第十四章 名前を呼ぶ
痛みは、波のようにやってくる。
引いたと思った瞬間にまた押し寄せ、左手の指先から肘、肩、そして脊髄の奥へと電流のように駆け抜けていく。鉄煙峡の戦いから三日が経っていた。アイゼンヴァッヘの軍医務室、石壁に囲まれた簡素な病室の寝台に横たわりながら、御影晃は天井の染みを数えていた。
三十七。いや、三十八か。右端の染みが一つなのか二つなのか、右レンズにヒビの入った眼鏡越しでは判然としない。
左手が痺れる。指を握ろうとすると、関節の一つひとつが錆びた歯車のように軋む。軍医は「神経接続の過負荷による一時的な伝達障害」と説明した。一時的。その言葉にどれほどの確度があるのか、晃には分からない。ヴァルトラウテとの神経接続を限界まで押し広げたあの瞬間——自分の意識が機体の隅々にまで溶け出し、鋼の四肢が自分の身体そのものになったあの感覚の代償が、この左手に凝縮されている。
握れない指を見つめるたび、あの戦場の残響が耳の奥で鳴った。金属が裂ける音。通信越しの悲鳴。喰鋼蟲の群体が装甲を侵食する、あの鳥肌の立つような咀嚼音。
そして——自分がヴァルトラウテの手で敵を叩き潰した、あの衝撃。
左手を天井にかざす。震えている。痺れのせいか、恐怖の残滓のせいか、もはや区別がつかなかった。
「……無理だって、こんなの」
誰に言うでもなく呟いた声が、石壁に吸い込まれて消えた。
最初の訪問者は、レーナ・フォン・ベルツだった。
規則正しい靴音が廊下を近づいてきた時点で、晃にはそれが誰か分かった。アイゼンヴァッヘの兵士は皆、軍靴で石畳を踏む。だがレーナの足音だけは、一歩ごとに正確な間隔を刻む。メトロノームのように寸分の揺らぎもない。それが彼女の矜持であり、彼女の鎧なのだと晃はいつしか理解していた。
扉が三度叩かれ、返事を待たずに開く。それもまた、いつも通りだった。
「起きているな」
レーナは革製の書類挟みを小脇に抱え、寝台の脇に置かれた木椅子に腰を下ろした。左頬から顎にかけて走る古傷を隠すそぶりはない。左袖に縫い付けられた赤い百合の刺繍が、窓からの光を受けてかすかに揺れた。その意味を晃はまだ正確には知らない。だが、あの刺繍に触れてはならないということだけは、肌で感じ取っていた。
「訓練計画の修正案を持ってきた。お前の回復状況に合わせて再編成する」
書類挟みから数枚の紙を取り出し、寝台の上に広げる。几帳面な筆跡で綴られた訓練項目、時間配分、段階的な負荷の上げ方。レーナは事務的に内容を説明しながら、晃の左手にちらりと視線を落とした。ほんの一瞬だったが、晃はそれを見逃さなかった。
「レーナさん」
「副官と呼べ」
「……副官。あの、作戦のこと。俺が囮になったのは——」
言いかけた晃の言葉を、レーナは冷厳な声で断ち切った。
「自分を囮にする作戦は二度と許可しない」
その声には、戦場で部隊に指示を飛ばすときと同じ、有無を言わせぬ重さがあった。だがどこかが違う。温度が、ほんのわずかに高い。
「お前が死ねばその分析力ごと失われる。部隊全体の損失だ。個人の献身を美徳と勘違いするな。それは怠慢だ——最善の手を考え抜く労力を放棄しているにすぎない」
晃は口を開きかけ、閉じた。反論の言葉が見つからなかったのではない。レーナの翡翠色の目の奥に、論理で覆い隠された別の感情を見たからだ。
死なせたくない。
その四文字が、レーナの言葉の行間に、行間のさらに奥に、たしかに滲んでいた。左袖の赤い百合が——もう誰かを失った証が——無言のうちにその感情の出処を語っていた。
「……はい。すみません」
「謝るな。次から考えろ」
レーナは書類を整え、立ち上がった。椅子を元の位置に正確に戻し、扉に手をかける。一瞬、背を向けたまま足を止めた。
「……回復を急げ。お前がいないと訓練計画が組めん」
それだけ言い残して、靴音は遠ざかっていった。
二人目の訪問者は、訪問者と呼べるのかどうかすら怪しかった。
昼を過ぎた頃、廊下に足音が近づいてきた。レーナのものとは違う。重く、だが不思議なほど静かな歩調。獣のようだ、と晃は思った。
足音は医務室の扉の前で止まった。
ノックはない。扉が開く気配もない。ただ、扉一枚を隔てた向こう側に、誰かが立っている。その気配だけが、石壁を透かして伝わってくる。
晃は寝台の上で身を起こしかけたが、すぐに直感した。入ってくるつもりはないのだ。あの人は——セリオン・クラウディスは、扉を開けない。
数分が経った。永遠のような数分だった。晃は何も言わなかった。セリオンも何も言わなかった。ただ扉の内と外で、互いの存在を感じていた。それは言葉にすれば薄い事実にすぎないが、セリオンという人間の行動原理を少しだけ知るようになった晃にとっては、途方もなく重い数分間だった。
