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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

婚約破棄された私の「一度きりの絶対命令」を、殿下への復讐に使うのは勿体ないと思いまして

作者: 双葉からす
掲載日:2026/02/23

◇ 第一幕 ◇


 私には、この世でたった一度だけ、誰かに絶対の命令を下す力がある。


 「星命の一言」と、一族は呼んでいた。


 対象は一人。命令は一回。何を言っても構わない。

 「死ね」と言えば、その人は死ぬ。

 「跪け」と言えば、王でも跪く。

 「愛せ」と言えば、愛してくれる。

 絶対に。例外なく。逆らえない。


 ただし、一生に一度きり。使えば消える。


 ――怖い力だった。


 物心ついた頃から、右手の甲に星型の紋章があった。温かくも冷たくもない、ただ「在る」という感覚。

 母は私を抱きしめて言った。


「いつか本当に大切な人ができた時に、使いなさい」


 父は私の頭を撫でて言った。


「使い方を間違えるな。使った後に後悔するような一言を選ぶな」


 私は頷いた。

 そして十歳の時にクラウス殿下と婚約して、すぐに決めた。

 婚礼の夜、殿下に「一生、私を守って」と命じよう。あるいは「ずっと健康でいて」でもいい。殿下の幸せのために使おう。

 それが、一番正しい使い方だと思った。


 八年間、ずっとそう思っていた。


 八年間だ。


「――フィーネ嬢。長い間、感謝していた。だが、私の心はベアトリクス嬢とともにある。婚約は、本日をもって解消させてほしい」


 夜会の大広間で、クラウス殿下はそう言った。

 二百人を超える貴族の前で。隣にレーゲンスブルク伯爵令嬢ベアトリクスを従えて。


 胸の奥が、ぐしゃりと潰れた。

 音がした気がした。八年分の期待と準備が、一瞬で紙くずになる音。


 右手の紋章が、熱く脈打った。


 使える。今すぐ使える。

 「跪け」と言えば、この場で跪く。

 「撤回しろ」と言えば、婚約破棄を撤回する。

 「ベアトリクスを忘れろ」と言えば、記憶から消える。

 何でもできる。


 右手が震えた。

 唇が開きかけた。


 ――「後悔するような一言を選ぶな」


 父の声が、脳裏をよぎった。


 私は唇を噛んだ。

 血の味がした。


「……殿下」


「何だ」


 フロアの空気が張り詰めた。二百の視線が私に注がれている。使うのか。この場で何かをするのか。


「八年間、ありがとうございました」


 それだけ言って、一礼した。


 大広間を出た。廊下を渡り、階段を降り、馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まった瞬間、右手を左手で握りしめた。


