第二十三章 目覚めの代償
最初に戻ってきたのは、音だった。
遠く、近く、判然としない距離感で響く金属の軋み。誰かが工具を石の床に置く硬質な音。それから、布が擦れるような微かな気配。どれもが水の底から聞こえてくるように輪郭を欠いていて、晃はしばらくの間、それが現実の音なのか、それとも神経接続の残響が脳の中で反響しているだけなのか区別がつかなかった。
瞼を開こうとした。
それだけの動作に、信じがたいほどの労力が要った。まるで瞼の裏側に鉛の板を貼りつけられたかのようだった。意志の力で無理やりこじ開けると、視界は白く滲んだ靄に覆われていた。天井らしきものがある。石造りの、見覚えのある色合い。それが焦点を結ぶまでに数十秒を要し、ようやく軍医務室の天井だと認識したとき、晃は自分がベッドの上に横たわっていることを理解した。
三日間、眠っていたのだと後から聞かされることになる。
視界が安定しない。右目はある程度の解像度を取り戻したが、左目が問題だった。視野の端が不規則に明滅し、まるで壊れた液晶モニターのように光の粒が散っては消えた。眼鏡はない。誰かが外したのだろう。裸眼の弱い近視にこの明滅が重なると、世界は水彩画を雨に晒したような曖昧さに沈んだ。
左手を動かそうとした。
指先に信号が届くまでに、明確な遅延があった。まるで自分の手と脳の間に、見えない膜が一枚挟まっているような感覚。親指から小指まで順番に握ろうとすると、薬指と小指が命令を無視して微動だにしなかった。もう一度。やはり動かない。三度目、ようやく薬指がかすかに曲がったが、小指は頑として沈黙していた。
背筋を冷たいものが伝い落ちた。
これは、前の痺れとは質が違う。前線で戦った後にも左手の痺れはあった。だがあれは数時間で引いたし、握力も戻った。今回は三日経ってこれだ。指が自分のものではないような、切り離された道具を遠隔操作しているような、根本的な断絶がそこにあった。
「……起きたのか」
声は左側から聞こえた。
首を傾けると、ベッドの脇に置かれた木製の椅子に、フィーネ・アルヴェスタが座っていた。いや、正確には座ったまま眠っていたのだろう。背筋がわずかに曲がり、膝の上に広げた手記帳が滑り落ちかけている。晃が身じろぎした音で目を覚ましたらしかった。
琥珀色の瞳が晃を捉えた。その目の下に、隠しきれない隈が刻まれていた。
だが晃の視線が真っ先に吸い寄せられたのは、フィーネの目元ではなかった。
両腕だ。
肘から手首にかけて、白い包帯が幾重にも巻かれていた。右腕はさらに指の付け根近くまで覆われており、包帯の端がわずかに赤く滲んでいる部分があった。調律紋を刻んだ両腕。機鋼騎兵の内側に素手で触れ、装甲の振動を聴き、回路を繋ぎ直すための、技師にとって命そのものと等しい両腕。
「その腕」
言いかけて、声が掠れた。喉が干上がっていた。唾を飲み込もうとしたが、砂を噛むような感覚しかなかった。
フィーネは晃の視線を追って自分の腕を一瞥し、何でもないことのように言った。
「軽傷だ。整備に支障ない」
嘘だ、と晃は思った。
嘘だと断じられるだけの根拠が、目の前にあった。フィーネの右手の指先が、かすかに震えていた。包帯の下で、意志とは無関係に細かく痙攣するような震え。それは道具を握る者の手に許される振幅ではなかった。精密工具を操り、調律紋を通じて機鋼騎兵の神経回路と対話する技師の指が、あんなふうに震えているということの意味を、晃は理解していた。
だが、指摘する言葉は出なかった。
フィーネが嘘をつくとき、その琥珀色の瞳はいっそう冷たく澄む。まるで感情を凍結させることで痛みを遮断しているかのように。今がまさにそうだった。晃はその透徹した目を見つめ、口を閉じた。ここで追及すれば、フィーネは認めるだろう。だがその代わりに、彼女がかろうじて保っている何かが折れる。そんな予感があった。
