第十三章 恐怖の骨格
戦線が崩壊した。
その事実を認識したとき、晃の視界にはもう秩序と呼べるものは何一つ残っていなかった。
蝕鋼獣の第二波が南西の防衛線を食い破り、鉄槌旅団の前衛が左右に分断された。通信回線には悲鳴と怒号が入り混じり、晃のコックピット内部で幾重にも反響する。ヴァルトラウテの光学センサーが映し出す戦場は、赤い土煙と鋼鉄の破片が渦巻く地獄だった。
退路はない。
それを悟ったのは、後方に展開していた歩兵支援部隊から「背後に伏兵、大型個体二体確認」という途切れがちの通信が入った瞬間だった。完全包囲。晃の頭の中で、ゲームなら「詰み」と表示される局面が現実の質量をもって圧しかかってくる。
「……包囲されてる。退路にも回り込まれてる。全方位、全部塞がれた」
独り言のように状況を口に出す癖が、もう止められなかった。眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。ずれてなどいない。指先が震えているだけだった。
そのとき、通信回線にフィーネの声が割り込んだ。
普段の淡々とした声音に、今夜は微かな切迫が滲んでいた。
「操縦者——ヴァルトラウテの出力リミッター、第二段階を解除する」
心臓が跳ねた。第二段階。訓練中にフィーネが一度だけ説明した領域だ。神経接続の深度が格段に上がり、機体の全センサーデータが操縦者の知覚に直接流入する。同時に、操縦者の肉体にかかる負荷も跳ね上がる。フィーネはあのとき、「未熟な操縦者がこの段階で接続すれば、最悪の場合、神経が焼き切れる」と言った。最悪でなくとも、意識の維持すら困難になると。
「覚悟はあるか」
フィーネの問いは簡潔だった。余計な言葉を削ぎ落とした、技師としての最終確認。
晃は唇を噛んだ。口の中に血の味が広がった。覚悟。そんな大層なものが自分にあるのかどうか、分からなかった。分からないまま、喉から絞り出すように言った。
「怖いに決まってる」
それが正直な全てだった。怖い。死ぬほど怖い。全身が恐怖で軋んでいる。逃げ出したい。この椅子から飛び降りて、どこか暗い場所にうずくまっていたい。
だが、通信の向こうでフィーネが一拍だけ沈黙し——それから、晃がこれまで聞いたことのない声色で言った。
「恐怖を感じているなら、接続は深化する。——行け」
恐怖が回路を開く。フィーネの言葉がそう言っていた。怖いからこそ、神経は研ぎ澄まされる。怖いからこそ、感覚は限界を超えて拡張される。この世界の古代技術は、恐怖すらも操縦者の資質として織り込んでいた。
晃は歯を食いしばった。
「——解除してくれ」
刹那、世界が変わった。
リミッターが外れた瞬間、従来の数倍——いや、数十倍の情報が晃の神経系に奔流となって流れ込んだ。視覚、聴覚、触覚、温度、気圧、振動、電磁場。ヴァルトラウテの全身に散在するセンサーが捉えるあらゆるデータが、晃の脳を灼いた。
叫びそうになった。頭が割れる。目の奥が焼ける。情報の洪水が意識を押し潰そうとしている。
だが——恐怖が思考を研ぎ澄ませた。
パニックの果てに、頭が冴える。あの感覚だ。晃の脳が自動的にHUDを展開する。溢れかえる情報を画面上のウィンドウに区切り、優先度を色分けし、不要なものをグレーアウトしていく。ゲームの画面。自分が最も冷静になれる思考のフォーマット。現実を「情報」として再構成する、御影晃だけの生存戦略。
視界がクリアになった。
蝕鋼獣の巨体が、戦場の中央に鎮座している。六本の脚を地面に突き立て、背部の砲門から断続的に弾殻を吐き出す異形の怪物。その装甲は生体金属の層が幾重にも重なり、通常兵装での貫通はほぼ不可能とされていた。
そのとき、晃の研ぎ澄まされた視覚が捉えた。
蝕鋼獣の左後脚、その関節部。周囲の装甲と僅かに色が異なる一画。わずかに赤みを帯びた修復痕——新しい傷ではない。古い傷だ。かつて損傷を受け、生体金属が再生した跡。再生した装甲は元の装甲より脆い。フィーネが以前、蝕鋼獣の生態について語った断片が、晃の記憶の底から浮かび上がった。
「見えた——」
晃は通信回線を全開にして叫んだ。