 使わなかった。


 使えたのに、使わなかった。


 右手の紋章が、まだ熱い。命令を使いたがっている。あるいは、私自身が使いたがっている。


「――ばか」


 誰に向けたともわからない一言が、暗い馬車の中に落ちた。

 涙は出なかった。涙を流す余裕があったら、きっと命令を使っていた。


 夜空に星が瞬いていた。

 右手の星型の紋章と、同じ光。


 使わなくて、よかったのか。

 使うべきだったのか。


 答えは出ない。

 ただ確かなのは、この力がまだ私の中にあるということ。

 たった一度きりの、絶対の命令。


 私はまだ、それを持っている。



     ◇ 第二幕 ◇


 実家に二日だけ泊まって、辺境の街リントブルクに移った。


 父の古い友人が薬師を営んでおり、手伝いとして置いてもらえることになった。

 王都から馬車で七日。石畳の代わりに土の道、宮殿の代わりに木造の家並み。小さな街だった。


 ここなら、誰も私を「絶対命令を持つ令嬢」とは知らない。


 薬師の仕事は性に合っていた。

 薬草の調合は、分量と手順を正確に守れば結果がついてくる。計算と忍耐の世界。宮廷政治よりずっと誠実だ。


 街の人々は最初よそよそしかったが、風邪薬を作り、切り傷の軟膏を調合し、子供の発熱を下げる薬湯を処方するうちに、少しずつ受け入れてくれた。


「フィーネさん、うちの婆ちゃんの膝が楽になったって。ありがとう」


 パン屋のおかみさんがクルミパンを差し入れてくれた日、ようやくここが「私の場所」になった気がした。


 薬師のラウラおばさんは、私の事情を察していたが何も聞かなかった。ただ一度だけ、薬草園で二人きりの時に言った。


「辛い恋をしたんだね」


「恋だったのか、わかりません」


「八年も想い続けたなら、恋だよ」


 そうかもしれない。でも、恋と呼ぶには計画的すぎた。婚礼の夜に「守って」と命じようとしていた女の感情を、恋と呼んでいいのだろうか。


 リントブルクで暮らし始めて一ヶ月が経った頃、ヨハンという青年に出会った。


 街の自警団の団長で、元は王都の騎士だったらしいが、怪我で退役して故郷に戻っていた。左腕にうまく力が入らないらしく、薬師に通っていた。


「フィーネさんの湿布、効きますね。前の薬より全然いい」


「ラウラおばさんの処方を少しだけ変えただけです」


「少しの差で結果が変わるんだ。大事なことだ」


 ヨハンは穏やかに笑う人だった。損得を考えない目。裏を探る必要のない声。


 宮廷では出会わなかった種類の人間だった。


 ――もしヨハンに命令を使ったら。


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 「幸せになって」と命じたら、この人は絶対に幸せになる。

 悪い使い方ではない。むしろ善い使い方だ。


 でも、すぐに打ち消した。

 命令で与えた幸せは、本当の幸せなのか? 選択の自由を奪った上での幸福に、意味があるのか?


