第十七章 鋼佐の傷
その日の訓練は、白兵戦を想定した近接機動の反復だった。
格納庫に隣接する訓練場の広大な空間に、ヴァルトラウテの巨躯が立ち尽くしている。晃はコックピットの中で神経接続の微弱な電流を全身に感じながら、フィーネが外部通信越しに読み上げる数値と、レーナが地上指揮台から発する簡潔な指示の間に、自分の身体を滑り込ませるようにして操縦桿を握っていた。
左旋回、制動、右腕の展開。単純な動作の連なりだが、十二メートルの鋼の巨人にとって「単純」という言葉は意味を持たない。わずかな入力の遅延が慣性となって機体を揺らし、関節部のトルクが晃の神経を逆流して肩甲骨の裏側に鈍い痛みを残す。
「左肩の出力配分が偏っている。三対七ではなく四対六。修正しろ」
レーナの声は訓練場の鉄骨に反響して、いつもより硬く聞こえた。晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ——ずれてもいないのに——操縦桿のグリップを握り直した。
「四対六、了解……いや待って、これ右手側の反応が遅れてるのは出力じゃなくて、接続のラグが——」
「言い訳は後。まず動け」
遮られた。いつものことだ。レーナ・フォン・ベルツという人間は、訓練において一切の弁解を受け付けない。晃はそれを理不尽だと思わなくなっている自分に少しだけ驚きながら、指示通りに機体を動かした。
左旋回。制動。右腕の展開。
三度目の反復で、ようやく数値がレーナの要求する範囲に収まった。コックピット内に微かな高周波音が走り、ヴァルトラウテの駆動音が一瞬だけ滑らかになる。フィーネが「許容範囲」と短く告げた。
「降りろ。十分間の休息を取る」
レーナの指示に従い、晃はコックピットハッチを開いて外気に触れた。鉄と油と、僅かに砂塵の混じった乾いた風が汗ばんだ首筋を撫でる。昇降用のワイヤーに掴まりながら地上へ降りると、訓練場の片隅に設えられた粗末な木製ベンチにレーナが立っているのが見えた。
革手袋を外し、水筒の蓋を片手で開けようとしている。
晃はそちらへ歩きながら、何気なくその手元に視線を落とした。
息が止まった。
レーナの左手。手袋を外したその甲から指の付け根にかけて、皮膚がひきつれたように変色していた。赤黒く、光沢を失った火傷の痕。滑らかだったはずの肌が不規則に波打ち、関節の溝に沿って白い瘢痕が走っている。火傷痕は手首の内側にまで伸びており、袖口の下にはさらにその続きがあることを無言で告げていた。
見てはいけないものを見た。
その直感が身体を硬直させるより先に、レーナの視線が晃を捉えた。
一瞬。それだけで十分だった。レーナは何も言わず、しかし明らかに表情から温度が消えた。凍りついたのではない。最初からそこに温度など存在しなかったかのように、感情の一切が引き潮のように退いていった。革手袋を左手に戻す動作は流れるように滑らかで、それが逆に、この動作を何百回と繰り返してきたことを物語っていた。
「……すみません」
晃の声が掠れた。謝罪の言葉が口をついたが、何に対して謝っているのか、自分でも正確には分からなかった。見たことか。見てしまった事実を隠せなかったことか。あるいは、レーナの左袖に縫い取られた赤い百合の刺繍と、今見た火傷の痕を無意識に結びつけようとしている自分の思考そのものに対してか。
レーナは水筒の蓋を閉め、ベンチの端に腰を下ろした。晃を見なかった。
訓練場に沈黙が降りた。ヴァルトラウテの冷却機構が低い唸りを上げている。遠くで整備兵たちが工具を打ち合わせる音が、不規則なリズムで響いていた。
晃はベンチの反対側に座ることもできず、かといって立ち去ることもできず、中途半端な距離で立ち尽くしていた。
三年前のことだった。
レーナ・フォン・ベルツはかつて、機鋼騎兵の操縦者だった。
搭乗機の名はグリューネ・ゼーレ——「翠の魂」。中型の偵察・強襲両用機で、レーナの高い空間把握能力と判断速度に最適化された機体だった。刻印紋適合率は上位とは言えなかったが、レーナは技術と戦術判断でそれを補い、鉄槌旅団の中でも有数の戦果を挙げていた。
そして三年前、聖皇国と隣国連合の戦線が最も激しく動いた「鉄煙峡の戦い」。
