第十二章 鉄煙峡
鉄煙峡の名は伊達ではなかった。
峡谷の底を吹き抜ける風は常に赤錆色の微粒子を含み、視界を茜色に染め上げる。かつてこの地で古代文明の製鉄施設が崩壊し、数百年分の鉄滓が地層に染み込んだ結果、風が吹くたびに鉄の匂いが立ち昇る。兵士たちが「血の匂いと区別がつかなくなる場所」と呼ぶ、この前線防衛拠点が――予想を遥かに超える速度で、隣国連合軍の攻撃に晒された。
急報がアイゼンヴァッヘに届いたのは、払暁前だった。
作戦司令室に集められた面々の表情は、一様に険しかった。
石壁に掛けられた大判の地図を、蝋燭と鉄灯の光が不安定に照らしている。鉄煙峡の地形が細かい等高線で描かれ、峡谷の入口から奥部にかけて、赤い駒が幾つも並んでいた。隣国連合軍の推定展開位置を示す敵情標識である。
ダリウス・ヘルムガルドが地図の前に立ち、右腕を組んだ。先日の前哨戦で負った傷はまだ完治しておらず、包帯の端が軍衣の袖口から覗いている。それでもその佇まいに揺らぎはなく、室内の空気を束ねるように低い声が響いた。
「鉄煙峡の守備隊から救援要請が入った。連合軍の先鋒は予測より三十六時間早い。我が鉄槌旅団と、銀翼序列が共同で防衛に当たる」
銀翼序列。その言葉に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
壁際に背を預けて立つ銀髪の少年――セリオン・クラウディスは、腕を組んだまま瞼すら動かさなかった。氷を削り出したような横顔に感情の欠片もない。ただ、その存在だけで空間の温度が一段下がるような、そういう人間だった。
レーナ・フォン・ベルツが地図の脇に立ち、細い指揮棒で敵の推定進路をなぞった。左頬から顎にかけて走る古傷が蝋燭の影に沈み、翡翠色の目が冷静に光を湛えている。
「連合軍の主力は峡谷正面から圧力をかけてくるものと推測されます。地形的に幅が狭く、機鋼騎兵の展開数に上限がある以上、正面での消耗戦に持ち込む戦術が妥当――」
「……待って」
小さな声だった。
場違いなほど細い、けれど確かな声が、レーナの分析を遮った。
全員の視線が一点に集まる。作戦司令室の末席に置かれた椅子に浅く腰掛けた少年が、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げていた。右レンズに走った細いヒビが、蝋燭の光を歪めて反射する。
御影晃は、自分に視線が集まったことで明らかに怯んだ。喉仏が上下し、握りしめた手の指先が白くなっている。それでも――口は止まらなかった。
「いや、待ってくれ。……整理させて」
晃は椅子から立ち上がり、地図に近づいた。戦闘民族と鍛え上げられた騎士が居並ぶ室内で、紺色のブレザーの右袖を革紐で縛った華奢な少年の姿は、どう見ても場違いだった。だがその灰青色の瞳は、地図の等高線を舐めるように追っている。
「正面突破じゃない、と思う。……ここ」
晃の指が、峡谷の左翼――本隊の進路からやや外れた支谷の入口を示した。
「この左翼の谷間。幅は狭いけど、機鋼騎兵が単縦陣で通れるだけの空間がある。三日前のヘクトル高地の戦闘記録と、先月のグレンツ河畔の遭遇戦の報告書を読み返したんだけど――連合軍は、正面に圧力をかけておいて、迂回路から別働隊を回す戦術を二回連続で使ってる。指揮官の癖だと思う。正面の圧力は陽動で、本命は左翼からの迂回攻撃じゃないか」
沈黙が降りた。
ダリウスの鉄灰色の瞳が、晃の指先と地図を交互に見た。
「根拠は」
「過去の行動パターン。それと、この地形データ」晃は早口になっていた。怖いときほど口数が増える悪癖が、しかしこの瞬間は分析を正確に言語化する推進力になっている。「左翼の支谷は、地図上だと行き止まりに見えるけど、等高線を読むと標高差が途中で緩くなってる。つまり、ここを越えれば峡谷の裏手に出られる。連合軍が事前に偵察を入れてれば、この地形を見逃すはずがない。カルヴァスって人が指揮してるなら――元は聖皇国側の人間だったんだろ。この峡谷の地形を、たぶん俺たちより知ってる」
レーナの翡翠色の目が、わずかに見開かれた。地形分析と過去の戦闘記録の照合。それ自体は参謀が行うべき基本的な手順だが、この少年は正規の軍学教育を受けていない。独学で――おそらく、あのゲームとやらで培った戦場俯瞰の習慣で、同じ結論に辿り着いている。
