第十章 模擬戦
その申し出は、朝の格納庫に冷水を浴びせるように響いた。
「模擬戦を申し込む」
セリオン・フォン・クラウディスの声には感情の起伏がなかった。まるで天候の報告でもするかのように、淡々と、しかし一切の反論を許さない響きで——彼は晃の前に立っていた。
刻印眼が宿る蒼銀の瞳が晃を見据えている。いや、見据えているというよりも、測定している、という方が正確だった。値踏みですらない。ただ純粋に、データを取ろうとしている目だ。
「古代兵器ヴァルトラウテの適合者が実戦でどの程度の動きを見せるのか。それは聖皇国全体の戦力評価に関わる問題だ」
セリオンは視線を晃から外し、格納庫の奥で静かに佇むヴァルトラウテの巨躯を仰いだ。
「個人的な興味ではない。軍事的な必要性だ」
格納庫の空気が張り詰めた。整備兵たちが手を止め、工具を握ったまま凍りついている。フィーネが調律手記を閉じる音だけが、やけに大きく反響した。
晃は何も言えなかった。声を出そうとして、喉が貼りついた。
ダリウスが腕を組んだまま、しばらくセリオンを見つめていた。包帯が巻かれた右腕を庇うように左手で押さえ、その鉄灰色の瞳に複雑な光を宿している。
「……出力は七十パーセント制限。実弾なし。これは命令だ」
折れた、と晃は思った。
ダリウスの声には明確な不本意が滲んでいたが、セリオンの論理は正しかった。古代兵器の適合者がどの程度の戦闘機動に耐えうるのか——それは鉄槌旅団の、ひいては聖皇国南西前線の戦力配置を左右する情報だ。ダリウスはそれを理解したからこそ許可したのであり、セリオンもまたそれを理解した上で、あえて「軍事的必要性」という言葉を選んだのだ。
どちらも、晃の意思など聞いていなかった。
「……無理だって、こんなの」
晃の唇が勝手に動いた。声は自分でも驚くほど小さかった。
しかしセリオンはすでに踵を返しており、その背中は一切の返答を必要としていなかった。
訓練場は城塞都市アイゼンヴァッヘの外縁に広がる、赤土と砂礫の平地だった。古い外壁の残骸が断続的に突き出し、過去の戦闘で抉られた地面が不規則な起伏を作っている。遠くには機鋼墓場の鉄骸が錆色の影を落とし、その上を赤銅の月カルマが薄く照らしていた。
ヴァルトラウテのコックピットに収まった晃の胃は、握り潰されるように痛んだ。
神経接続が始まると同時に、視界が拡張される。機体のセンサーが捉える三百六十度の情報が脳に流れ込み、晃は反射的にそれをゲームのHUDとして再構成した。視野の左上に機体出力のゲージ、右下に関節負荷率、中央に環境マップ。自分の精神を保つための、必死の変換作業だ。
正面、二百メートル先。
アグライアが立っていた。
白銀の装甲が訓練場の砂塵の中で異質なほど美しく輝いている。全高十一メートル。ヴァルトラウテより一回り小さいにもかかわらず、その存在感は圧倒的だった。機体が纏う空気そのものが鋭利に研ぎ澄まされている。
あの中に、セリオンがいる。
九歳で軍学院の全課程を修了した天才。刻印眼の高適合者。帝国最強と謳われる機鋼騎兵操縦者。
晃の手が震えた。操縦桿を握る指先が冷たく、感覚が遠い。
通信回線が開いた。レーナの声だ。
「双方、準備はいいか。出力七十パーセント制限、実弾装填なし。接触判定方式。模擬戦を開始する」
晃は唾を飲み込んだ。喉が痛い。心臓が肋骨を叩く音が、コックピット全体に響いているような気がした。
怖い。
身体の芯から震えるほど怖い。あの白銀の機体がこちらに向かってくる——その事実だけで、内臓が縮み上がる。
けれど。
ほんの微かに、別の何かが胸の底で脈打っていた。
対戦相手が、いる。