あの男は、かつて部下が負傷したとき、同じように通路で壁に背を預けて待っていたと誰かが言っていた。見舞いの言葉を知らないのではない。見舞うという行為そのものが、彼の中の何かに抵触するのだ。他者に近づくことは弱さを見せることだと叩き込まれた幼少期の残響が、あの男の足を扉の前で止める。
だから——ここにいること自体が、セリオンなりの見舞いなのだと晃は理解していた。
やがて、別の足音が廊下の向こうから近づいてきた。
「何をしている」
レーナの声だった。遠目から訝しむような声音。
「通りかかっただけだ」
セリオンの返答は素っ気なく、一片の装飾もなかった。だがそこには嘘とも真実ともつかない、あの男特有の不器用さが滲んでいた。
足音が遠ざかる。重く、静かに。獣が踵を返すように。
晃は寝台の上で、小さく息を吐いた。左手の痺れが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
三人目は、フィーネ・アルヴェスタだった。
そして彼女は——最も長く、この部屋にいた。
「修理報告を持ってきた」
フィーネは入室と同時にそう宣言し、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。膝の上に分厚い手帳を開き、インクの染みだらけの指でページを繰る。作業着の袖口には新しい油染みが幾つも点在し、彼女がここに来る直前までヴァルトラウテの修理に没頭していたことを物語っていた。
「左腕部の関節駆動系、八割復旧。ただし肩の回旋機構に微細な歪みが残っている。鉄煙峡で岩壁に叩きつけられた際のものだ。完全な修復には予備部品が必要だが、在庫がない。代替品で近似的な動作は確保できる見込み。精度は元の九十三パーセント」
「あ、うん……」
「次に脚部。右膝の緩衝装置を全交換した。こちらは問題ない。踏み込み時の負荷分散は以前より改善されている。歩行テストは明後日に予定しているが、操縦者の状態次第で延期する」
「わかっ——」
「背部推進器については深刻だ。噴射口の内壁が熱変形を起こしており、出力の上限を六十パーセントに制限せざるを得ない。ただし、第三補助炉の配管を再配置すれば部分的に——」
フィーネの報告は止まらなかった。修理の進捗を延々と、微に入り細に入り語り続ける。数値、素材名、工程の順序、代替案とその利点と欠点。その声は淡々としているようでいて、どこか必死だった。まるで報告という形式を借りなければ、この部屋にいる口実がないかのように。
晃は最初こそ相槌を打っていたが、やがて石壁に反響するフィーネの声が子守唄のように変わっていくのを感じた。抗いがたい眠気が、痺れの波間に滑り込んでくる。左手の痛みが遠のく。フィーネの声だけが、均質な振動として鼓膜を揺らし続ける。
三十分が過ぎていた。
「——排熱効率の再計算は完了している。あとは実測値との照合で、これについては明日の午前中に——」
フィーネが手帳から顔を上げると、晃の瞼は半ば閉じかけていた。眼鏡が鼻の上でわずかにずれ、呼吸はゆっくりと深くなっている。
「……寝たのか」
小さく呟き、フィーネは手帳を閉じた。立ち上がり、椅子を引こうとした。その脚が石の床を擦る微かな音が、眠りの淵にいた晃の意識をわずかに揺らした。
「——フィーネ」
自然だった。
あまりに自然すぎた。
寝ぼけた声が紡いだのは、姓でも役職名でもなく、彼女のファーストネームだった。この世界で、姓ではなく名で呼ぶことが何を意味するか——深い信頼と親愛の表明であることを、晃は知識としては知っていたはずだ。だが意識の境界が曖昧になった瞬間、そんな知識は剥がれ落ち、ただ「呼びたい名前」だけが唇からこぼれた。
フィーネの動きが止まった。
凍りついた、という表現が最も近い。椅子の背に手をかけたまま、指先が白くなるほど力が込められている。
「今、なんと言った」
声が低い。整備報告のときの淡々とした声ではなく、喉の奥に何かが詰まったような、震えを押し殺した声だった。
だが返答はなかった。晃は既に眠りの底に落ちていた。穏やかな寝息だけが、石壁の部屋に静かに満ちる。
フィーネは数秒間、微動だにしなかった。やがて自分の胸に手を当てた。心臓が、普段とは明らかに異なる速度で脈打っている。
「……何だ、これは」
呟きながら、技師の頭脳が反射的に分析を始める。心拍数の上昇。末梢血管の拡張による頬の温度変化。これは——機体との神経接続時に操縦者が示す共感性反応に類似している。だが、ヴァルトラウテは格納庫にいる。神経接続は行われていない。