レーナにとって最後の出撃だった。
鉄煙峡——赤錆色の断崖が左右から迫る狭隘な峡谷に、隣国連合の機鋼騎兵部隊が殺到した。レーナのグリューネ・ゼーレは前衛として突出し、敵機二体を撃破した直後に伏兵の砲撃を受けた。装甲の上半分が吹き飛び、コックピットの隔壁が圧壊した。破片が顔面を抉り、溶融した配線が左手を焼いた。
だが本当の地獄はそこではなかった。
コックピットの損壊によって神経接続の安全機構が崩壊し、機体からの情報が制御を失って操縦者の神経系に逆流した。グリューネ・ゼーレの「痛み」——装甲の破壊、駆動系の断裂、動力炉の悲鳴——そのすべてが、レーナの神経を通じて脳に直接注ぎ込まれた。機体が受けた損傷のすべてを、人間の肉体が「自分の痛み」として受信する。レーナは絶叫しながらも接続を切れなかった。安全機構が死んでいたからだ。
救出されたとき、レーナの左手は焼けただれ、顔の左頬から顎にかけて装甲片による裂傷が走り、意識は混濁していた。
そしてその戦闘で、もう一つの報せが届いた。
姉エルゼ・フォン・ベルツの戦死。
エルゼは操縦者ではなかった。後方支援の兵站管理官だった。だが鉄煙峡の戦いにおいて、レーナを前線に送り出すための追加弾薬と予備部品を確保するため、通常より前方に位置する前線工廠に配置転換されていた。その工廠が、隣国連合の迂回部隊による奇襲砲撃に巻き込まれた。
レーナが前線に出なければ、エルゼはあの工廠にいなかった。
その因果は、軍の報告書には記載されない。作戦上の判断であり、個人の責任ではない。誰もレーナを責めなかった。誰一人として。
だからこそ、レーナは自分で自分を責めた。
私が乗らなければ、姉は死ななかった。
その一文は三年間、レーナの胸骨の裏側に刻まれた刻印紋のように消えることがなかった。左袖に縫い取った赤い百合の刺繍——血縁者の喪失を示す追悼の紋章——を、レーナは一度も外さなかった。周囲の兵士たちはその意味を知っていたが、あえて触れなかった。触れられないのだ。あの百合に手を伸ばすことは、レーナが三年間かけて構築した氷の殻に罅を入れることと同義だから。
操縦席を降りた。副官として後方指揮に転じた。
それがレーナの選んだ「償い」だった。自分が前に出ることで、また誰かが自分の「代わり」に危険な場所へ送られることがないように。もう二度と、自分の戦いのために誰かが死ぬことがないように。
訓練場の沈黙は、もう何分続いているか分からなかった。
晃は立ったまま、自分の呼吸の音を聞いていた。心臓が速い。怖いのだ。レーナの沈黙が、レーナの凍った横顔が、怖い。聞いてはいけないことがある。踏み込んではいけない場所がある。それは分かっている。分かっているのに。
口が先に動いた。
「なんで操縦席を降りたんですか」
言ってから後悔した。不躾だ。あまりにも不躾だ。自分が言うべき言葉ではない。晃は唇を噛み、取り消そうとした。だがレーナは顔を上げず、晃を見ず、訓練場の向こう側——ヴァルトラウテの巨大な脚部のさらに先、格納庫の鉄扉の隙間から覗く灰色の空を見ていた。
沈黙が続いた。
十秒。二十秒。三十秒。
晃は自分の心臓の音を数えることしかできなかった。四十秒。五十秒。
レーナが口を開いた。
「乗り続ければ、次は誰が死ぬか分からなかったから」
声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落としたのではなく、感情そのものが言葉の形を取ることを拒んでいるような声だった。
「私の、代わりに」
その最後の三語が、晃の胸を打った。
代わり。
その言葉を、晃は知っている。
ダリウス・ヘルムガルドの中に巣食う言葉だ。兄ジークハルトの「代替品」として生きてきた男の、決して口にしない、しかし全身から滲み出ている言葉。人工刻印紋を植え付けられ、自分自身として何かを選んだ経験のないまま鉄槌旅団の団長になった男の、存在の根底に横たわる呪い。
そして——晃自身の言葉でもあった。
俺じゃなくてもよかっただろ。
何度そう思った。何度そう口にした。ヴァルトラウテに乗る資格があるのは自分ではない。刻印紋が反応したのは偶然だ。この世界に呼ばれた理由は自分にはない。もっとふさわしい誰かがいるはずだ。自分は代わりだ。本来いるべき誰かの、間に合わせの代わりだ。
