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灰瞳の継承者——機鋼のヴァルトラウテ——  作者: 試作ノ山
第三部 銀翼と灰瞳

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第十五章 灰色の手紙

 目を開けたとき、最初に見えたのは石天井の染みだった。

 医務室の寝台に横たわったまま、晃はしばらくその染みの形を目で追った。地図に似ている、と思った。どこの地図でもない、誰も知らない土地の輪郭。この世界に来てから、天井の染みにすら意味を探そうとする自分がいる。

 身体を起こすと、左腕の包帯が視界に入った。鈍い痛みが肘から指先にかけて残っている。だが動かせる。握れる。それだけで十分だった。

 窓の外では、アイゼンヴァッヘの朝が始まっていた。石畳を踏む軍靴の音、格納庫の方角から響く金属を叩く律動的な打音。戦時下の城塞都市は、傷ついても止まらない。止まることを許されない。

 晃は寝台の縁に腰かけ、両手を膝の上に置いた。

 帰りたい。

 その感情は消えていなかった。胸の奥に沈殿した澱のように、揺らせば必ず浮き上がってくる。母の寝顔。団地の階段。通学路の地下通路。動かないスマートフォン。朝の匂い。

 けれど、その澱の上に、もう一つ別の何かが薄く積もり始めていた。

 ここにいる間に、できること。

 言葉にするとひどく曖昧で、輪郭を持たない。だが確かにそこにある。昨日まではなかった重さが、両足の裏に感じられる。立ち上がれる重さだった。

 晃は眼鏡を手に取った。右レンズのヒビは相変わらずだが、フィーネに借りた精密工具で直したフレームの歪みはもう気にならない。鼻にかけ、ブリッジを人差し指で押し上げる。ずれてはいない。それでも指は勝手に動く。

 訓練を再開しよう、と思った。

 怖くなくなったわけではない。恐怖はいつだってそこにいる。ただ、恐怖の隣に立てるようになった。それだけのことだ。


 格納庫は朝の光を受けて鉄錆色に染まっていた。

 天窓から差し込む陽光が、ヴァルトラウテの装甲を斜めに照らしている。修復作業を経た機体は、以前より幾分か姿勢が正されていた。膝をつく姿勢は変わらないが、頭部の傾きがわずかに持ち上がり、まるで何かを待っているようにも見える。

 晃は格納庫の入口で立ち止まり、その巨躯を見上げた。十二メートル。何度見ても圧倒される。だが最初に感じた異質な恐怖は薄れ、代わりに妙な馴染みが生まれている。

 お前も待っていたのか、と心の中で呟いた。

 格納庫の奥、整備台の前にフィーネの姿があった。

 いつものように作業着の袖を肘まで捲り上げ、解析端末——古代文明の遺物を改修した金属板状の装置——に向かっている。指先が端末の表面を滑るたびに、淡い光の文字列が空中に浮かび上がっては消える。その横顔は、相変わらず年齢に不釣り合いなほど険しい。

 晃の足音に気づいたフィーネは、端末から目を上げた。

「起きたのか」

「うん。訓練、再開できるって医務官に言われた」

「そうか」

 それだけ言って、フィーネは視線を端末に戻した。だが、すぐにまた顔を上げる。その動作には、何かを伝えようとする逡巡が滲んでいた。

「……報告がある」

 声の温度が変わったことに、晃は気づいた。技師としての声。事実を伝えるための、感情を排した声。だがその声はどこか微かに硬い。乾いた石を擦り合わせたような、かすかな軋みを含んでいた。

「ヴァルトラウテの深層データを解析していた。核機関の下層記録域に、暗号化された古代のデータ群がある。これまで読み出し不能だったが、お前の神経接続ログがデコードの鍵になった」

 フィーネは端末を操作し、空中に複雑な幾何学紋様を投影した。晃の目には、それがゲームの暗号パズルのように映る。規則性がある。繰り返しのパターン。だがその意味は読み取れない。