画面の向こうではない。匿名のランキングでもない。目の前に、自分の動きを見て、自分に反応して、自分を打ち倒しにくる相手がいる。GRID:VANGUARDで全国ランカーと当たったときの、あの指先が痺れるような感覚——恐怖と表裏一体の、灼けるような高揚。
ゲーマーの血が、微かに反応していた。
「模擬戦、開始」
レーナの号令が落ちた瞬間、アグライアが消えた。
いや、消えたのではない。あまりにも速すぎて、晃の視覚処理が追いつかなかったのだ。HUDの環境マップに赤い点が一瞬で距離を詰めてくるのが見え、晃は反射的に左へ回避機動を取ろうとした。
遅い。
操縦桿を倒したときにはすでにアグライアは目の前にいた。白銀の装甲が視界を埋め尽くし、訓練用の模擬刃が閃光のように振り下ろされる。晃は辛うじてヴァルトラウテの左腕でガードを試みたが、アグライアはその左腕ごと押し込むように身体を旋回させ、ヴァルトラウテの体勢を崩した。
フェイント。
振り下ろしの斬撃と見せかけて、本命は横からの体当たりだった。気づいたときには遅かった。二合目、アグライアの模擬刃がヴァルトラウテの胸部装甲の前で静止している。
接触判定。
開始から九十秒。
晃は二合でフェイントに引っかかり、為す術もなく撃墜された。
通信回線から、セリオンの声が流れてきた。平坦で、抑揚のない声。
「話にならない」
それだけ言って、アグライアは模擬刃を収めた。白銀の機体が踵を返す動きすら流麗で、無駄がなく、残酷なほど美しかった。
コックピットの中で、晃は両手を操縦桿に置いたまま動けなかった。九十秒。たった九十秒。一分半だ。何もできなかった。何一つ。
しかし。
格納庫に設けられた仮設の指揮所で、ダリウスは通信記録を読み返していた。ヴァルトラウテの神経接続ログ——操縦者の思考パターンと機体への入力信号を時系列で記録したデータだ。
ダリウスの眉が、僅かに動いた。
「……九十秒間で、セリオンの攻撃パターンを七つ解析している」
傍らに立つレーナが、無言でダリウスの手元を覗き込んだ。
「三合目以降の対応策まで組み立てている。初手の間合い詰めに対する後退角度の最適化、フェイントの判別基準、右斬撃時のカウンタータイミング……」
ダリウスは記録端末を置いた。
「身体が追いつかなかっただけだ」
レーナは黙ったまま、訓練場に佇むヴァルトラウテの姿を見つめていた。その視線には、かつて自分が操縦席に座っていた頃の記憶が薄く重なっているようにも見えた。
コックピットの中で、晃は目を閉じていた。
悔しい、と思った。
怖さは消えていない。胃はまだ痛い。指先は震えている。だが、それとは別の場所で——脳の奥の、ゲームに没頭しているときだけ熱くなる部分で——何かが燻っていた。
九十秒間、自分は何を見ていたのか。
セリオンの初動加速のタイミング。間合いを詰めるときの重心移動。模擬刃を振る直前の予備動作。フェイントと本命の切り替え速度。
全部見えていた。見えていたのに、手が動かなかった。頭が出した答えを、身体が実行できなかった。それが、九十秒の正体だ。
ただの無力ではなかった。
何も見えていなかったのではない。見えていたのに届かなかった。その差が、ただの恐怖よりもずっと深く胸に刺さった。
晃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。ずれていない。ずれていないのに、指が動く。いつもの癖だ。頭を切り替えるための、自分だけのスイッチ。
通信回線を開いた。
「もう一回」
声が震えていた。けれど、言葉ははっきりしていた。
回線の向こうで、一瞬の沈黙があった。
それから、セリオンの声が返ってきた。先ほどと同じ平坦な声——のはずだった。だが、ほんの僅かに、音の輪郭が変わっていた。
