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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第三部 銀翼と灰瞳

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第二十一章 壊れた大人


 聖都ヴァルケンハイムの空は、前線のそれとは違っていた。

 鉄粉混じりの風はなく、赤錆色の荒野もない。代わりに白亜の尖塔が朝靄の中に林立し、聖皇紀の紋章を刻んだ旗が規則正しくはためいている。整然とした美しさだった。だがその整然さが、晃にはかえって息苦しかった。ここでは全てが計算されている。旗の角度も、兵士の歩幅も、笑顔の下に隠された思惑も。

 聖都到着から一日。晃は旅団に宛てがわれた宿営棟の一室で、窓枠に肘をついたまま動けずにいた。ポケットの中で、とうに電源の入らないスマートフォンの角が指先に触れる。画面を見なくても分かる。ホーム画面の左上にはカレンダー、右下にはGRID:VANGUARDのアイコン。もう何度なぞったか分からないその配置を、指が勝手に辿ろうとする。

 やめろ、と自分に言い聞かせた矢先、部屋の扉が叩かれた。


 三回。間隔は正確に等しい。ダリウス・ヘルムガルドの癖だった。

 晃が返事をする前に扉が開く。そこも、いつも通りだ。

 だが入ってきたダリウスの表情は、いつも通りではなかった。

 鉄槌旅団団長としての仮面——常に冷厳で、感情の起伏を他者に悟らせない、あの鋼のような無表情は確かにそこにあった。だが晃は知っている。転移二日目の医務室で、初めてこの男と向き合ったときの目を。あのとき瞳の奥に揺れていた、命令と良心の間で引き裂かれる苦痛の色を。

 同じ色が、今、ダリウスの目にあった。

「座れ」

 ダリウスは短く言い、自身は壁に背を預けたまま腕を組んだ。晃が寝台の縁に腰を下ろすと、ダリウスはしばらく窓の外を見ていた。白亜の尖塔の先端が朝日を受けて金色に光っている。その光を睨むような目つきだった。

「枢密院の命令が下った」

 声は平静だった。努めてそうしている、と晃には分かった。

「ヴァルトラウテの核機関を摘出し、聖皇国の交渉材料とする。隣国連合との停戦協議における最大の切り札として、核機関の引き渡しを条件に組み込む——ヴァレンシュタイン枢密卿の立案だ」

 晃の指先が、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。

「摘出って……ヴァルトラウテから、核を抜くってことですか」

「そうだ」

「抜いたら、あいつは」

「二度と動かない」

 淡々と告げるダリウスの声に、感情はなかった。正確に言えば、感情を殺していた。だが完全には殺しきれていない。語尾のわずかな震え。それは、あの転移二日目に「乗るか、死ぬか」と告げたときと同じ——自分自身の言葉に傷つきながら、それでも言葉を吐き出す者の震えだった。

「お前の刻印紋と核機関の接続は解除される。機鋼騎兵の操縦者としての役割は終わりだ。その後の処遇は……枢密院が決定する」

「処遇」

「聖皇国にとって有用と判断されれば保護。不要と判断されれば——」

 ダリウスは言葉を切った。切ったのではなく、切らざるを得なかったのだと、晃は思った。

 沈黙が部屋を満たした。窓の外で旗がはためく音だけが、布を裂くように響いている。

 晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれてなどいない。右レンズのヒビが朝日を屈折させて、視界の端に小さな虹を作っている。フィーネの精密工具と祖父譲りの手つきで直したフレームの歪みが、かすかに右のこめかみを圧迫していた。

「……ヘルムガルド団長」

 声が震えた。だが晃は続けた。

「あんたは、それでいいんですか」

 ダリウスの目が、わずかに見開かれた。

「命令だ。良いも悪いもない」

「嘘だ」

 自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。喉の奥が詰まるような恐怖はある。この男は鉄槌旅団の団長で、自分はただの異世界から来た子供で、逆らえる立場になどない。それでも。

「嫌なんだろ、俺を駒にするのが」

 ダリウスの顎が、ほんの一瞬だけ強張った。腕を組んだままの姿勢は変わらない。だがその指先が、二の腕の布地に食い込むように力を込めているのが見えた。

「小僧に何が分かる」

 低い声だった。怒りではない。怒りに似せた、別の何かだった。

「分からない」

 晃は認めた。分からないことを認めるのは、もう怖くなかった。分からないまま、それでも見えているものがある。

「分からないけど——あんたが水を持ってきてくれたとき、あの温度は命令じゃなかった」

 四日目の夜。城塞都市の外縁部に喰鋼蟲が現れ、ダリウスがヴァイスヴォルフで出撃し、死者三名を出して帰還した夜。右腕に負傷を負ったダリウスは、格納庫で震えていた晃に何も言わずに去った——はずだった。