「蝕鋼獣の左後脚、関節部に修復痕がある。古い傷だ。そこだけ装甲の再生層が薄い。——そこならセリオンの裂光刀が通る!」
通信の向こうで、セリオンの呼吸が変わったのが分かった。
沈黙は一瞬だった。セリオンの声が返ってくる。冷たく、正確で、しかしどこかに微かな昂りを秘めた声。
「——角度は」
「左後方四十五度、関節の内側。外からじゃ見えない。突き込むなら後ろから回り込んで、脚の付け根を——」
晃の言葉を遮るように、ダリウスの通信が入った。
「正面の注意を逸らさなければ、クラウディスが後方に回り込む隙はない。あの獣は脅威判定の高い対象に砲門を集中させる」
分かっていた。晃にも分かっていた。セリオンが単騎で突撃するためには、蝕鋼獣の正面——あの砲門が向く場所に、囮が必要だった。
囮になれる機体は、この戦場に一機しかいなかった。
晃は自分の口が動くのを、どこか他人事のように聞いた。
「——俺が正面を引きつける」
声が震えていた。震えていたけれど、言葉は取り消さなかった。
フィーネの通信が即座に返ってきた。声は平坦だったが、その平坦さの裏に何があるのか、晃にはもう分かり始めていた。
「現在のヴァルトラウテの装甲状態から算出する。蝕鋼獣の弾殻直撃に耐えられるのは四発が限界。五発目で胸部装甲が抜かれる。——コックピット直撃だ」
四発。たった四発。
その間にセリオンが後方に回り込み、裂光刀を叩き込まなければならない。
「……四発」
晃は呟いた。眼鏡のブリッジを押し上げた。指先はもう震えていなかった。恐怖が極限を超えると、人間の身体はどこかで震えることすらやめるのだと、そのとき初めて知った。
「四発だけ耐えればいい。——行く」
ヴァルトラウテが駆けた。
赤い荒野を蹴り、砂塵を巻き上げ、十二メートルの鋼鉄の巨人が蝕鋼獣の正面に躍り出た。
一発目。
蝕鋼獣の砲門が火を噴いた瞬間、弾殻がヴァルトラウテの左肩を直撃した。衝撃がコックピットを揺さぶり、晃の身体がハーネスに叩きつけられた。左肩の装甲が陥没し、破片が飛散する。神経接続を通じて、左腕の感覚が焼けるように痺れた。
「ぐっ——」
歯を食いしばる。後退しない。正面から、蝕鋼獣の複眼を睨みつける。こっちを見ろ。俺を見ろ。俺だけを見ていろ。
二発目。
胸部に衝撃が走った。コックピット全体が激しく振動し、晃の額が正面の操縦パネルに打ちつけられた。星が散った。鼻の奥に鉄の味が広がる。そして——視界の右端に、蜘蛛の巣のようなヒビが広がるのが見えた。眼鏡だ。右レンズに新たな亀裂が走っていた。もう何度目だ。この世界に来てから、この眼鏡は何度壊れた。
それでも。
後退しない。
「三発目——来い——」
三発目は右腕だった。盾代わりに掲げた右腕の装甲が砕けた。生体金属の破片が弾け飛び、ヴァルトラウテの右前腕が骨格フレームを露出させた。神経接続を通じて、右手の感覚が消えた。指先まで伝わっていた機体の振動が、ぷつりと途切れた。
晃は悲鳴を上げた。
声を押し殺すことすらできなかった。怖い。痛い。死ぬ。死ぬかもしれない。全身が叫んでいた。逃げろ。後退しろ。もう限界だ。
だが、後退しなかった。
恐怖に震える身体を、歯を食いしばって操縦桿に縛りつけた。逃げたら、セリオンが間に合わない。逃げたら、ダリウスが前に出る。逃げたら、今度こそ——誰かが死ぬ。
四発目は来なかった。
代わりに来たのは、銀光だった。
蝕鋼獣の左後方から、一条の白い残光が弧を描いて突き進んだ。アグライアの裂光刀が、修復痕の残る左後脚関節部に寸分の狂いなく突き立てられた。セリオン・クラウディスの一撃。研ぎ澄まされた殺意と技量が凝縮された、たった一度の斬撃。
蝕鋼獣が絶叫した。
六本の脚が痙攣し、均衡が崩れる。その隙を逃さず、ヴァイスヴォルフが側面から突進した。ダリウスの追撃が蝕鋼獣の崩れた関節を完全に粉砕し、巨体が傾いだ。三度目の砲撃を放とうとした砲門が明後日の方向を向き、弾殻が虚空に消えた。
蝕鋼獣が、崩壊した。
鉄と錆の匂いを撒き散らしながら、山のような巨体が赤い大地に沈んでいく。地響きがヴァルトラウテのコックピットにまで伝わり、晃の歯をがちがちと鳴らした。
静寂が訪れた。