 右手の紋章が疼くたびに、同じ問いがぐるぐると回る。


 ある日、王都から新聞が届いた。

 クラウス殿下とベアトリクス嬢の婚約披露の記事。華やかな式典の描写。「世紀のご成婚」と見出しが踊っている。


 腹の底が、冷たくなった。


 紋章が熱くなる。


 ――「ベアトリクスの本性を暴露しろ」。


 今すぐ王都に行って、殿下にそう命じれば。殿下は逆らえない。ベアトリクスの全てを調べ、暴き、公表する。


 復讐としては完璧だ。


 私は新聞を丁寧に畳んで、薪の下に入れた。

 火をつけた。

 紙が燃える音を聞きながら、右手を握り締めた。


 まだ使わない。まだだ。

 こんなことのために、一生に一度の力を浪費してたまるか。


 ……でも。

 「こんなこと」と言い切れるほど、心は軽くない。


 翌日、ヨハンの湿布を調合していた時のことだった。


「フィーネさん」


「はい?」


「右手、そんなに強く握ってたら薬草が潰れますよ」


 はっとして手を開いた。カモミールの花弁が、手のひらの中でぐしゃぐしゃになっていた。


「……すみません」


「前からちょっと気になってたんですが」ヨハンは新しいカモミールを差し出しながら言った。「右手だけ、いつも力が入ってますよね。何かを握りしめてるみたいに」


 心臓が跳ねた。

 この人は、見ている。私の右手を。紋章のことは知らないはずなのに、力の気配を感じ取っている。


「……癖です」


「そうですか」


 ヨハンはそれ以上聞かなかった。代わりに、少しだけ真面目な顔で言った。


「俺の左腕はもう治らないって、王都の医師に言われました。でもフィーネさんの湿布で、痛みはだいぶ楽になった」


「それは湿布の効果であって、私は——」


「だから、もし何かあっても」


 彼は、私の右手を見た。握りしめている右手を。


「その手にあるものを、俺のために使わないでください」


 呼吸が止まった。


「左腕が治らなくても、俺は自分の人生を生きてます。誰かに『治してもらう』んじゃなくて、この腕でやれることを探したい。だから――」


「……どうして、そういうことが分かるのですか」


「分かりませんよ、何も。ただ、右手を見てると、すごく大事なものを持ってるんだろうなって」


 私は、泣きそうになった。


 この人は何も知らない。「星命の一言」の存在も、私の一族のことも。

 なのに、「使わないでくれ」と言った。

 自分の不幸を他人の力で解決してほしくないと、はっきり言った。


 殿下に言われたかった言葉を、この人が言った。


 右手の紋章が、ほんの少しだけ冷えた。

 初めてだった。温かくなるのではなく、冷えたのは。


 まるで、紋章自身がほっとしたように。



     ◇ 第三幕 ◇


 リントブルクに暮らして三ヶ月が過ぎた頃、異変が起きた。


 まず、税が上がった。

 辺境の小さな街に、王都から新しい徴税官が来て、従来の倍の税を要求した。


「レーゲンスブルク伯爵家の令達だ。王太子妃殿下のご意向である」


 ベアトリクスの実家。

 婚約が正式に成立し、レーゲンスブルク家は宮廷での発言力を急速に拡大していた。辺境の税収を自家の懐に流し込む仕組みを作ったのだろう。


 街の商人たちが困窮し始めた。パン屋のおかみさんは「冬越しの小麦が足りない」と泣いた。


 次に、薬草の仕入れが止まった。

 山向こうの薬草園がレーゲンスブルク家に買い上げられ、辺境への出荷が禁じられた。

 ラウラおばさんの薬師も、私の調合も、材料がなければ何もできない。


「あの伯爵家め……」ラウラおばさんが珍しく声を荒げた。


 私は黙って薬棚を整理していた。

 残りの在庫で、あとどれくらい持つか計算する。二ヶ月。冬の前に尽きる。


 ヨハンが自警団の報告に来た。


「街道に関所が設けられた。レーゲンスブルク家の紋章つきだ。通行に許可証がいるようになった」


「……封鎖するつもりですか」


「分からない。でも、このままだと街が干上がる」


 ヨハンの顔が険しかった。

 元騎士としての本能が、戦闘の可能性を嗅ぎ取っているのだろう。


 その夜、自室で右手を見つめた。

 紋章が、静かに光っている。


 使おうと思えば、使える。


 レーゲンスブルク家の当主に「辺境から手を引け」と命令する。絶対に従う。一言で全てが解決する。


 でも、それでいいのか?

 レーゲンスブルク家の当主に使えば、当主一人は従う。しかし家は残る。仕組みは残る。当主が死んだら命令は終わる。根本的な解決にはならない。


 なら、殿下に使うか?

 「ベアトリクスと婚約を解消しろ」と命じれば、全てがひっくり返る。レーゲンスブルク家の権勢は消え、辺境の税も元に戻る。


 でもそれは、私が殿下の人生を操ることだ。八年前に婚約した時から夢見ていたこと——殿下を支配すること——を、最悪の形で実現してしまう。


 枕に顔を埋めた。

 選べない。

 使いたいのに、使えない。


 翌週、予想もしなかった来客があった。


 クラウス殿下の侍従長、ヴェーバー侯爵。


「フィーネ嬢。お元気そうで何よりです」


 薬師の店先に、宮廷の高官が立っていた。異様な光景だった。


「単刀直入に申します」


 ヴェーバー侯爵は、声を低くした。


「殿下は、ベアトリクス嬢に操られております」


「……はい?」


「レーゲンスブルク家は、古い魔術の家系です。ベアトリクス嬢は殿下に微弱な暗示魔術をかけている疑いがある。殿下の判断力が明らかに低下しています。婚約破棄も、彼女の影響下での決断だった可能性が高い」