 だがその夜更け、格納庫の隅で膝を抱えていた晃の傍に、水の入った革袋がそっと置かれた。振り向いたとき、廊下の暗がりにダリウスの背中が見えた。包帯の巻かれた右腕。まっすぐ前を向いたまま、一度も振り返らなかった背中。

 あのときの水は、ぬるかった。

 冷水でも白湯でもない。長い時間、誰かの手の中にあった温度だった。

「あれは……」ダリウスの声が、かすかに掠れた。「ただの——」

「ただの、何ですか」

 晃は問い返した。ダリウスは答えなかった。

 沈黙の中で、晃はこの男の二十八年間を想像した。想像するしかなかった。天才と呼ばれた兄ジークハルトの代わりとして生まれ直すことを強いられた少年時代。人工刻印紋を背負い、自分自身として何かを選んだことのないまま、団長の椅子に座らされた青年期。命令に従うことだけが存在意義であると刻み込まれた、二十八年。

「あんたは代替品なんかじゃない」

 言ってから、晃は自分の声の震えに気づいた。怖いときほど口数が増える悪癖。だがこれは分析ではない。ただの、祈りに近い何かだった。

「でも——あんたがそう思い込んでるのは、分かる。ずっとそう言われてきたんだろうから」

 ダリウスは壁から背を離した。一歩、晃に近づく。その巨躯が朝日を遮り、晃の上に影が落ちた。

「……命令の伝達は以上だ」

 それだけを言い残し、ダリウスは部屋を出た。扉が閉まる直前、晃はその横顔を見た。唇が薄く開いて、何かを言いかけ——そして噛み殺すように閉じられた。

 扉の向こうで、重い足音が遠ざかっていく。


 その日の夕刻、レーナ・フォン・ベルツがダリウスの執務室を訪れた。

 聖都に設けられた仮の執務室は、アイゼンヴァッヘの団長室とは比較にならないほど広い。だがダリウスは部屋の中央に置かれた机ではなく、窓際に立っていた。左手に書簡を握ったまま、聖都の夕景を見下ろしている。白亜の街並みが赤銅の月カルマの光を受けて、かすかに錆びた色に染まっていた。

「報告があります」

 レーナの声は、いつもと変わらない。感情を抑制した、副官としての声。だがその目——左頬から顎にかけての古い傷痕を横切るようにして光る、翡翠色の瞳は、静かな覚悟を湛えていた。

「枢密院からの実行期限は三日後です。核機関の摘出に必要な調律技師の手配も進行中と。アルヴェスタの技師——フィーネが指名されています」

 ダリウスの肩が、微かに動いた。

「フィーネを」

「彼女の調律紋がなければ、核機関へのアクセスは不可能ですから。枢密院にとっては合理的な判断でしょう」

 合理的。その言葉がこの部屋の空気を凍てつかせた。

 レーナは一拍の間を置いて、問うた。

「命令に従いますか」

 ダリウスは振り返らなかった。窓の外を見たまま、低い声で返す。

「お前はどう思う」

 それは団長が副官に意見を求める言葉であると同時に、ダリウス・ヘルムガルドがレーナ・フォン・ベルツに——十年来の戦友に、問いかける言葉だった。

 レーナは左手を無意識に袖口に触れた。白百合と赤百合の刺繍。姉エルゼの死を悼む、消えない縫い目。

「三年前」レーナは静かに言った。「鉄煙峡で私は操縦席を降りました。あの日、私は命令に従って出撃し、命令に従って戦い、命令に従って——姉を守れなかった」

 ダリウスが、ようやく振り返った。

「命令は間違っていなかったのかもしれません。戦術的には合理的だったのでしょう。でも私は、あの日から、命令に従う自分を信じられなくなった」

 レーナの声は震えなかった。だがその静けさの中に、三年間かけて固めた覚悟の重量があった。

「あなたがこの命令に従ったとき——あなたはもう、あなたではなくなる」

 その言葉が、執務室の空気を貫いた。

 ダリウスは何も言わなかった。書簡を握る左手の指が白くなるほど力が込められ、やがて緩やかに力が抜けた。レーナは敬礼し、部屋を出た。扉が閉まっても、ダリウスはしばらくそこに立っていた。


