婚約破棄された私の「一度きりの絶対命令」を、殿下への復讐に使うのは勿体ないと思いまして
◇ 第一幕 ◇
私には、この世でたった一度だけ、誰かに絶対の命令を下す力がある。
「星命の一言」と、一族は呼んでいた。
対象は一人。命令は一回。何を言っても構わない。
「死ね」と言えば、その人は死ぬ。
「跪け」と言えば、王でも跪く。
「愛せ」と言えば、愛してくれる。
絶対に。例外なく。逆らえない。
ただし、一生に一度きり。使えば消える。
――怖い力だった。
物心ついた頃から、右手の甲に星型の紋章があった。温かくも冷たくもない、ただ「在る」という感覚。
母は私を抱きしめて言った。
「いつか本当に大切な人ができた時に、使いなさい」
父は私の頭を撫でて言った。
「使い方を間違えるな。使った後に後悔するような一言を選ぶな」
私は頷いた。
そして十歳の時にクラウス殿下と婚約して、すぐに決めた。
婚礼の夜、殿下に「一生、私を守って」と命じよう。あるいは「ずっと健康でいて」でもいい。殿下の幸せのために使おう。
それが、一番正しい使い方だと思った。
八年間、ずっとそう思っていた。
八年間だ。
「――フィーネ嬢。長い間、感謝していた。だが、私の心はベアトリクス嬢とともにある。婚約は、本日をもって解消させてほしい」
夜会の大広間で、クラウス殿下はそう言った。
二百人を超える貴族の前で。隣にレーゲンスブルク伯爵令嬢ベアトリクスを従えて。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れた。
音がした気がした。八年分の期待と準備が、一瞬で紙くずになる音。
右手の紋章が、熱く脈打った。
使える。今すぐ使える。
「跪け」と言えば、この場で跪く。
「撤回しろ」と言えば、婚約破棄を撤回する。
「ベアトリクスを忘れろ」と言えば、記憶から消える。
何でもできる。
右手が震えた。
唇が開きかけた。
――「後悔するような一言を選ぶな」
父の声が、脳裏をよぎった。
私は唇を噛んだ。
血の味がした。
「……殿下」
「何だ」
フロアの空気が張り詰めた。二百の視線が私に注がれている。使うのか。この場で何かをするのか。
「八年間、ありがとうございました」
それだけ言って、一礼した。
大広間を出た。廊下を渡り、階段を降り、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まった瞬間、右手を左手で握りしめた。
使わなかった。
使えたのに、使わなかった。
右手の紋章が、まだ熱い。命令を使いたがっている。あるいは、私自身が使いたがっている。
「――ばか」
誰に向けたともわからない一言が、暗い馬車の中に落ちた。
涙は出なかった。涙を流す余裕があったら、きっと命令を使っていた。
夜空に星が瞬いていた。
右手の星型の紋章と、同じ光。
使わなくて、よかったのか。
使うべきだったのか。
答えは出ない。
ただ確かなのは、この力がまだ私の中にあるということ。
たった一度きりの、絶対の命令。
私はまだ、それを持っている。
◇ 第二幕 ◇
実家に二日だけ泊まって、辺境の街リントブルクに移った。
父の古い友人が薬師を営んでおり、手伝いとして置いてもらえることになった。
王都から馬車で七日。石畳の代わりに土の道、宮殿の代わりに木造の家並み。小さな街だった。
ここなら、誰も私を「絶対命令を持つ令嬢」とは知らない。
薬師の仕事は性に合っていた。
薬草の調合は、分量と手順を正確に守れば結果がついてくる。計算と忍耐の世界。宮廷政治よりずっと誠実だ。
街の人々は最初よそよそしかったが、風邪薬を作り、切り傷の軟膏を調合し、子供の発熱を下げる薬湯を処方するうちに、少しずつ受け入れてくれた。
「フィーネさん、うちの婆ちゃんの膝が楽になったって。ありがとう」
パン屋のおかみさんがクルミパンを差し入れてくれた日、ようやくここが「私の場所」になった気がした。