 心臓が、跳ねた。


「殿下の近臣は半数がレーゲンスブルク家に入れ替えられました。私も近く更迭される見込みです。通常の手段では、もう手遅れです」


 侯爵は、私の右手を見た。

 ……知っているのだ。「星命の一言」の存在を。


「フィーネ嬢。お願いです。殿下に命令してください。『ベアトリクスの暗示から目を覚ませ』と。それだけで、全てが解決します」


 右手が、震えた。


 殿下を助けるために使う。

 国を救うために使う。

 正しい使い方だ。大義がある。誰もが納得する理由がある。


 しかし。


「殿下を……助けるために?」


「はい。殿下はあなたの力を必要としています」


 笑いが込み上げた。

 必死に堪えたが、声が震えた。


「殿下が必要としているのは、私の力です。私を、ではない」


 ヴェーバー侯爵は、答えなかった。


「……考えさせてください」


「お時間がありません。来月の戴冠式までに手を打たなければ――」


「考えさせてください」


 侯爵を送り出した後、裏庭に出た。

 冬の空気が肺を刺す。


 殿下を助けに行く。一族の力で、国を救う。

 それは美しい物語だ。

 婚約破棄された令嬢が、それでも殿下を救う。感動的じゃないか。


 でも。


 使った後、私には何が残る?


 力を失った「元婚約者」。殿下に感謝はされるかもしれない。でもそれだけだ。殿下はまた別の婚約者を見つけ、私はまた「ありがとう、友人として大切に思っている」と言われる。


 八年前と同じだ。

 私は便利な道具で、愛される人間ではない。


 壁に背中をつけて、空を見上げた。

 星は出ていない。曇り空だった。


 ――復讐に使う。


 その選択肢が、初めてはっきりと形を持った。


 ベアトリクスに「王宮から去れ」と命じる。

 あるいは殿下に「婚約を破棄したことを一生後悔しろ」と命じる。


 どちらも可能だ。

 どちらも、きっと胸がすく。一瞬だけ。


 でもその後に残るのは、空っぽの右手と、空っぽの自分だ。


 復讐でもない。救済でもない。

 なら、何のために使えばいい?