代わり。
三者三様の「代わり」が、晃の中で重なった。
「俺も、思ってます」
声が漏れた。意図して言ったのではない。胸の底から滲み出た液体が、喉を伝って唇からこぼれ落ちただけだ。
「俺じゃなくてもよかったって。いつも。ずっと」
レーナが顔を上げた。
その翡翠色の目が晃を捉えた瞬間、空気が変わった。レーナの目に宿っていた氷の膜が罅割れ、その奥から、晃がこれまで一度も見たことのない色が覗いた。怒りではない。軽蔑でもない。もっと深く、もっと切実な——自分自身に向けられた刃物のような感情。
「やめろ」
レーナの声が、いつもの冷厳さとは異なっていた。命令でも叱責でもない。切実だった。声の芯が震えていた。氷の副官が、初めて見せる声の温度だった。
「その考え方をやめろ、御影」
晃は息を呑んだ。レーナが立ち上がっていた。革手袋を嵌めた左手を握りしめ、右手はベンチの縁を掴んでいた。指の関節が白くなるほど。
「自分が代わりだと思い続ける限り、自分のために戦えない」
レーナの声が訓練場の鉄骨に反響した。だがその反響は、先ほどの訓練指示とはまるで違う音を持っていた。鋼ではなく、骨に響く音だった。
「自分のために戦えない人間は——いつか大切なものを守れなくなる」
その言葉は、晃に向けられていた。
同時に、レーナ・フォン・ベルツ自身に向けられていた。
晃にはそれが分かった。分かってしまった。レーナがまだ体現できていない理想。自分が操縦席を降りた理由を「誰かの代わりに死なせないため」と定義し続ける限り、レーナ自身もまた「代わり」の論理から抜け出せていないという矛盾。その矛盾を、レーナは知っている。知っていて、それでも晃に言った。自分がまだ辿り着けていない場所を、この少年には示さなければならないと思ったから。
あるいは、晃に言うことで、自分にも言い聞かせようとしたのかもしれない。
訓練場に風が吹いた。鉄粉の混じった乾いた風が、二人の間を通り抜けていった。
晃は何も言えなかった。言葉が見つからなかったのではない。言葉にしてしまえば、今この瞬間にレーナが見せたものが壊れてしまう気がしたのだ。だから黙った。眼鏡のブリッジに手を伸ばしかけて、途中でやめた。
レーナはベンチに腰を下ろし直した。水筒の蓋を開け、一口だけ水を含んだ。
「休息は残り四分だ」
声はもう、いつもの冷厳さを取り戻していた。
だが晃は知っていた。あの数秒間、レーナの声が震えていたことを。あの言葉が、レーナ自身の傷口から絞り出されたものであることを。そしてその傷が、左手の火傷よりもずっと深い場所にあることを。
晃はベンチの反対側の端に、ようやく腰を下ろした。
二人の間には一メートルほどの距離があった。その距離を、晃は詰めなかった。レーナも詰めなかった。
だが同じベンチに座っていた。
同じ風の中に、いた。
ヴァルトラウテが訓練場の中央で沈黙したまま立ち尽くしている。その巨大な影が二人の上に落ち、赤銅色の夕方の光が鋼の輪郭を縁取っていた。
晃はポケットの中で、もう動かないスマートフォンの角に指先を触れた。画面は灯らない。ホーム画面の配置を辿ることもしなかった。代わりに、レーナの言葉を反芻した。
自分のために戦えない人間は、いつか大切なものを守れなくなる。
その意味を、晃はまだ完全には理解できていなかった。
だが胸の奥に、小さな棘のように刺さったまま抜けない感覚があった。それは痛みだったが、不思議と、嫌な痛みではなかった。
「——残り三分」
レーナの声が、訓練の時間へと二人を引き戻す。
晃は立ち上がり、ヴァルトラウテへ向かって歩き出した。背後でレーナが水筒の蓋を閉める音が聞こえた。その音が、なぜか晃の記憶に残った。
革手袋の下の火傷痕も、左袖の赤い百合の刺繍も、晃はもう二度と口にしないだろう。
だがその存在を、忘れることもないだろう。
コックピットへ続く昇降ワイヤーに手をかけたとき、晃は振り返らずに呟いた。
「——訓練、再開します」
それは報告であり、宣言であり、そしておそらく——レーナの言葉に対する、晃にできる唯一の返答だった。