代わりに、晃は自分の左手を持ち上げた。包帯こそ巻かれていなかったが、指の動きがぎこちないことは一目瞭然だった。
「俺のほうは、どうなんだ」
フィーネは手記帳を閉じ、椅子の背に寄りかかった。その動作の中に、報告という行為に切り替える瞬間の、技師としての切り替えが見えた。
「軍医の診断を伝える。神経接続後遺症。左手の末梢神経に断続的な伝達障害が確認された。原因はリミッター全解除時の過負荷による神経回路の部分的焼損。慢性化の可能性がある」
慢性化。
その単語が脳の中で反響した。一時的な痺れではなく、もう戻らないかもしれないということだ。晃は薬指と小指をもう一度動かそうとした。薬指がわずかに反応し、小指はやはり沈黙した。
「視覚のほうも聞くか」
フィーネの声に感情の揺れはなかった。事実を事実として伝達する、技師の言語。それが今はありがたかった。
「……聞く」
「視野の明滅。左目の視神経に接続時の情報過多による損傷が残存している。完全回復の見込みは、現時点ではない」
完全回復の見込みはない。
晃は天井を見た。石の天井は沈黙していた。視野の左端で、光の粒が不規則に明滅した。まるで壊れかけのディスプレイの端に浮かぶ、消せないノイズ。これからずっと、こうなのか。この瞬きを止められない光の散乱を、視界の隅に抱えたまま生きていくのか。
「次のリミッター全解除は勧められない」
フィーネが続けた。その声がわずかに低くなったことを、晃は聞き逃さなかった。
「脳に不可逆的な損傷を生じるリスクがある。次はないと思え」
次はない。
その言葉の重みが、晃の胸の底にゆっくりと沈んでいった。リミッターを全て外したあの瞬間、世界が透明になったような万能感があった。ヴァルトラウテの全機能が自分の身体の延長になり、戦場の全てが見え、全てに手が届いた。だがその代償がこれだ。左手の指二本の自由と、左目の視野の一部と、そして次の機会そのもの。支払った対価は、取り返せない。
沈黙が落ちた。
窓の外から鉄嵐の残滓のような風音が聞こえていた。フィーネが椅子の上で姿勢を正し、手記帳を膝に置き直した。その動作で包帯の端がずれ、指先の震えが一瞬大きくなったが、フィーネは素早くもう片方の手で押さえた。
「ヴァルトラウテの状況を報告する」
晃は頷いた。ここから先はフィーネの領分だ。
「損傷は全身に及んでいる。装甲外殻の四割が交換を要し、右腕部の駆動系は完全に再構築が必要。左脚の関節機構に亀裂、主動力伝達経路の三系統が断裂。修復には最低二週間かかる」
二週間。その間、ヴァルトラウテは動けない。聖皇国の最前線に、あの巨人が不在となる。晃はその事実の重さを噛みしめたが、同時に、身体のどこかでかすかな安堵が滲んだことを否定できなかった。二週間、乗らなくていい。あの操縦席に座り、神経を機械に接続し、生身の人間には耐えられない情報の奔流に身を晒さなくていい。その安堵を感じた自分に、すぐに嫌悪が追いかけてきた。
「ただし」
フィーネの声の質が変わった。報告の口調は同じだったが、その奥に、何かを慎重に計量するような緊張が混じった。
「核機関の深層データ解析が次の段階に進んだ」
晃は視線をフィーネに戻した。
「門の記録の解読が進んでいる」
門。ゲート。
晃がこの世界に来るときに通った、あの光の裂け目。古代文明が次元を接続するために用いた技術の残滓。フィーネはずっとヴァルトラウテの核機関に刻まれたデータの中から、その痕跡を探し続けていた。父コンラートの昏睡の原因を突き止めるために。そしていつからか、それは晃を元の世界に帰す手がかりを探す作業とも重なっていた。