 夜が更けてから、ダリウスは一人で聖都の北区画に向かった。

 軍の特別医療施設。聖都の喧騒からも、枢密院の政治からも隔絶された、白い壁と消毒液の匂いに満ちた場所。ここに、十九年間、一人の男が眠っている。

 扉を開けると、月光が差し込んでいた。銀白のゼルダの光が、寝台に横たわる男の顔を照らしている。

 ジークハルト・ヘルムガルド。

 兄。

 かつて「ヘルムガルド家の至宝」と呼ばれた天才的刻印紋適合者。十二歳で過負荷事故を起こし、脳神経に不可逆的な損傷を負い、以来十九年——断続的な意識のみを保つ植物状態のまま、この白い部屋に横たわり続けている。

 ダリウスは寝台の傍らに椅子を引き、腰を下ろした。

 兄の手を取った。かつて機鋼騎兵の操縦桿を握り、誰よりも精緻に鋼の巨人を動かしたその手は、十九年の歳月で骨と皮ばかりになっていた。温かさはある。生きている温度。だが応答はない。指先が反射で動くこともない。ただ、温かいだけだ。

 ダリウスは兄の手を両手で包み、額を自分の指先に押し当てた。

「兄上」

 声が震えた。この部屋でだけは、鉄槌旅団団長の仮面を外すことが許される。十九年間の一方通行の会話。返事が来たことは、一度もない。

「俺は——」

 言葉が詰まった。喉の奥が焼けるように熱い。

「俺は代わりでいることしかできないのか」

 問いかけは、兄に向けたものだった。同時に、自分自身に向けたものだった。

 父ヴォルフが人工刻印紋を移植した日のことを覚えている。九歳だった。痛みよりも、父の目に映った失望の方が痛かった。失望ではなかったのかもしれない。だがダリウスにはそう見えた。「お前はジークハルトにはなれない。だがジークハルトの代わりにはなれる」——父はそうは言わなかった。だが言葉にしなかったからこそ、その意味はダリウスの骨に刻まれた。

 以来二十八年。命令に従い、家名を背負い、団長の椅子に座り、部下を戦場に送り出してきた。それが「代わり」としての務めだった。自分自身として何かを選んだことは——一度でもあっただろうか。

 あの少年の顔が浮かんだ。

 御影晃。灰色の瞳をした、場違いなほど普通の少年。臆病で、震えてばかりで、眼鏡を壊さないよう神経を使い、もう動かないスマートフォンの画面を夜ごと指でなぞる、異世界の子供。

 あの夜、水を持っていったのは命令ではなかった。

 晃の言う通りだ。あれは命令ではなかった。

 格納庫の隅で膝を抱えて震えていた少年を見て、ダリウスの中の何かが——二十八年間「代替品」として封じ込めてきた何かが、わずかに軋んだ。自分が十二歳のとき、手術台の上で一人で震えていたあの夜と同じ姿をした少年。誰も水を持ってきてはくれなかった、あの夜。

 だから持っていった。それだけのことだ。それだけのことが、命令の外にある、自分自身の選択だった。

「兄上」

 ダリウスはジークハルトの手を握ったまま、目を閉じた。

「俺は……あの小僧を守りたいと思っている」

 声にした瞬間、それが紛れもない本心であると分かった。国家を守ること。それは二十八年間、一度も疑わなかった忠誠の形だった。だが今、その忠誠が問われている。国家が「あの少年を道具にしろ」と命じるとき、国家を守ることと、自分が守ると決めた人間を守ることは、同じ方向を向かない。

 二律背反。どちらを選んでも、何かが壊れる。

 国家に従えば、晃が壊れる。

 晃を守れば、自分が——二十八年間の自分が壊れる。

 レーナの言葉が蘇る。「あなたがこの命令に従ったとき、あなたはもうあなたではなくなる」。

 だが「あなた」とは誰だ。ダリウス・ヘルムガルドとは何だ。代替品として生き、命令に従い続けてきた男の中に、「自分自身」など残っているのか。

 ジークハルトの指先が、微かに動いた——ように見えた。反射か、錯覚か。ダリウスには分からなかった。だがその一瞬、兄の手の温度がほんのわずかだけ高くなったような気がした。

 月光が白い部屋を満たしている。銀白のゼルダが西に傾きかけ、窓枠の影が寝台の上をゆっくりと移動していく。

 ダリウスは兄の手を離さなかった。

 答えは出ない。出ないまま、この男は夜を過ごす。だがその苦痛の中に、確かに——これまでの二十八年間にはなかった種類の痛みが混じっていた。

 それは「自分自身として選ぶ」という行為が、凍りついた筋肉をほぐすように、軋みながら目を覚まし始める痛みだった。

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