 私はしゃがみこんで、顔を膝に埋めた。


 答えが出ないまま、一週間が過ぎた。



     ◇ 第四幕 ◇


 答えが出る前に、事態は動いた。


 レーゲンスブルク家の騎士団が、リントブルクに来た。

 三十名の武装した騎士と、指揮官のベアトリクスの兄、ディーター・レーゲンスブルク。


「リントブルクの住民に対し、特別税の未納分の即時納入を命じる。払えぬ者は財産を差し押さえ、なお不足する場合は労役に処す」


 街の広場で、ディーターは宣言した。


 住民たちの顔が青ざめた。

 パン屋のおかみさんが赤ん坊を抱いて泣いていた。鍛冶屋の親父が拳を握りしめていた。


 ヨハンが自警団を率いて前に出た。


「この税は不当だ。王国法に定められた辺境税の上限を超えている」


「黙れ。これはレーゲンスブルク家の令達だ。王太子妃殿下のご意向に逆らうのか」


「王太子の正式な勅令ではないだろう。伯爵家の私令に法的拘束力はない」


 ディーターの顔が歪んだ。


「ならば、力で示してやろう」


 騎士たちが剣を抜いた。

 ヨハンが住民たちを背にして構えた。左腕に力が入らないのを、右腕一本でカバーしている。


 自警団の若者たちが武器を取ったが、正規の騎士団相手では話にならない。


 そこに——


「止めなさい」


 声が、広場に響いた。

 私ではない。


 広場の入り口に、馬車が停まっていた。

 降り立ったのは——クラウス殿下だった。


 息が、止まった。


 殿下は以前より痩せていた。目の下に隈がある。しかし、その目には意思の光があった。暗示かけられた人間の虚ろさは、なかった。


「ディーター・レーゲンスブルク。この私令に私の許可は出していない。即刻、剣を収めろ」


「殿下……! なぜここに」


「ヴェーバー侯爵から報告を受けた。辺境で何が起きているか、確認しに来た」


 殿下の目が、人混みの中の私を見つけた。

 一瞬だけ、目が揺れた。


 ディーターが歯軋りした。


「殿下。これは王太子妃殿下のご意向で――」


「ベアトリクスの暗示は、三日前に解けた。大神殿の聖職者に解除してもらった」


 広場に、どよめきが走った。


「ベアトリクス本人は拘束されている。暗示魔術の行使は王国法違反だ。レーゲンスブルク家は現在、宮廷から調査を受けている」


 ディーターの顔から血の気が引いた。


「嘘だ……そんなことが……」


「嘘ではない。だからこそ、私自身がここに来た。辺境で行われた違法な徴収を止めるために」


 殿下は毅然としていた。

 あの夜、婚約を破棄した時のような迷いはなかった。


 ……暗示が解けたのだ。本来の殿下に戻ったのだ。


 胸の奥が、ちりりと痛んだ。


 ディーターが顔を歪ませた。


「……殿下がお一人で来たということは、王都の騎士団はまだ動いていないということだ」


 ディーターの声が変わった。冷たく、計算高い声に。


「こちらには三十名の騎士がいる。殿下の護衛は何人だ?」


 殿下の後ろにいた護衛は、四人だけだった。


「殿下を拘束し、暗示が解けていないと主張すれば、時間は稼げる。その間に本家と連絡を取れば――」


「反逆罪だぞ」


「証拠がなければ、ただの護衛だ」


 ディーターが手を上げた。

 騎士たちが、殿下を囲み始めた。


 住民が悲鳴を上げた。ヨハンが剣を抜いた。


 私は、右手の紋章が燃えるように熱くなるのを感じた。


 今だ。


 今なら使える。使う理由がある。


 ディーターに「止まれ」と命じれば、全てが止まる。

 殿下に「逃げろ」と命じれば、絶対に逃げられる。

 ベアトリクスに「全てを告白しろ」と命じれば——いや、ベアトリクスはここにいない。


 選べ。

 今すぐ。


 ディーターに復讐の一言を?

 殿下を救う一言を?

 住民を守る一言を?