フィーネは手記帳を開いた。ページの上に、晃には読めない古代文字と、フィーネ自身の筆跡による注釈がびっしりと書き込まれていた。
「核機関を特定条件で稼働させれば、次元接続が可能になる。お前を元の世界に帰せる。ほぼ確定した」
時が止まった。
そう感じた。窓の外の風音も、遠くの金属音も、自分の呼吸さえも、一瞬全てが凍りついたように感じた。帰れる。その二文字が脳裏で膨張し、胸腔を圧迫した。母の寝顔。団地の六畳間。祖父の工具箱。通学路の地下通路。もう動かないスマートフォンの画面。あの全てに、帰れる。
だがフィーネの表情は、吉報を告げる者のそれではなかった。
「条件がある」
知っていた。こんなにも都合よくいくはずがないことを、晃はもう学んでいた。
「核機関を門の開放に使用すれば、ヴァルトラウテは二度と起動しない」
二度と。
その言葉が、先ほど感じた安堵の記憶を鋭利な刃物のように切り裂いた。
「核機関はヴァルトラウテの心臓だ。次元接続に必要なエネルギー出力は、核機関の全容量を一度きりの放出で消費する。門が開いた後、核機関は完全に停止する。再起動は不可能。ヴァルトラウテは、鋼の骸になる」
フィーネの声は平坦だった。技師としてデータを読み上げる声。だがその平坦さの奥に、晃は気づいていた。フィーネにとってヴァルトラウテは、ただの兵器ではない。父が命を懸けて解析しようとした古代の遺産であり、フィーネ自身が技師としての全てを注ぎ込んできた存在であり、そして父の昏睡の謎を解く鍵でもある。それを永久に失うということの重さを、フィーネ自身がどう受け止めているのか、その包帯に覆われた震える指先が全てを語っていた。
「お前が帰還すれば、聖皇国は唯一の古代兵器を失う。お前がこの世界を守る力も、同時に失われる」
帰還か、残留か。
母のもとに帰るか、この世界に留まるか。
自分の人生を取り戻すか、ここで得たものを守り続けるか。
二律背反だった。どちらかを選べば、もう一方は永遠に失われる。中間はない。妥協もない。古代の核機関は、一度きりの選択しか許さない。
晃は口を開こうとした。何か言わなければならないと思った。だが言葉が見つからなかった。頭の中で無数の思考が明滅し、どれ一つとして文章にならなかった。帰りたい。それは本心だった。母に会いたい。祖父に会いたい。自分の部屋で、自分の布団で、安全な世界で眠りたい。だが同時に、この三日間意識を失っている間もベッドの脇で手記帳を広げ続けていたであろうフィーネの姿が見えていた。包帯の下で震える指で、それでも整備に支障ないと嘘をつく技師の横顔が見えていた。ダリウスの、レーナの、セリオンの、名も知らぬ兵士たちの顔が、次々と浮かんでは消えた。
答えが、出なかった。
晃は右手を伸ばし、ベッド脇の台に置かれていた眼鏡を手探りで取った。レンズには訓練で入ったヒビがまだ残り、フレームはフィーネの精密工具と自分の手で直した歪みの名残を留めていた。異世界にスペアはない。何度も壊れかけ、その度に修理してきた、この世界に一つだけの眼鏡。
指でレンズの縁をなぞった。ヒビの凹凸が指先に伝わった。左手ではなく右手で。左手では、もうこの繊細な感触を正確に拾えないかもしれなかった。
窓の外には、赤錆色の荒野が広がっていた。二つの月はまだ地平の下にあり、乾いた空が灰色に霞んでいた。あの空の向こうに、門がある。帰る道がある。だがその道を開けば、ここにある全てが閉じる。
フィーネは何も言わなかった。答えを急かさなかった。ただ椅子に座り、手記帳を膝の上に置いたまま、晃と同じ窓の外を見ていた。
壊れかけた眼鏡を指でなぞる動作だけが、静寂の中で繰り返された。




