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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第三部 銀翼と灰瞳

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第十八章 恋と呼ぶもの

 格納庫の片隅に設えられた作業卓の上には、羊皮紙を綴じた整備記録帳が三冊と、薄い鉄板に蝋を塗った計算板が二枚、そして数日分の調律紋反応記録を転写した細長い巻紙が、端から床に垂れるほどの長さで広げられていた。

 フィーネ・アルヴェスタは、その巻紙の末端を左手の指で押さえたまま、もう片方の手に握った鉛筆の先を特定の数列の上で止めていた。

 鉛筆の先は微かに震えていた。

 計測の誤りではない。三度確認した。調律紋の出力補正式に代入し、既知の変動因子をすべて排除してもなお残る変数。それが、整備記録帳の最新頁に並ぶ数値の列を、フィーネの知る理論体系のどこにも収まらない形で歪めていた。

 格納庫の天井は高い。ヴァルトラウテの全高十二メートルを収容するために設計された空間は、夜になると天窓から差し込む二つの月の光だけが、油染みた石の床に淡い銀と赤銅の影を落とす。作業卓に据えられたランタンの焔が、風もないのに揺れた。フィーネは一瞬だけ視線を上げ、闇の奥に佇むヴァルトラウテの輪郭を確かめた。機体は沈黙している。センサーアイの光は消えており、装甲の隙間から覗く古代の回路は休眠状態を示す暗い灰色だった。

 それなのに。

 左手首の内側にある調律紋が、ほんの微かに、温かかった。

 今日、御影晃は格納庫にいない。訓練後の医療検査のため医務施設に移動しており、少なくとも棟一つ分の距離がある。機体に搭乗していない。神経接続は切断されている。にもかかわらず、調律紋の反応曲線は、操縦者が至近距離にいるときの微弱な変動パターンを示していた。

 フィーネは鉛筆を置いた。指先で自分の左手首を押さえ、調律紋の温度を確かめた。祖母の手記にも、父コンラートの口伝にも、この現象に該当する記述は存在しない。調律紋は機鋼騎兵の駆動核と共鳴するための生体印であり、機体を介さずに特定の個人に反応する理由がない。理論上、あり得ない。

 だが事実として、数値はそこにある。

「……説明がつかない」

 声に出すと、その言葉はランタンの焔に吸い込まれるように格納庫の暗がりへ消えた。フィーネは眉根を寄せ、巻紙の端を巻き戻し、整備記録帳を閉じた。自分一人の知識では解決できない。かといって、この現象を誰に報告すべきか。技術的に正確な助言をくれる相手は限られている。父は昏睡したままだ。アルヴェスタの一族で、技師として現役なのは自分だけだ。

 残るのは、技師ではないが、事実を事実として聴ける人間。

 フィーネは作業卓の上の記録類を一纏めにし、格納庫を出た。


 副官執務室の扉は、いつでも薄く開いている。レーナ・フォン・ベルツが「閉じた扉は報告を遅らせる」という理由で命じた慣習だった。

 フィーネが扉の隙間に指をかけたとき、中からインクの匂いと、紙を繰る乾いた音が漏れていた。深夜にもかかわらず、レーナは机に向かっていた。整備計画書と補給申請書の束を前に、赤ペンを右手に挟んだまま、左手で別の書類を確認している。軍服の襟元は二つ目のボタンまで開かれ、左袖に施された百合の刺繍が、卓上灯の黄色い光を受けて微かに浮き上がっていた。赤い百合。血縁者の喪失を示すその意匠を、フィーネは直視するたびに胸の奥が冷たく軋むのを感じる。

「副官」

「入れ」

 許可は即座だった。フィーネは扉を押し開け、作業卓から持ち出した巻紙と整備記録帳を腕に抱えたまま、執務机の前に立った。レーナは赤ペンを止めず、視線を書類に落としたまま待ちの姿勢を取っている。