「この記録の中に、門——ゲートに関する記述が含まれている」

 晃の呼吸が止まった。

「門って……」

「次元接続。お前がこの世界に来たときに通ったものと、おそらく同じ原理の技術だ。核機関の内部に、次元接続機能が存在する可能性がある」

 フィーネの指が紋様の一部を拡大した。光の線が震えるように揺れ、そこに古代文字が浮かぶ。

「つまり——お前を元の世界に帰す手がかりが、ヴァルトラウテそのものの中にある、ということだ」

 音が消えた。

 格納庫の打音も、風の唸りも、すべてが遠のいた。晃の意識の中心を、たったひとつの言葉が占拠する。

 帰れるかもしれない。

 胸の奥の澱が一斉に舞い上がった。母の顔。祖父の工具箱。自分の部屋の棚に飾られた、父が最後に買ってくれたプラモデル。動かないスマートフォンの、あのホーム画面。

「本当に……帰れる可能性があるのか」

 声が震えた。隠しようがなかった。唇が勝手に持ち上がり、目の奥が熱くなる。嬉しい。嬉しいと思ってしまう。この世界で出会った人たちへの罪悪感が同時に押し寄せるのに、それでも喜びが先に立つ。

 晃が嬉しそうに反応した、その瞬間だった。

 フィーネの表情が曇った。

 ほんの一瞬。瞬きひとつ分にも満たない時間。琥珀色の瞳に走った翳りは、暗号化されたデータよりもなお読み取りがたく、そしてすぐに消えた。元の無表情が、精密機械の蓋のように閉じる。

「解析には時間がかかる。暗号の多層構造を解除するだけでも数十工程が必要だ。当面は現在の任務に集中しろ」

 声は平坦だった。技師としての声。だが晃は、その平坦さの中にあるわずかな揺らぎを——聞き取れなかった。

 フィーネにとって、帰還の可能性は別の意味を持っていた。

 この操縦者がいなくなる可能性。

 ヴァルトラウテを起動できる唯一の適合者が、この世界から消える可能性。それは機体を預かる技師にとって——いや、それだけではない。理由はそれだけではないと、フィーネ自身がうっすらと気づいていた。だからこそ、蓋を閉じるしかなかった。

「……わかった。ありがとう、フィーネ」

 晃が礼を言ったとき、フィーネは既に端末に目を戻していた。指先が光の文字列をなぞる動きだけが、わずかに速くなっている。


 その夜、晃は兵舎の自室に戻った。

 窓から見える夜空には、銀白のゼルダと赤銅のカルマが間隔を置いて浮かんでいる。二つの月が照らす荒野は、青と赤の境界がぼやけた不思議な色合いに染まっていた。何度見ても慣れない光景だった。何度見ても、美しいと思ってしまう光景だった。

 晃はポケットからスマートフォンを取り出した。

 画面は真っ暗だ。電源はとうに切れている。充電する手段はない。この世界にコンセントはない。

 それでも、晃は画面を指でなぞった。

 ホーム画面の配置は覚えている。左上に天気予報アプリ。その隣にカレンダー。二段目の中央に「GRID:VANGUARD」のアイコン。右下にカメラ。そしてロック画面の壁紙は——母が撮った、祖父の家の縁側の写真。

 存在しないアプリを指先がタップする。反応はない。当然だ。

 母は今、何をしているだろう。

 夜勤から帰って、あのソファで眠っているだろうか。それとも、帰ってこない息子を探しているだろうか。警察に届けただろうか。祖父は、あの無口な顔でどんな思いをしているだろうか。

 行ってきます。

 あの朝、言えなかった言葉が胸を刺した。何度も。何度でも。錆びた釘のように、同じ場所を繰り返し。

 言えなかったのは、母を起こしたくなかったからだ。夜勤明けでようやく眠れた母の顔が、あまりにも疲れていたから。だから声をかけずに玄関を出た。いつものことだった。いつもそうしていた。

 でも、あの日に限って、それが最後になった。

 晃はスマートフォンの画面を胸に押し当てた。冷たいガラスの感触が、薄い生地越しに肌に伝わる。

 帰れるかもしれない。フィーネがそう言った。ヴァルトラウテの核機関に、門を開く技術が眠っている。

 だから今は、ここにいる間にできることをやる。それが帰るための道にも繋がるなら。

 晃はスマートフォンをポケットに戻し、目を閉じた。


 同じ夜。

 鉄槌旅団の将校棟、セリオン・クラウディスに与えられた部屋は、その主と同じように無駄のない空間だった。

 寝台、机、椅子。壁に掛けられた剣帯。窓辺に置かれた水差し。それ以外には何もない。私物らしい私物が存在しない部屋だった。

 机の上に、封書が一つ置かれている。

 辺境伯領からの定期連絡便に紛れて届いたそれは、蝋封が不器用に押されていた。印章の押し方が歪んでいるのは、まだ手が小さいからだ。差出人の名前は子供らしい筆跡で丁寧に書かれている。リュシアン・クラウディス。十三歳の弟。