「機体との接続時に類似した反応だが、機体は近くにない。これは何だ」
自問は精密だった。だが答えは出なかった。アルヴェスタ家の調律技術の体系にも、軍学院の教科書にも、この現象を説明する記述はない。フィーネ・アルヴェスタという人間が十六年の人生で蓄積したあらゆるデータベースを検索しても、この胸の内側で起きていることに該当する項目は見つからなかった。
晃の寝顔を見下ろす。ヒビの入った眼鏡。色素の薄い灰がかった黒髪が枕に散らばっている。この世界のどこにも属さない、場違いなほど普通の少年の顔。
フィーネは無言で毛布の端を引き上げ、晃の肩にかけた。そして逃げるように医務室を出た。
扉を閉める指先が、まだ震えていた。
深夜。
月明かりが窓格子を通して床に縞模様を描いていた。銀白のゼルダと赤銅のカルマ、二つの月が同時に空にある夜だった。
足音は、ほとんど聞こえなかった。
ダリウス・ヘルムガルドは、音を立てない歩き方を知っている。戦場で培われた習性ではない。幼い頃から、兄の病室を訪れるたびに身につけた作法だった。眠る者を起こさぬように。壊れかけた静寂を守るように。
医務室の扉を音もなく開ける。右腕は包帯に覆われている——鉄煙峡の戦いで受けた負傷はまだ癒えていない。だがその痛みを顔に出す男ではなかった。
晃は眠っていた。
月光が寝台を斜めに照らし、少年の横顔を浮かび上がらせている。眉間の力が抜け、戦場での張り詰めた表情が嘘のように穏やかだ。年相応の——いや、この世界に来る前の、ただの高校一年生の顔がそこにあった。
ダリウスは枕元の台に水差しを置いた。目覚めたとき、手を伸ばせばすぐに届く位置。水はぬるい。冷たすぎず、温すぎず、起き抜けの喉に染みる程度の温度に調整されている。
そのまま、しばらく立ち尽くした。
月光の中に浮かぶ少年の寝顔が、別の誰かと重なる。十九年前、同じように白い寝台に横たわり、二度と目を開かなくなった兄。ジークハルト・ヘルムガルド。ヘルムガルド家の至宝と呼ばれ、十二歳で過負荷事故を起こし、それきり言葉を交わすことのなくなった兄。
あの日から、ダリウスの世界にはずっと、眠り続ける者がいる。
「お前にまであの顔をさせるわけにはいかない」
声は低く、自分自身に言い聞かせるような響きだった。包帯の巻かれた右手が、無意識に拳を握る。鉄灰色の瞳が、月光の中で鈍く光った。
晃は何も聞いていない。聞いていなくていい。この言葉は誰かに届けるためのものではなく、ダリウス・ヘルムガルドという男が、自分自身の臆病さと向き合うための独白だった。
「生きろ、小僧」
それだけを残して、ダリウスは踵を返した。扉が閉まる音すら、夜の静寂に溶けて消えた。
翌朝。
窓格子の隙間から差し込む朝日が、晃の瞼を温かく叩いた。
ゆっくりと目を開ける。ヒビの入った右レンズ越しに、見慣れた石天井がぼやけて映る。左手は——まだ痺れている。だが昨日よりは、指が動く。握って、開く。握って、開く。何度か繰り返して、小さく息を吐いた。
身体を起こそうとして、枕元の水差しに気づいた。
昨夜はなかったものだ。
陶器の水差し。飾り気のない、軍の備品。ただそれだけのもの。
手を伸ばし、器に口をつける。
水は、ちょうど飲みやすい温度だった。冷たすぎず、温すぎず。起き抜けの乾いた喉に、静かに染み渡っていく。
誰が置いたのか。晃にはなんとなく分かっていた。分かっていたが、確かめるつもりはなかった。確かめなくても、この水の温度が全てを語っていた。
小さく微笑む。
自分でも驚くほど自然に、口元がほころんだ。かつて格納庫の片隅で、冷たい金属の床に座り込み、動かないスマートフォンの画面を指でなぞっていた夜のことを思い出す。あの夜の自分には、この微笑みは浮かばなかっただろう。
水差しを台に戻し、晃は窓の外を見た。
赤錆色の荒野の向こうに、朝日が昇っていく。二つの月はもう沈み、空は淡い橙色に染まっている。この世界の朝は、いつも鉄の匂いがする。だが今朝は、その匂いの中に、かすかに人の温もりが混じっているような気がした。
左手を開く。痺れは残っている。だが指は動く。
まだ、動く。
晃はベッドの縁に足をおろし、冷たい石の床に素足をつけた。今日もこの場所で、自分にできることを探す。それがどんなに小さなことでも——誰かが扉の外で立ち止まってくれたこと、誰かが修理の報告を口実にそばにいてくれたこと、誰かが訓練計画を組み直してくれたこと、誰かが水を一杯置いていってくれたこと。
その全てに応えられる自分でありたいと、晃は思った。