「ヴァルトラウテの整備データに、説明のつかない変数がある」

 フィーネは巻紙を机の端に広げた。数列の一部に鉛筆で丸印をつけた箇所を指で示す。

「調律紋の反応パターンが、操縦者の搭乗時と非搭乗時で異なる。搭乗時に精度が上がること自体は神経接続の同期効果で説明がつく。だが、問題はここだ」

 指先が、非搭乗時の反応曲線に描かれた微細な波形を辿った。

「非搭乗時でも、操縦者が近くにいると、調律紋が反応する。機体を介していない。神経接続も切断されている。同期効果では説明がつかない」

 レーナの赤ペンが、ようやく止まった。

 フィーネは巻紙の端を押さえたまま続けた。声は平坦に整えていたが、最後の一文だけが、僅かに音程を外した。

「調律紋は機体に反応するものだ。それが機体を介さず、特定の人間の近接によって反応している。整備理論のどの項目にも該当しない」

 沈黙があった。

 レーナが整備計画書から顔を上げた。翡翠色の目がフィーネを捉えた。その視線は、戦場で敵陣の布陣を一望するときの副官のそれだった。事実を精査し、状況を判定し、結論を出す。迷いのない一直線の知性。

 そしてレーナは言った。

「それは恋と呼ぶものではないのか」

 格納庫の天井が崩落したのかと、フィーネは一瞬思った。

 実際には何も崩れていない。執務室は静かだった。卓上灯の焔が揺れることすらなかった。だがフィーネの思考は完全に停止し、巻紙を押さえていた指先が石のように硬直した。

「何?」

 声は出た。だがその一語を発するまでに、明らかに数秒の空白があった。フィーネは自分の反応速度が、調律作業中に未知の故障コードに遭遇したときの凍結状態と酷似していることに、半ば他人事のように気づいていた。

 レーナは赤ペンを指の間で回し、フィーネの動揺を観察するでもなく、ただ事実を述べる口調で続けた。

「調律紋は機体に反応するものだ。お前自身がそう言った。それが特定の人間に反応しているなら、原因は機体側にはない。お前自身の生体反応だ」

 赤ペンの先が、整備計画書の一行に修正の線を引いた。まるで誤記を訂正するのと同じ手つきで。

「特定の個人への感情的反応が、調律紋の出力に干渉している。お前は晃に好意を持っている」

 好意。

 その単語がフィーネの頭蓋の内側で反響した。アルヴェスタの一族が代々受け継いできた調律の技術体系のどこにも、「好意」という変数は存在しない。調律紋は機体の駆動核と共鳴する。機体の状態を読み、修正し、最適化する。それだけの器官だ。それだけの、はずだった。

「技師として不適切な状態変化だ」

 フィーネは反射的にそう言い返した。声は硬く、拒絶の形をしていた。それは否定ではなく困惑だった。自分でもわかっていた。だが、認めるわけにはいかなかった。調律紋の反応が個人の感情に左右されるなら、整備の精度に影響が出る。機体の信頼性が損なわれる。操縦者の生命を預かる技師が、操縦者個人への感情で判断を歪めるなど、あってはならないことだ。

 レーナは整備計画書の別の行に赤ペンを走らせた。数値の修正。補給物資の数量訂正。その作業を続けながら、感情を排した声で言った。

「まず事実を認識しろ」

 赤ペンが句読点のように紙面を叩いた。

「お前は自分の感情に対して、自分が整備する機体ほどの観察力すら向けていない」

 その言葉は、フィーネの胸骨を正確に打った。

 観察力。フィーネ・アルヴェスタが技師として最も誇りに思い、最も研ぎ澄ませてきた能力。装甲の振動の微差を聴き分け、駆動核の出力曲線の千分の一の揺らぎを検出し、機体の状態を触覚と聴覚と数値の三重照合で把握する。それがフィーネの全てだった。

 だがレーナは言った。自分自身の内側に生じた変数に対して、お前はその目を使っていない、と。

 フィーネは口を開きかけ、閉じた。反論の言葉が見つからなかった。見つからないこと自体が、レーナの指摘の正しさを証明していた。

 巻紙の上の数列が、ランタンの光の中でぼやけた。フィーネは自分の目が潤んでいるのではないことを確認するために瞬きをした。潤んではいなかった。ただ、焦点が合わなかった。数値ではなく、数値の向こうにある何かを見ようとして、どこに視線を置けばいいのか分からなくなっていた。

