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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第三部 銀翼と灰瞳

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第十九章 枢密卿の影

 その男は、鉄の匂いが染みついた前線城塞にはおよそ似つかわしくない香りを纏っていた。

 白磁のように滑らかな手袋、一分の隙もなく仕立てられた濃紺の長衣、銀糸で縫い取られた聖皇家の紋章。枢密卿グラーフ・ヴァレンシュタインは、アイゼンヴァッヘの正門を馬車で潜ったその瞬間から、城塞都市の空気そのものを別種のものに塗り替えた。

 兵士たちが背筋を正し、職人たちが作業の手を止め、街路の両脇に整列する。聖都の権力の頂点に座る男が前線を訪れるなど、少なくともこの十年で一度もなかったことだった。

 ダリウス・ヘルムガルドは、鉄槌旅団の団長として正門前に立ち、その到着を出迎えた。右腕にはまだ包帯が巻かれている。先日の戦闘で負った傷は塞がりかけていたが、完治には程遠い。それでも彼は軍礼を完璧にこなし、一歩の揺らぎも見せなかった。

 「よく来られました、枢密卿閣下」

 「ご苦労、ヘルムガルド団長」

 ヴァレンシュタインは馬車から降り立つと、周囲を一瞥した。その視線は城壁の補修痕、格納庫から漏れる蒸気、兵舎の屋根に干された血染めの包帯布まで、一切を見逃さず舐めるように通過していった。口元には薄い笑みが浮かんでいたが、目は笑っていなかった。

 「前線の匂いだ。懐かしくはないが、忘れるものでもないな」

 その言葉が社交辞令なのか本音なのか、ダリウスには判別がつかなかった。ただ一つ確かなのは、この男が手ぶらで来るはずがないということだった。


 視察は形式的なものだった。格納庫の巡回、兵員の整列点検、補給状況の確認——すべてが予定調和の儀礼として進行した。しかしヴァレンシュタインの足が格納庫の奥、ヴァルトラウテの前で止まったとき、空気が変わった。

 全高十二メートルの古代機体は、整備架台の中で静かに佇んでいた。フィーネが施した応急修理と調律の痕跡が装甲の各所に残り、古代の金属と現代の技術が継ぎ接ぎのように共存している。センサーアイは消灯したまま、まるで深い眠りについているかのようだった。

 「これが」とヴァレンシュタインは呟いた。手袋の指先で装甲の縁をなぞる。「ヴァルトラウテ。古代十二機鋼騎兵の失われた一柱。まさか私の存命中に起動する姿を見ることになるとはな」

 ダリウスは一歩後ろに立ったまま、枢密卿の背中を見つめていた。その視線が機体ではなく、機体の中に眠る何か——核機関そのものに向けられていることを、彼は見抜いていた。

 「操縦者は」

 「現在、訓練中です。本日の視察には」

 「会う必要はない」ヴァレンシュタインは振り返りもせずに遮った。「異邦人の少年だろう。報告は読んでいる」

 その口調には、人間に対する関心がまるで含まれていなかった。ダリウスの喉仏がわずかに動いた。


 視察を終えたヴァレンシュタインは、旅団本部の執務室で正式な命令を下した。

 革張りの椅子に腰を下ろし、従者に持たせていた封蝋付きの文書をダリウスの机上に置く。聖皇家の紋章と枢密院の印が二重に押された、最高位の軍令書だった。

 「鉄槌旅団に対し、枢密院より命令を伝達する」

 ヴァレンシュタインの声は抑揚を欠いたまま、しかし一語一語が鉛のように重く部屋を満たした。

 「機鋼騎兵ヴァルトラウテおよびその操縦者を、速やかに聖都ヴァルケンハイムへ移送せよ。目的は聖都防衛体制の強化。移送期限は七日以内とする」

 聖都防衛。その言葉が執務室の壁に跳ね返り、沈黙の中に沈んだ。

 ダリウスは軍令書を手に取り、封蝋を割った。中の文面に目を通す。一行、また一行。表情は微動だにしない。だがその鉄灰色の瞳の奥で、歯車が回り始めていた。

 「……閣下。一つ確認させていただきたい」

 「何か」

 「聖都の防衛態勢は現状、第一親衛旅団と聖都守備隊により万全と聞いています。ヴァルトラウテ一機を前線から引き抜く軍事的合理性を、ご教示いただけますか」

 ヴァレンシュタインは初めて、はっきりとダリウスの目を見た。その視線は品定めするように冷たく、同時にどこか愉しげでもあった。

 「合理性は枢密院が判断する。前線の指揮官が問うべきことではない」

 「前線の指揮官だからこそ問うのです。ヴァルトラウテは現在、この戦域の抑止力の中核です。移送は前線の崩壊を意味します」

 「崩壊するほど脆い戦線を維持しているのであれば、それは指揮官の責任だ」

 言葉の刃が正確にダリウスの急所を突いた。反論を封じるための言葉ではない。反論そのものを無意味にするための言葉だった。

 ヴァレンシュタインは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓の外には、赤錆色の荒野が夕陽に染まって広がっている。