内心で認めざるを得なかった。的確だ、と。
「地図上の理屈だ」
冷えた声が室内を切り裂いた。
セリオンが壁から背を離し、晃を見据えていた。蒼銀の右目と金色の左目――その異なる瞳の双方が、等しく冷淡な光を帯びている。
「等高線を読んだだけの素人の推測で部隊を動かすのか。現場を踏んだことのない人間が地図を眺めて語る戦術に、どれほどの価値がある」
その言葉に、晃は目に見えて萎縮した。眼鏡の奥の灰青色の瞳が揺れ、反論を探すように視線が泳ぐ。しかし声は出てこない。セリオンの言葉は正論だった。地図上の理屈。まさにその通りだ。自分は一度も峡谷に足を踏み入れていない。
ダリウスが、腕を解いた。
「予備戦力を左翼に配置するコストは低い」
断言だった。迷いのない、指揮官の声。
「外れれば予備を前線に合流させるだけだ。当たれば側面を突かれる最悪の事態を防げる。コストとリスクの比較で判断する。――採用する」
セリオンの顎がわずかに上がった。表情は変わらない。だが、その蒼銀と金の瞳の奥で、何かが軋んだ。素人の意見が、自分の異論を押しのけて採用された。それがプライドのどこか深い場所を、錆びた刃のように引っ掻いたことを、セリオンは誰にも悟らせなかった。
けれど晃には見えた。ほんの一瞬、セリオンの組んだ腕の指先が白くなったことに。
ブリーフィングが終わり、出撃準備が始まった。
鉄煙峡に到着したとき、峡谷はすでに戦場の匂いを纏っていた。
鉄粉混じりの風が装甲を叩き、視界を赤褐色に霞ませる。峡谷の両壁は百メートルを超える断崖となって聳え立ち、その間の狭い回廊を、鉄と蒸気と火薬の音が反響しながら駆け抜けていく。
戦闘は、連合軍の砲撃から始まった。
峡谷の正面入口に展開した敵機鋼騎兵群が、一斉に火線を開く。轟音が岩壁に跳ね返り、空気そのものが振動する。守備隊の防壁が砕け、破片が降り注ぐ中、二つの影が前線に躍り出た。
先陣を切ったのはダリウスのヴァイスヴォルフだった。白銀の装甲が鉄煙の中を突き進み、衝撃杭が唸りを上げて敵の前衛機を貫く。包帯を巻いた右腕で操縦桿を握る力は衰えていない。いや、衰えを見せないことが、この男の矜持だった。
「ダリウス団長、前衛を突破。敵第二陣との接触まで推定四十秒」
レーナの声が通信に乗る。地上の臨時指揮所に陣取った彼女は、伝令兵と伝声管を駆使して戦況を集約していた。
そしてもう一つの影――アグライアが、銀光を引いて峡谷の壁面を蹴った。
セリオンの操縦は、晃がこれまで見たどの戦闘とも次元が異なっていた。重力を無視しているかのような機動。敵の射線を紙一重で避けながら、振動剣が閃くたびに連合軍の機体が関節を断たれ、火花を散らして崩れ落ちる。一撃ごとに一機。一閃ごとに一殺。それは戦闘というより、鍛え抜かれた舞踏に似ていた。美しく、そして残酷だった。
晃は、ヴァルトラウテのコックピットの中にいた。
だが最前線にはいない。峡谷の中腹、守備隊の陣地後方に位置取り、戦場全体を俯瞰できる高台に機体を据えていた。神経接続を通じて流れ込む膨大な情報を、晃は頭の中で再構成していく。
ゲームのHUDを思い描く。
視界の左上に味方機の配置を示すミニマップ。右側に各機の残存出力と弾薬のゲージ。画面中央に峡谷の地形をワイヤーフレームで描画し、敵機の動きをリアルタイムでプロットしていく。現実ではない。だが、この想像上のインターフェースが、溢れかえる戦場情報を「読める形」に変換する唯一の方法だった。
「ダリウス団長、右翼に敵の増援二機、岩陰から出てくる。角度的に死角になってる」
「了解。ヴォルフ三番機、右に振れ」
ダリウスが即座に指示を飛ばす。晃の警告から三秒後、岩陰から飛び出した敵機を三番機が迎撃した。
「セリオン、前方の敵は囮だ。左の岩棚に狙撃機が伏せてる、二時方向、高さ約四十メートル」
応答はなかった。だがアグライアは一瞬の躊躇もなく軌道を変え、岩棚の狙撃機を瞬く間に切り伏せた。セリオンは晃の情報を使った。だが、それを認める言葉は返さなかった。
レーナが地上から補助する声が、晃の分析に的確な追加情報を重ねていく。守備隊の弾薬残量、地形の崩落箇所、風向きの変化。二人の声が交互に通信を満たし、前線の操縦者たちに戦場の「全体像」を供給し続ける。