 セリオンは封を切り、中の便箋を広げた。

 文字は几帳面だが、ところどころ筆圧にむらがある。興奮すると力が入る癖は昔から変わらない。


 ——兄さまへ。お元気ですか。

 ——兄さまの戦いのこと、みんなが話しています。すごいと言っています。辺境は平和です。冬麦の種を蒔きました。母上が、今年は収穫が良いだろうとおっしゃっていました。

 ——早く帰ってきてください。

 ——リュシアンより。


 短い手紙だった。

 セリオンは最後の一行を二度読んだ。

 早く帰ってきてください。

 帰る。辺境に。あの広い屋敷の、風が吹き抜ける回廊に。弟がいて、母がいて、そして自分は——何者として帰るのか。

 刻印眼を持つ兵器として育てられた自分が、冬麦の種を蒔く弟の隣に立つ姿を、セリオンは想像できなかった。母がかつて言った言葉を思い出す。「強くなくていい」と。あの言葉を受け取れなかった自分は、今も受け取れないままだ。

 セリオンは便箋を丁寧に畳んだ。折り目を正確に合わせ、元の封筒に戻す。そしてそれを机の引き出しに収めた。

 引き出しの中には、同じ大きさの封書がいくつも重なっていた。すべてリュシアンからのものだ。すべて読まれ、すべて丁寧に畳まれ、そして一通も返事が書かれていない。

 セリオンは引き出しを閉じた。

 便箋を入れるための手が、一瞬だけ止まったことに、本人は気づいていない。


 廊下の足音は、意識して消していたわけではなかった。

 晃は将校棟を通りかかっただけだった。自室に戻る最短経路がここを通るからで、それ以上の意味はない。

 だが、わずかに開いた扉の隙間から、セリオンの横顔が見えた。

 机に向かい、何かを畳んでいる。手紙だった。紙を折る指は正確で、迷いがない。だがその横顔には——迷いがあった。

 金色の瞳が伏せられている。あの瞳はいつも、戦場では鋭利な刃物のように光る。敵を斬るための瞳だ。だが今は違う。今は、何かを飲み込もうとしている顔だった。届いた言葉を受け入れられず、かといって拒むこともできず、ただ畳んでしまうことしかできない顔。

 晃は足を止めかけた。

 声をかけようかと思った。何と言うのか。何を言えるのか。自分にその資格があるのか。

 分からなかった。だから、通り過ぎた。

 足音を殺すつもりはなかったが、自然とそうなった。セリオンは気づかなかっただろう。気づいたとしても、何も言わなかっただろう。

 廊下を歩きながら、晃は思った。

 あの顔、俺と同じだ。

 届かない言葉を抱えている顔。伝えたいのに伝えられない。返したいのに返せない。理由は違う。状況も違う。でも、あの横顔に浮かんでいた翳りは、晃が毎晩スマートフォンの暗い画面を指でなぞるときの自分と、同じ形をしていた。

 晃はポケットの中でスマートフォンに触れた。

 冷たいガラスの表面を、親指の腹がなぞる。返せないメッセージ。Specterからの「明日も対戦しよう」。母への「行ってきます」。祖父に電話をかけるはずだった週末。全部、返せないまま止まっている。

 セリオンの引き出しに重なった手紙と、自分のポケットの中の沈黙した端末は、きっと同じ重さだ。

 廊下の窓から、二つの月の光が差し込んでいた。銀と赤銅が混じり合う、灰色がかった光。手紙の文字を照らすには十分で、返事を書くには足りない、そんな光だった。

 晃は立ち止まらなかった。

 歩き続けた。自室に向かって。明日の訓練に備えて。ここにいる間にできることをするために。

 帰りたいという気持ちと、ここにいる意味を探す気持ち。その二つが矛盾しないことを、晃はまだ言葉にできない。だが足は前に出る。それだけが、今の晃にできる唯一の返事だった。

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