 「ヘルムガルド団長。君は聡明な男だ。この命令の意味を、額面通りにしか読めないほど愚かではあるまい」

 そう言って、枢密卿は去った。


 一人になった執務室で、ダリウスは軍令書を机上に広げたまま、長い間動かなかった。

 聖都防衛のため。その名目の裏に何があるのか——彼には読めていた。読めていたからこそ、動けなかった。

 隣国連合との停戦交渉。その噂は前線にも断片的に届いていた。聖皇国の上層部が極秘裏に交渉の糸口を探っていること、その条件として連合側が何を要求しているのか。カルヴァスが執着するヴァルトラウテの核機関——あるいはヴァルトラウテそのものが、交渉の引き渡し条件として俎上に載せられている可能性。

 核機関の摘出。それが行われれば、ヴァルトラウテは永久に沈黙する鉄の棺と化す。そして操縦者である晃は、「機鋼の継承者」から「何の価値もない異邦人」に戻る。戦力としての価値をゼロにされた異邦人を、聖皇国が保護し続ける理由はない。処分可能な存在——それがこの命令の終着点だった。

 ダリウスは机に両手をつき、頭を垂れた。

 そのとき、執務室の通信装置が低い振動音を立てた。聖都からの暗号回線。発信者の識別符号を見た瞬間、ダリウスの肩が石のように固くなった。

 父だった。


 通信装置から流れる声は、記憶の中にあるものと寸分違わなかった。低く、硬質で、一切の感情的な揺らぎを排除した声。ヴォルフ・ヘルムガルド——枢密院の武官筆頭であり、ダリウスの父であり、そして兄ジークハルトを壊した後に弟を「代替品」として軍に送り出した男。

 「ダリウス」

 名前を呼ぶ、ただそれだけの行為に、命令と査定と判決の全てが込められていた。

 「……父上」

 自分の声が硬いことを、ダリウスは自覚していた。背筋が無意識に伸び、両肩が引き上げられる。団長として数百の兵を率いる男が、通信装置の前でかつての少年に戻っていた。椅子の背に預けていた体を正し、まるで父が目の前に立っているかのように姿勢を硬直させている自分に気づき、唇を噛んだ。

 「枢密卿の視察は終わったか」

 「はい。軍令書を受領しました」

 「ならば話は早い。ヴァルトラウテと操縦者を聖都に送れ。七日以内だ」

 枢密卿が伝えたのと同じ命令。だが父の口から発せられたとき、それは軍令ではなく、家長の命令になった。

 「父上。この命令の真意について確認させてください」

 「確認の必要はない。お前がすべきことは一つだ」

 「核機関の摘出が目的であれば、前線の戦力均衡は——」

 「ダリウス」

 声が一段低くなった。それだけで、ダリウスの言葉は喉の奥に押し戻された。

 「家と国のためだ」

 五つの単語。それは幼少期から何度となく聞かされてきた言葉だった。兄の病室の前で。人工刻印紋を移植される手術台の上で。初めて機鋼騎兵に搭乗した日に。そのたびにダリウスは頷いてきた。頷く以外の選択肢を与えられたことがなかったからだ。

 「お前は優秀な軍人だ。感情で判断を曇らせるような真似はするまい。異邦人の少年一人と、国家の存亡を天秤にかけるほど愚かではあるまい」

 その言葉の構造をダリウスは知っていた。まず肯定し、次に否定の余地を塞ぐ。父の言葉はいつもそうだった。褒めているのではない。逃げ道を断っているのだ。

 「兄上のことも」ダリウスは声を絞り出した。「家と国のためでしたか」

 通信の向こうで、わずかな沈黙があった。

 「ジークハルトの件を持ち出すな。あれとこれは別だ」

 「別でしょうか。適合者を消耗品として使い、価値がなくなれば切り捨てる。同じ構造です」

 「お前に国政を語る資格はない。前線の指揮官は前線の仕事をしろ」

 通信が切れた。

 ダリウスは通信装置の前に座ったまま、しばらく動けなかった。右手が微かに震えていた。包帯の下の傷が、鈍く疼いた。

 代替品。その言葉が頭蓋の内側に反響する。兄の代わりに刻印紋を刻まれ、兄の代わりに機体に乗り、兄の代わりに戦場に立ってきた。自分自身として何かを選んだことがあっただろうか。この命令に従うことも、父の敷いた軌道の上を走り続けることに過ぎないのではないか。

 晃の顔が浮かんだ。格納庫の隅でスマートフォンの画面を指でなぞっていた、あの怯えた目。「俺じゃなくてもよかっただろ」と繰り返す、あの声。

 あの少年を聖都に送れば、待っているのは核機関の摘出と、用済みの異邦人としての処分だ。

 ダリウスは立ち上がり、執務室の扉を開けた。


 レーナ・フォン・ベルツを呼び出したのは、日が完全に落ちてからだった。

 副官は、呼ばれるまでもなく何かを察していたのだろう。執務室に入った瞬間、ダリウスの表情を一瞥しただけで、扉を背にして姿勢を正した。左袖の百合の刺繍が、ランプの灯りに淡く浮かぶ。