「……いいだろう」
アグライアが振り返った。
白銀の機体が再び正対する。センサーアイの光が晃を真っ直ぐに捉えていた。
セリオンが初めて、晃を「見た」瞬間だった。
二回目の模擬戦が始まる前に、晃は自分に言い聞かせた。
勝てない。
それは確定している。出力制限があろうと、セリオンの技量と晃の技量の差は深淵だ。あの速度、あの精度、あの読みの深さ——正面からぶつかって勝てる要素は一つもない。
だから、勝とうとするな。
頭の中で、GRID:VANGUARDの対戦画面を組み立てた。相手は格上のランカー。資源差も兵力差もある。正面衝突は自殺行為。ならばどうする。時間を稼げ。情報を集めろ。相手に一手でも多く打たせて、そのパターンを蓄積しろ。そして——たった一瞬の、たった一つの穴を見つけろ。
「模擬戦、第二回。開始」
レーナの号令と同時に、晃はヴァルトラウテを後退させた。
前に出ない。距離を取る。訓練場に点在する外壁の残骸を盾にし、起伏のある地形を利用して、アグライアの直線的な間合い詰めを阻害する。
アグライアが加速した。一回目と同じ速度。同じ角度。だが今度は晃の目がそれを追えていた。HUDに描かれた赤い軌跡が予測線と重なる。右に回り込む。外壁の残骸を挟んで、アグライアの突進ルートを二択に分岐させる。
セリオンは迷わなかった。外壁を跳躍で越え、上空から模擬刃を叩きつけてきた。衝撃でヴァルトラウテの左肩装甲が軋む。出力七十パーセントでこの威力。百パーセントなら装甲ごと持っていかれる。
晃は歯を食いしばり、後退しながら右へ転がった。地面に膝をつくヴァルトラウテの姿勢は無様そのものだったが、その無様さが一瞬の距離を生んだ。
三十秒。パターン二つ追加。
アグライアが再び間合いを詰める。今度は低い姿勢からの水平斬撃。晃はヴァルトラウテの右腕で受け、衝撃を流しながら左へステップ。受け流しは不完全で、右腕の関節負荷が警告値に達する。だが止まらない。止まったら終わる。
六十秒。パターン四つ。
セリオンの攻撃は一撃ごとに角度と速度を変えてきた。同じ攻撃を二度繰り返さない。こちらの回避パターンを読んで、三手先を潰しにくる。まるで将棋だ。いや、将棋より速い。盤面が動くリアルタイムの将棋。
九十秒。一回目の限界時間を越えた。
コックピットの中で晃の恐怖値は際限なく上昇していた。心拍数は百六十を超え、呼吸は浅く速い。視界の端が白く明滅している。けれど——不思議なことに、恐怖が増すほどに、頭の奥が冴えていく。パニックの果てに辿り着く異常な集中状態。世界がスローモーションになるわけではない。自分の処理速度が、恐怖を燃料にして加速しているのだ。
百秒。パターン六つ。
そして、晃は見つけた。
セリオンの右斬撃。模擬刃を右から薙ぐとき、アグライアの頭部センサーが一瞬だけ右方向に固定される。左視界に〇・三秒の死角が生じる。人間の反射速度では気づけない。機体の構造的な制約だ。セリオンほどの操縦者でも、機体の物理的限界は超えられない。
百十秒。
晃はあえて右側に隙を作った。セリオンがそれを見逃すはずがない。アグライアの模擬刃が右から薙がれる。白銀の斬閃が迫る。ヴァルトラウテは避けない。避けるのではなく、斬撃の軌道の内側に——アグライアの左脇腹の方向に——身体をねじ込む。
百二十秒。
ヴァルトラウテの左拳が、アグライアの脇腹装甲に触れた。
接触判定。
一瞬の静寂が訓練場を包んだ。
撃墜ではない。有効打でもない。ただの接触だ。実戦であれば何の意味もない、掠りにすらならない一打。
だが。
アグライアのコックピットの中で、セリオンの蒼銀の瞳が変化した。感情の昂りが刻印眼を通じて虹彩の色を明るく灼き、冷徹な氷の色が一瞬だけ、炎のような輝きを帯びた。