 右手を上げた。


 ディーターが、私を見た。

 殿下が、私を見た。


「フィーネ……!」


 殿下が叫んだ。


「その力で! 頼む、フィーネ!」


 分かっている。殿下は知っていたのだ。私の力を。侯爵から聞いたのだろう。

 だから今、私に頼んでいる。


 殿下のために使う。

 国のために使う。


 正しい選択だ。


 ――でも、殿下。


 八年間、私はあなたのために温めてきた。

 「一生私を守って」。

 あなたの幸せのために使うと決めていた。


 あなたはそれを知らずに私を捨てた。

 そして今、危機になったら「使ってくれ」と叫ぶ。


 私の力は、あなたのためにあるのではない。


 右手の紋章が、最大の光を放った。


 私はディーターに歩み寄った。

 広場が静まり返った。


 命令を下す。一生に一度の、たった一言を。


 復讐のためでも。

 殿下のためでも。

 国のためでもない。


 私は、真っ直ぐディーターの目を見て、口を開いた。


「――本当のことを、全て話しなさい」


 星命の一言が、発動した。


 右手から光が弾けた。

 穏やかな光ではない。星が生まれる瞬間のような、激しく、容赦のない輝き。


 光がディーターの体を貫いた。


 彼の目が見開かれた。

 最初、何が起きたか分かっていないようだった。それから理解が追いつき、恐怖が顔に広がった。


 ディーターは抗おうとした。

 唇を噛んだ。歯を食いしばった。両手で自分の口を押さえた。

 首の筋が浮き上がり、額に血管が走った。あらゆる筋肉を総動員して、自分の口を閉じようとしている。


 しかし、逆らうことは不可能だ。


 彼の手が、自分の意思に反して口から離れた。

 指が痙攣するように震えている。自分の体なのに、自分の体ではない。その恐怖が、瞳の奥で渦巻いていた。


 ――これが、「星命の一言」の力。

 私はこの力を十八年間、体の中に飼っていた。

 これほどのものを。


 ディーターの口が、勝手に開いた。

 最初の一言は、掠れた悲鳴のようだった。


「俺は……ッ」


 止めたい。彼自身がそう叫んでいるのが分かる。

 でも、言葉は止まらない。


「俺は……レーゲンスブルク家の当主に命じられて……辺境の税収を、私的に横領する仕組みを……作った」


 広場がざわめいた。

 居並ぶ住民の顔に、驚愕が広がっていく。


「やめ……やめろ……俺の口を……」


 ディーターの目から涙が溢れた。

 体は真実を語り、心はそれを止めようとしている。引き裂かれた人間の姿が、そこにあった。


「ベアトリクスの暗示魔術は……家に伝わる禁術で……父が使い方を教えた。ベアトリクスは……最初拒んだ。跪いて……父に『これだけはやめてください』と……泣いて頼んだ」


 ディーターの声が震えた。


「でも父は……ベアトリクスの額を杖で打って……『お前は道具だ。道具が泣くな』と……」


 殿下の顔が、蒼白になった。

 ベアトリクスが自分の意思で暗示をかけたのではなかった。


「婚約破棄も……計画通りだった。ヴァルトシュタイン家の令嬢が邪魔だった。あの家には……我々でも把握できない秘術があると聞いていた。だから……先に排除した」


 私の心臓が、跳ねた。

 排除。私が婚約を破棄されたのは、殿下の心変わりではなかった。計画だった。最初から、全部。


 殿下が一歩よろめいた。

 自分の婚約破棄すら他人に操られた結果だったと知って、顔が歪んだ。


「辺境への増税は……王国財政のためではない。レーゲンスブルク家の借金の返済に……充てるためだ。三年前の魔術研究に失敗して……莫大な負債がある。それを……辺境の民の血税で穴埋めしていた」


 パン屋のおかみさんが、声を殺して泣いた。

 小麦が足りなかったのは、天災ではなく人災だった。


「もう……やめてくれ……頼む……」


 ディーターが膝をついた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。

 それでも口は止まらない。彼の喉が、彼の意思とは無関係に、真実を絞り出し続ける。


「俺たちは……この辺境の街を……最終的には……領地ごと買い上げる予定だった。住民を追い出して……魔術研究の実験場に……」


 広場が完全に静まり返った。

 怒りを通り越した沈黙だった。


 やがて、ディーターの口から最後の言葉が漏れた。


「……全部、父の命令だ。でも……従ったのは、俺だ。俺の意思で……従うことを……選んだ」


 それが最後だった。

 全ての真実を吐き出したディーターは、広場の石畳に崩れ伏して、子供のように泣いた。


 三十名の騎士たちは、指揮官の告白を聞いて、一人、また一人と剣を収めていった。

 最後の一人が鞘に刃を戻す乾いた音が、広場に響いた。


 右手の紋章が、消えた。

 十八年間宿っていた光が、音もなく消えた。


 手の甲がただの肌になる。


 使った。

 一生に一度の力を、使い切った。


 殿下が、私の前に歩いてきた。


「フィーネ。……なぜ、私にではなく」


「殿下に何を命じるのです?」


「『目を覚ませ』でも、『助けろ』でも。何でもよかった」


「殿下は、もう目を覚ましていたでしょう。大神殿の力で」


「でも、ディーターを止めるだけなら——」


「止めただけでは、同じことが繰り返されます。必要だったのは真実です。全ての人が聞こえる場所で、全ての真実が語られること。それが一番確実で、一番公正な使い方でした」