 「命令が来た」

 ダリウスは軍令書をレーナに差し出した。レーナはそれを受け取り、静かに目を通した。

 その表情が変わっていく過程を、ダリウスは見ていた。最初は副官としての冷静な分析。次に、行間を読み取る知性が稼働する微かな眉の動き。そして——

 「……あの少年を、政治の駒にするということですか」

 レーナの声は低く、抑制されていた。だがその底に、ダリウスがこれまで一度も聞いたことのない温度があった。怒りだ。副官として常に冷静さを保ち、感情を統制し続けてきたレーナ・フォン・ベルツが、初めて明確な怒りを露わにしていた。

 軍令書を持つ手の指先が、わずかに白くなっている。

 「核機関の摘出。操縦者の無力化。停戦交渉の材料としてヴァルトラウテを引き渡す。そこまで読めということでしょう」レーナは軍令書を机に戻した。「そしてあの少年は、戦力としての価値を失った『異邦人』として処分される」

 「そうだ」

 「この命令を推進しているのは」

 「父だ」

 その一言で、レーナの翡翠色の目にさらに深い何かが走った。彼女はダリウスとヴォルフの関係を知っている。人工刻印紋のことも、「代替品」としての年月のことも。前線で共に戦い続けてきた時間が、言葉にされない理解を築いていた。

 沈黙が執務室を満たした。壁にかかった地図の前線が赤い線で引かれ、補給路が青い点で示されている。その全てが、この命令一つで意味を失おうとしていた。

 「お前はどう思う」

 ダリウスは問うた。それは副官への諮問ではなかった。もっと個人的な、もっと切実な問いだった。

 レーナは答える前に、一つ深く息を吸った。左手——火傷の痕が残る手を、無意識に握り締めている。鉄煙峡で姉を失い、自身も操縦席を降りた女。戦場で人が道具として消費される光景を、誰よりも近くで見てきた女。

 「団長」

 レーナの声は静かだった。怒りは消えていなかったが、その奥にもう一つの感情が混じっていた。

 「あなたがこの命令に従ったとき、あなたはもうあなたではなくなる」

 言葉が、弾丸よりも正確にダリウスの胸を射抜いた。

 「私はそのあなたの副官でいることはできません」

 最後通牒だった。副官の辞意表明であり、軍の規律を超えた個人としての宣言だった。だが同時にそれは——ダリウスが自分で選ぶことへの、信頼の表明でもあった。

 従うなら、あなたはあなたでなくなる。だから、選べ。自分の意志で。

 父の命令に従い続けた「代替品」のダリウスではなく、鉄槌旅団の団長として、一人の人間として、選べ。

 レーナはそう言っているのだ。

 ダリウスは答えなかった。答えられなかった。ただ、レーナの目を真っ直ぐに見返した。その瞳に映る自分の顔が、どんな表情をしているのか、彼自身には分からなかった。

 レーナは一礼し、執務室を出た。扉が閉まる音が、静かな部屋に響いた。


 同じ夜、格納庫では別の異変が始まっていた。

 晃は訓練を終え、いつものようにヴァルトラウテの足元に座り込んでいた。動かないスマートフォンの画面を指でなぞりながら、存在しないアプリのアイコンを記憶の中でタップする。ホーム画面の配置はまだ覚えている。左上にカレンダー、その隣に天気予報、二段目にゲームのアイコンが並んで——

 ふと、格納庫の反対側で物音がした。

 金属が擦れる音。工具が整理される音。それ自体は珍しくない。フィーネは夜遅くまで作業していることが多い。だが今夜の音は、いつもと質が違った。

 晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、音の方向に目を向けた。

 フィーネが、ヴァルトラウテの移送用固定具を確認していた。

 大型の輸送架台。機体を横たえて運搬するための鉄製の枠組み。それが格納庫の隅から引き出され、フィーネの手によって接合部の点検が行われている。彼女の表情はいつも通り無感情に見えたが、その動作にはどこか硬さがあった。いつもの流れるような手捌きではなく、一つ一つの作業を確認するように、慎重すぎるほど慎重に進めている。

 移送準備。

 その意味を、晃はまだ正確には理解していなかった。だが胸の奥で、何かが冷たく軋んだ。

 「フィーネ」

 声をかけると、フィーネは手を止めずに振り返った。

 「何」

 「その……それ、何してるの」

 「見ての通り。移送用架台の整備点検」

 「移送って……ヴァルトラウテを、どこかに動かすの?」

 フィーネは一瞬だけ手を止めた。それからまた作業に戻り、背を向けたまま言った。

 「上からの指示。詳細は私には知らされていない」

 嘘ではないのだろう。技師に伝えられるのは技術的な作業指示であり、その背景にある政治的意図まで共有されることは稀だ。だがフィーネの声には、いつもの無愛想とは異なる何かが混じっていた。

 晃はスマートフォンをポケットにしまい、膝を抱えたまま、フィーネの背中を見つめた。

 何かが動いている。自分の知らないところで、自分に関わる何かが。

 左鎖骨の下の刻印紋が、微かに熱を持った気がした。

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