あの瞳が、揺れた。
しかしそれは本当に一瞬のことだった。セリオンは即座にその光を押し殺し、瞳は元の冷たい蒼銀に戻った。感情を認識し、認識した瞬間に封殺する。それがセリオン・フォン・クラウディスという人間の在り方だった。
通信回線が開いた。
「面白い虫だ」
それだけ言って、アグライアは模擬刃を収め、背を向けた。白銀の機体が訓練場から去っていく。その歩みは一回目と同じように流麗で、無駄がなく、美しかった。だがその背中が、ほんの僅かに——晃にはそう見えた——名残惜しそうに振り返りかけて、思い直したように前を向いた。
気のせいかもしれない。
晃はコックピットの中で、大きく息を吐いた。全身が汗で濡れ、指先の感覚がない。視界が揺れている。百二十秒。たった二分だ。だがその二分は、九十秒の三倍ではなかった。密度が違う。自分が見えていたものの解像度が、根本的に変わっていた。
格納庫に戻ったヴァルトラウテの足元で、フィーネが模擬戦ログの解析端末を操作していた。
彼女の琥珀色の瞳がデータの羅列を追い、何度か瞬きをしたあと、静かに息を吐いた。
「……やはり、か」
画面に映し出されているのは、二つのグラフの重ね合わせだった。一つは晃の恐怖値——心拍数、発汗量、呼吸変動、ストレスホルモンの推定値を統合した複合指標。もう一つはヴァルトラウテの機体応答速度——操縦者の神経信号を受けてから関節駆動が開始されるまでの遅延時間。
二つの曲線は、鏡像のように相関していた。
恐怖値が上昇するほど、機体応答速度が向上している。
通常の操縦者であれば、恐怖はノイズだ。神経接続にジッターを生み、操作精度を低下させる。だが晃の場合、恐怖が一定の閾値を超えると——逆に神経伝達の純度が上がる。まるで恐怖そのものが触媒となって、脳と機体の間の情報路を研ぎ澄ましていくかのように。
フィーネは一回目の模擬戦ログと二回目のログを並べた。一回目の九十秒間のデータは、恐怖値が閾値に達する前に戦闘が終了していた。二回目は、六十秒を過ぎた辺りで閾値を突破し、そこから機体応答速度が劇的に改善されている。百二十秒目の「接触判定」の瞬間、ヴァルトラウテの応答遅延はセリオンのアグライアに匹敵する数値を叩き出していた。
あの臆病な少年の恐怖が、古代兵器を覚醒させている。
フィーネは端末を閉じ、見上げた。ヴァルトラウテの巨大な装甲が格納庫の天井近くまで聳えている。センサーアイの微かな光が、まるで操縦者の帰還を見守るように、穏やかに灯っていた。
「恐怖値上昇と機体応答速度向上の正の相関」
フィーネは誰に聞かせるでもなく呟いた。調律手記にペンを走らせる。データは嘘をつかない。だが、このデータが示す意味は——フィーネにとっても、まだ整理のつかない領域だった。
怖がれば怖がるほど強くなる操縦者。
そんな矛盾が、あの古代兵器の中で静かに息づいている。
格納庫の外では、二つの月がアイゼンヴァッヘの城壁を照らしていた。銀白のゼルダが冷たく、赤銅のカルマが温かく。その二重の月光の下で、晃はヴァルトラウテのコックピットからゆっくりと降り立ち、地面に足をつけた瞬間、膝から崩れ落ちた。
整備兵が駆け寄ろうとするのを、フィーネが手で制した。
晃は赤土の地面に両手をつき、荒い呼吸を繰り返している。眼鏡が鼻先からずり落ちかけ、右レンズのヒビ越しに世界が歪んで見えた。
怖かった。
怖くて、悔しくて、そして——ほんの一瞬だけ、楽しかった。
その感覚が、何よりも恐ろしかった。
晃は眼鏡を押し上げ、立ち上がった。足は震えていたが、地面を踏む力は、九十秒で倒された一回目の後よりも確かだった。