そして、中盤に差し掛かったとき――晃の予測が的中した。
「左翼に反応。やっぱり来た、支谷から敵本隊が迂回してる。規模は――少なくとも八機以上」
通信が一瞬、沈黙した。
ブリーフィングでの晃の分析。地図上の理屈だと一蹴されたあの言葉が、峡谷の鉄煙の中で現実になった。しかしダリウスの指示通り、左翼には予備戦力が配置されていた。迂回してきた敵本隊は、待ち構えていた守備隊の側面射撃に曝され、突破速度を大幅に削がれる。
通信越しに、セリオンが一瞬だけ沈黙した。
言葉はなかった。認める声も、悔しさを滲ませる呻きもなかった。ただ、無音の間が、地図上の理屈が現実を証明したことへの沈黙の承認として、峡谷の轟音の中に消えていった。
戦線は持ちこたえている。このまま押し返せる。晃の胸に、わずかな安堵が芽生えかけた。
その安堵を、地の底から突き上げるような振動が叩き潰した。
峡谷の奥。敵後方の鉄煙が、不自然に膨張した。赤褐色の霧が渦を巻き、何か巨大なものがその中から這い出てくる。ヴァルトラウテの神経接続インターフェースが警報を鳴らし、晃の頭の中のHUDが真紅に染まった。
「なんだ、あれ……」
鉄煙を引き裂いて現れたそれは、機鋼騎兵ではなかった。
全高二十メートルを超える。機鋼騎兵の残骸を喰らって肥大化したような歪な体躯。装甲と有機物が癒合し、赤黒い脈動が表面を走る。六本の脚が峡谷の底を踏みしめるたびに岩盤が砕け、頭部とおぼしき部分から発せられる低周波の咆哮が、晃の鼓膜ではなく骨を直接震わせた。
喰鋼蟲。
「鉄蝕の将」カルヴァスが禁忌の古代技術で制御する、機鋼騎兵を捕食し変異した怪物。通信から悲鳴が溢れた。
「全火線集中。あれを止めろ」
ダリウスの命令が飛ぶ。守備隊と鉄槌旅団の残存戦力が一斉に砲火を集中させるが、着弾した弾丸は喰鋼蟲の表面で弾かれ、あるいは赤黒い表皮に呑み込まれて消えた。通常兵器が通じない。晃のHUDが弾着点と被害状況を分析し、絶望的な結論を叩き出す。
「……駄目だ、装甲を抜けてない。一発も」
ヴァイスヴォルフが突進した。ダリウスの衝撃杭が喰鋼蟲の前脚に叩き込まれ、杭が装甲を穿つ甲高い音が峡谷に響く。だが――浅い。表皮を抉っただけで、その下の組織が蠢き、傷口が塞がっていく。
喰鋼蟲の前脚が振り下ろされた。
ヴァイスヴォルフが回避する。だが一瞬遅かった。衝撃波が白銀の装甲を叩き、左腕の関節部が嫌な音を立てて歪んだ。ダリウスの呻きが通信に乗った。
「団長、左腕の出力が落ちてる。関節部が損壊――」
「分かっている」
短い返答。痛みを押し殺した声。ヴァイスヴォルフが後退し、左腕が力なく垂れ下がった。
銀光が閃いた。
アグライアがセリオンの意志を受けて加速し、喰鋼蟲の側面に回り込む。振動剣が高周波の悲鳴を上げ、喰鋼蟲の脚部装甲に渾身の一撃を叩き込んだ。火花が散り、峡谷を銀と紅の光が一瞬だけ照らす。
刃が、弾かれた。
セリオンの振動剣が喰鋼蟲の表面を滑り、切断面が閉じていく。どれほどの速度で斬りつけても、再生が追いつく。セリオンの目がわずかに見開かれた。あの完璧な操縦で届かない。最強と呼ばれる機体と操縦者の刃が、この怪物には通じない。
通信が混乱し始めた。
「第三防壁が突破された」
「左翼の予備戦力、弾薬が尽きます」
「退路を確保しろ。退路を――」
戦線が崩壊し始めていた。
喰鋼蟲が峡谷を進むたびに、味方の陣形が押し潰されていく。鉄煙の向こう、その怪物の背後に、何かが見えた。ヴァルトラウテのセンサーが捉えた微かなシルエット。人型の機鋼騎兵。けれど通常の機体とは異なる、黒い装甲に赤い脈動を纏った異形の影。
あれが、カルヴァスなのか。
晃の手が震えていた。操縦桿を握る指が滑り、歯がかちかちと鳴っている。頭の中のHUDが情報過多で明滅し、処理が追いつかない。戦況は赤一色だった。味方の損害、弾薬の残量、喰鋼蟲の再生速度、崩壊していく防衛線――すべてが最悪に向かっている。
「……無理だって、こんなの」
声が漏れた。誰に向けたものでもない、ただ恐怖が口をついて出ただけの言葉。
けれど通信は開いたままだった。その呟きが、戦場のすべての味方に届いたかもしれない。晃は唇を噛み、眼鏡のブリッジを震える指で押し上げた。
ずれてもいない眼鏡を。
鉄煙峡が、赤く燃えていた。




