように座り続けた。兄の呼吸が再び浅く規則的なものに戻っていくのを、ただ聞いていた。

 やがて、ゆっくりと兄の手を敷布の上に戻した。丁寧に、壊れ物を扱うように。

 立ち上がったとき、膝が一瞬だけ震えたが、それは誰にも見られていなかった。


 医療施設の扉を背に閉めたとき、ダリウスの前には誰もいない廊下が伸びていた。

 燐光灯の青白い光が石壁を照らし、等間隔に並ぶ鉄扉が無言の門番のように佇んでいる。衛兵の巡回の時間ではなく、患者の面会が許される時間帯でもない。この施設にいるのは、眠り続ける者たちと、今ここに立つダリウスだけだった。

 数歩を歩き、壁に背を預けた。

 冷たい石の感触が軍服越しに伝わる。天井を仰いだ。燐光灯の光が視界を白く染め、その眩しさに目を細めた。

 涙は、出なかった。

 泣き方を忘れたわけではない。泣く理由がないわけでもない。ただ、この十九年間で涙というものを流す回路は丁寧に、徹底的に封じ込めてきた。父の前で泣けば「ジークハルトなら泣かない」と言われ、部下の前で泣けば指揮官としての信頼が崩れ、自分自身の前で泣けば、代替品としての鎧が剥がれてしまう。

 だが今、その鎧に亀裂が入っていた。

 取り返しのつかない亀裂。

「お前はお前だろう」

 兄の声が耳の奥で反響していた。掠れた、砂を噛んだような声。それなのに、これまで聞いたどんな言葉よりも明瞭に、ダリウスの骨の髄まで響いていた。

「代わりなんかいない」

 二十八年間、誰も言わなかった言葉だった。

 父は言わなかった。母も。上官も、部下も、敵も。自分自身ですら、一度も。

 ダリウスは天井を見つめたまま、長い息を吐いた。吐き出した息が喉の奥で震え、それが嗚咽になる寸前で止まった。止めたのではない。体が覚えている制御が自動的に働いただけだった。

 だが、胸の内側で何かが変わり始めていることを、ダリウスは確かに感じていた。鎧の亀裂から差し込む光のようなもの。痛みを伴う、しかし温かい何か。兄が一瞬の覚醒の全てを使って届けてくれた言葉が、凍りついた地面に落ちた最初の一滴の雨のように、ゆっくりと、しかし確実に染み込んでいく。

 代わりではない自分。

 その言葉の意味を、ダリウスはまだ完全には受け止められていなかった。二十八年間の全てを否定する言葉ではなく、二十八年間の全てを肯定する言葉として受け取るには、あまりにも長い時間をかけて自分を殺してきた。

 だが、亀裂は入った。もう元には戻らない。


 どれほどの時間が経ったのか。

 廊下の角から、足音が聞こえた。

 ダリウスの足音とは異なる、やや軽い、しかし迷いのない足取り。靴底が石畳を叩くリズムには、相手が誰であるかを知らせるような、無意識の配慮が含まれていた。

 レーナ・フォン・ベルツが、廊下の角に立っていた。

 いつからそこにいたのか、ダリウスには分からなかった。病室の扉が閉まる前からだったのか、それとも今ここに来たのか。レーナの表情からはそのどちらとも読み取れず、そしてそのどちらであっても構わないのだと、ダリウスは思った。

 レーナは何も聞かなかった。

 兄の容態を聞かなかった。何があったのかを聞かなかった。大丈夫かと聞かなかった。どんな言葉が交わされたのかを聞かなかった。

 ただ、壁から背を離したダリウスの隣に並んだ。

 左袖の百合の刺繍——姉エルゼの死を悼む赤い花弁が、燐光灯の光の中でほんの僅かに揺れた。レーナもまた、喪失を知っている人間だった。大切な人を失い、その空白を埋めるために自分を別の形に作り変え、それでも生き続けることを選んだ人間。

 二人は並んで歩き始めた。

 言葉はなかった。必要なかった。燐光灯の青白い光が石壁に二つの影を落とし、その影は等しい歩幅で、等しい速度で、長い廊下を進んでいった。

 ダリウスの横顔には表情らしい表情が浮かんでいなかった。だが、その無表情は、これまでの無表情とは質が違っていた。感情を殺した無表情ではなく、感情が多すぎて形にならない無表情。二十八年分の「代替品の鎧」に取り返しのつかない亀裂が入り、その隙間から溢れ出そうとする何かを、まだどう扱えばいいのか分からない人間の顔だった。

 レーナはそれを見ていた。横目で、僅かに。そしてすぐに前を向いた。

 彼女の存在が——何も聞かず、何も求めず、ただ隣にいるという一つの行為だけが——「代わりではない自分」を受け入れ始めたダリウスの足元を、静かに支えていた。

 鉄扉が一つ、また一つと背後に遠ざかる。

 二人の足音だけが、廊下に響いていた。

 やがて最後の鉄扉が開き、外の空気が流れ込んだ。赤錆色の大地の匂いと、遠くから聞こえる鍛冶場の槌音。城塞都市アイゼンヴァッヘの日常が、変わらぬ顔でそこにあった。

 ダリウスは一度だけ足を止め、背後の施設を振り返った。

 石壁の向こうで、兄は再び眠りの底に沈んでいる。次に目を覚ますのがいつになるのか、あるいはもう二度とないのか、誰にも分からない。だが兄が最後に見せた微かな笑みと、掠れた声で紡いだ言葉は、もう消えない。

 ダリウスは前を向いた。

 レーナが半歩先で待っている。

 二人は再び歩き出した。言葉のないまま、鉄と錆の匂いが染みついた城塞都市の道を、並んで。

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