 殿下は長い間、私を見ていた。


「……君は、私を恨んでいないのか」


「恨みました。今でも少し恨んでいます」


 正直に答えた。


「私はあの力を、殿下の幸せのために使おうと思っていました。結婚式の夜に、『一生私を守って』と言うつもりでした」


 殿下の息が止まった。


「でも、復讐に使うのは勿体なかった。殿下を操るのも、本意ではなかった。だから——一番多くの人が救われる使い方を選びました」


「フィーネ……」


「殿下。これが最後の会話です」


 私は微笑んだ。


「私の力は、もうありません。ただの薬師です。どうか、ご自分の力で国を治めてください」



     ◇ 第五幕 ◇


 それから、半年が経った。


 レーゲンスブルク家は取り潰された。ディーターの告白が公の場で行われたため、隠蔽は不可能だった。

 ベアトリクスは禁術の使用で有罪となったが、父に強制されていたことが斟酌され、修道院での謹慎に減刑された。

 殿下は独身に戻り、国政の立て直しに奔走していると聞いた。


 リントブルクは静かな日常に戻った。

 税は元に戻り、薬草の仕入れルートも回復した。パン屋のおかみさんは「冬越しの小麦が足りた」と笑い、鍛冶屋の親父は「次の馬蹄はサービスだ」と言ってくれた。


 私は相変わらず、ラウラおばさんの薬師で調合を続けている。


 右手の甲に紋章はない。

 不思議なもので、紋章がなくなったら右手が軽くなった。十八年間、ずっと力を握りしめていたのだと気づいた。ずっと、何かに備えていた。何かのために温存していた。


 今は、ただの手だ。

 薬草を摘む手。軟膏を練る手。


 ヨハンの湿布を作る手。


 ある春の午後、ヨハンが湿布を取りに来た。


「左腕、だいぶ良くなりました?」


「おかげさまで。剣はまだ無理だけど、日常生活には困らなくなった」


「よかった」


 湿布を渡す時、指が触れた。

 右手。紋章のない、ただの手。


 ヨハンが、少しだけ目を丸くした。


「フィーネさん」


「はい」


「手、柔らかくなりましたね」


「……え?」


「前はいつも、右手だけ強く握ってた。何か大事なものを守ってるみたいに。最近は開いてる」


 気づいてたのだ。この人は。


「……守るものが、なくなったんです」


「捨てたの?」


「使い切りました」


「後悔してる?」


 少し考えた。


「……してない、と思います。ちゃんと使えた気がするから」


 ヨハンは笑った。


「じゃあ、空いたその手で、今度うちの庭の薬草園、手伝ってもらえませんか。一人じゃ広すぎて」


 不器用な誘い方だった。

 庭の手伝いなのか、それとも別の意味なのか、本人も分かっていないような顔だった。


 私は笑った。


「いいですよ」


 右手を差し出した。

 手の甲には何もない。星の光も、絶対の力も、もう何もない。


 ヨハンは一瞬だけ目を丸くして、それから、笑った。


 彼の右手が、私の右手を握った。

 左腕がうまく動かないから右手だけ。不器用に、でもしっかりと。


 温かい。


 紋章が宿っていた頃には感じなかった温もりだった。

 力が詰まっていた手は、いつも少しだけ冷たかった。握りしめすぎて、血が通わなかったのかもしれない。


 今は違う。

 空っぽの手は、ちゃんと温かい。


「……フィーネさん」


「はい」


「手、あったかいですね」


「ヨハンさんもです」


 窓の外で、春の風が薬草園を揺らしている。

 リントブルクの小さな春。


 一度きりの命令は、もうない。

 でも、空いた手で握り返せるものがある。


 それだけで十分だと、紋章のない右手が教えてくれた。



(了)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


もし「全部失ってでも誰かを守りたい」という物語がお好きでしたら

『幼馴染の騎士団長に並びたくて、感情を一個ずつ魔力に変換していったら、王国を救っちゃいました。』

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感情を一つずつ燃やして強くなった魔術師が、最後に残った恋心を差し出す話です。

よろしければ覗いていただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
フィーネは自分が1番後悔しない使い方を選択出来て良かったです。 殿下が裏切ったのは自分の意思じゃないとか思ってるけど、公開婚約破棄したりそれに対して謝罪無しだったり充分クズでは?今回の件で評判下げて…
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