 御影晃。

 あの異邦人は、初めて搭乗したとき、降機後にヴァルトラウテに向かって「乱暴にしたかもしれない」と謝った。鋼の器に、言葉で詫びた。フィーネが十六年間で出会ったどの操縦者もしなかったことを、あの少年はした。

 眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる癖。怖いときほど早口になる独り言。壊れた眼鏡を祖父譲りの手つきで直したときの、不器用だが確かな指先。格納庫の隅でヴァルトラウテの装甲に手を当てて「お前も何か言いたいことあるのか」と話しかけた、あの声。

 その一つ一つが、フィーネの調律紋に記録されていたのだとしたら。

 機体の状態ではなく。機体の傍にいる、あの人間の存在を。

 レーナが赤ペンを置いた。

 その動作が、格納庫のランタンの焔よりも静かに、フィーネの意識を引き戻した。レーナは整備計画書の修正を終えたらしく、頁を閉じて背もたれに体を預けた。左袖の赤い百合が、腕を組む動作で一瞬だけ布地の陰に隠れ、また現れた。

「別に悪いことではない」

 レーナの声は低く、淡々としていた。だがその最後の一語だけが、ほんの僅かに、吐息に似た柔らかさを帯びていた。

「感情は」

 フィーネはレーナの横顔を見た。副官の翡翠色の目は、もう書類にも巻紙にもフィーネにも向いていなかった。執務室の壁に掛けられた前線地図を見ているようで、実際にはもっと遠い場所を見ていた。鉄煙峡の煙の向こうか。前線の整備工廠で最後に姉エルゼと交わした言葉か。あるいは、かつて自分も機体に乗っていた頃に、誰かに向けていたかもしれない何かか。

 フィーネには確かめる術がなかった。だが、レーナがあの一言を付け加えたことの重さは理解できた。悪いことではない、と。感情は。それはレーナ自身が、多くのものを失った後になお手放していない何かの、ごく小さな断片だった。

「……副官」

「何だ」

「報告は以上だ」

 フィーネは巻紙を巻き直し、整備記録帳を抱え直した。指先はもう震えていなかった。代わりに、左手首の調律紋が以前より明確に温かかった。その温度の意味を、今度は逃げずに計測しなければならない。

 扉に向かいかけたフィーネの背中に、レーナの声が追いかけてきた。

「整備データの異常値は、記録として残せ。消すな」

 フィーネは振り返らなかった。ただ小さく頷いた。

「分かっている」

 格納庫に戻る廊下は暗かった。石壁の隙間から夜風が吹き込み、フィーネの作業着の裾を揺らした。遠くで歩哨の交代を告げる鐘が鳴っている。

 フィーネは歩きながら、左手首の調律紋に右手の指先を添えた。温かい。機体の駆動核が発する熱とは明らかに質の異なる温度。それは計測し、数値に変換し、既知の理論に照合すべき対象だった。技師としてはそうだ。

 だがレーナは言った。まず事実を認識しろ、と。

 事実。

 御影晃が近くにいると、調律紋が反応する。御影晃が格納庫で眼鏡を押し上げる仕草をすると、フィーネの胸の内側で何かが軋む。御影晃が機体に謝罪の言葉を述べたとき、フィーネは初めてあの少年を「継承者」ではなく一人の人間として見た。

 恋と呼ぶもの。

 レーナの言葉が、鉛筆で記した数列よりも鮮明に、フィーネの記憶に刻まれていた。

 格納庫の扉を開けると、闇の中にヴァルトラウテの巨体が静かに佇んでいた。センサーアイは消えたままだ。だが作業卓に戻り、ランタンの火を灯し直したとき、フィーネの調律紋が一瞬だけ淡く光った。

 機体への反応ではない。

 この格納庫で、あの少年が座っていた場所。装甲に手を当てて話しかけていた、あの位置。その残り香のような何かに、フィーネの紋が応えたのだ。

 フィーネは整備記録帳を開いた。新しい頁に、日付と時刻を記入した。そして、技師としての生涯で初めて、整備記録の欄外に技術用語ではない一語を書き添えた。

 その文字が何であったかは、フィーネ自身の記憶だけが知っている。ランタンの焔が一度だけ大きく揺れ、格納庫の天井の闇を一瞬照らし出して、また静まった。

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