砲声が止み、悲鳴が止み、蝕鋼獣の駆動音が止んだ。残されたのは、鉄粉混じりの風の音と、コックピット内部の冷却装置が立てる微かな唸りだけだった。
晃は操縦桿を握ったまま、動けなかった。
呼吸ができなかった。息を吸おうとしても、肺が痙攣するように拒絶する。過呼吸だ、と頭のどこかが冷静に判断していたが、身体はその判断に従わなかった。
ひゅう、ひゅう、と喉が鳴る。涙が勝手に流れていた。恐怖が時間差で押し寄せてきた。死ぬところだった。あと一発来ていたら死んでいた。四発目は来なかった。来なかったから生きている。生きている。
「——生きてる」
声にならない声で、晃は言った。
通信回線はまだ開いていた。その言葉はフィーネの元にも届いていた。
長い沈黙があった。
戦場の残響が遠のき、冷却装置の唸りだけが耳に残る、永遠のような数秒間。
そしてフィーネの声が返ってきた。
「——そうか」
たった二文字だった。抑揚のない、いつも通りの平坦な声。だがその二文字が喉から絞り出されるまでに、どれほどの時間が必要だったか。晃には分かった。分かってしまった。
帰還の道すがら、セリオンのアグライアが無言でヴァルトラウテの隣に並んだ。
通信は入らなかった。言葉はなかった。ただ、大破に近いヴァルトラウテの歩調に合わせるように、アグライアが速度を落として並走していた。護衛なのか、あるいは別の何かなのか。セリオンの真意は読めなかったが、晃はその無言の並走に、声をかけられるよりも深い何かを感じた。
格納庫に辿り着いたとき、ヴァルトラウテはもう自力で立っていられなかった。
左肩は陥没し、右腕は骨格を晒し、胸部装甲には亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていた。格納庫のクレーンに支えられるようにして、巨人が膝をついた。
コックピットのハッチが軋みながら開いた。フィーネが整備足場を駆け上がってくる音が聞こえた。通常なら技師は機体の状態を最優先で確認する。損傷箇所の目視点検、駆動系の残存出力の計測、装甲の応急処置の優先順位——それが「技師の手順」だった。
だがフィーネは、機体には触れなかった。
コックピットに手を突っ込み、ハーネスの留め具を乱暴に外し、晃の身体を引きずり出した。小柄な体躯に不釣り合いな力で、晃の腕を掴み、肩を支え、足場の上に引き上げた。その手は精密機器を扱う技師の手ではなかった。震えていた。指先が白くなるほど晃の制服を握りしめていた。
フィーネ自身がその手の意味に気づいたのは、晃を足場に横たえた後だった。自分の手を見下ろし、一瞬だけ表情が揺らいだ。技師としてではなく——この人間を失いたくないという、剥き出しの衝動で動いていたことに、事後的に気づいた顔だった。
フィーネは何も言わなかった。ただ視線を逸らし、いつもの無表情を取り繕うように唇を引き結んだ。
晃は仰向けに横たわったまま、格納庫の天井を見上げていた。意識が朦朧としていた。全身が痛い。左肩が熱い。右手の感覚がまだ戻らない。額から血が流れ、ヒビの入った眼鏡のレンズを赤く濡らしていた。
足音が近づいてきた。重い、鎧の軋む足音。ダリウスだ。
晃は意識の薄れゆく中で、唇を動かした。
「——壁にしか、なれなくて……すみません」
自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。ただ、自分がやったことはそれだけだった。正面に立って、撃たれて、耐えた。それだけだ。戦術を組み立てたのはセリオンの技量があったからで、止めを刺したのはダリウスの追撃があったからで、自分はただ——壁になっただけだ。
ダリウスの声が、頭上から降ってきた。
その声は——初めて、僅かに震えていた。怒りでも軽蔑でもなく、言葉にしきれない何かが、あの鉄のような男の声帯を揺らしていた。
「壁がいなければ全員死んでいた。——黙って寝ろ」
それだけ言って、ダリウスの足音が遠ざかった。
晃は目を閉じた。ヒビの入った眼鏡越しに見える格納庫の天井が、滲んでぼやけて、やがて暗闇に溶けた。
恐怖はまだ、骨の髄まで染みついていた。
だが——その恐怖の骨格の中に、折れなかった何かが確かに残っていた。