薬師のラウラおばさんは、私の事情を察していたが何も聞かなかった。ただ一度だけ、薬草園で二人きりの時に言った。
「辛い恋をしたんだね」
「恋だったのか、わかりません」
「八年も想い続けたなら、恋だよ」
そうかもしれない。でも、恋と呼ぶには計画的すぎた。婚礼の夜に「守って」と命じようとしていた女の感情を、恋と呼んでいいのだろうか。
リントブルクで暮らし始めて一ヶ月が経った頃、ヨハンという青年に出会った。
街の自警団の団長で、元は王都の騎士だったらしいが、怪我で退役して故郷に戻っていた。左腕にうまく力が入らないらしく、薬師に通っていた。
「フィーネさんの湿布、効きますね。前の薬より全然いい」
「ラウラおばさんの処方を少しだけ変えただけです」
「少しの差で結果が変わるんだ。大事なことだ」
ヨハンは穏やかに笑う人だった。損得を考えない目。裏を探る必要のない声。
宮廷では出会わなかった種類の人間だった。
――もしヨハンに命令を使ったら。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「幸せになって」と命じたら、この人は絶対に幸せになる。
悪い使い方ではない。むしろ善い使い方だ。
でも、すぐに打ち消した。
命令で与えた幸せは、本当の幸せなのか? 選択の自由を奪った上での幸福に、意味があるのか?
右手の紋章が疼くたびに、同じ問いがぐるぐると回る。
ある日、王都から新聞が届いた。
クラウス殿下とベアトリクス嬢の婚約披露の記事。華やかな式典の描写。「世紀のご成婚」と見出しが踊っている。
腹の底が、冷たくなった。
紋章が熱くなる。
――「ベアトリクスの本性を暴露しろ」。
今すぐ王都に行って、殿下にそう命じれば。殿下は逆らえない。ベアトリクスの全てを調べ、暴き、公表する。
復讐としては完璧だ。
私は新聞を丁寧に畳んで、薪の下に入れた。
火をつけた。
紙が燃える音を聞きながら、右手を握り締めた。
まだ使わない。まだだ。
こんなことのために、一生に一度の力を浪費してたまるか。
……でも。
「こんなこと」と言い切れるほど、心は軽くない。
翌日、ヨハンの湿布を調合していた時のことだった。
「フィーネさん」
「はい?」
「右手、そんなに強く握ってたら薬草が潰れますよ」
はっとして手を開いた。カモミールの花弁が、手のひらの中でぐしゃぐしゃになっていた。
「……すみません」
「前からちょっと気になってたんですが」ヨハンは新しいカモミールを差し出しながら言った。「右手だけ、いつも力が入ってますよね。何かを握りしめてるみたいに」
心臓が跳ねた。
この人は、見ている。私の右手を。紋章のことは知らないはずなのに、力の気配を感じ取っている。
「……癖です」
「そうですか」
ヨハンはそれ以上聞かなかった。代わりに、少しだけ真面目な顔で言った。
「俺の左腕はもう治らないって、王都の医師に言われました。でもフィーネさんの湿布で、痛みはだいぶ楽になった」
「それは湿布の効果であって、私は——」
「だから、もし何かあっても」
彼は、私の右手を見た。握りしめている右手を。
「その手にあるものを、俺のために使わないでください」
呼吸が止まった。
「左腕が治らなくても、俺は自分の人生を生きてます。誰かに『治してもらう』んじゃなくて、この腕でやれることを探したい。だから――」
「……どうして、そういうことが分かるのですか」
「分かりませんよ、何も。ただ、右手を見てると、すごく大事なものを持ってるんだろうなって」
私は、泣きそうになった。
この人は何も知らない。「星命の一言」の存在も、私の一族のことも。
なのに、「使わないでくれ」と言った。
自分の不幸を他人の力で解決してほしくないと、はっきり言った。
殿下に言われたかった言葉を、この人が言った。
右手の紋章が、ほんの少しだけ冷えた。
初めてだった。温かくなるのではなく、冷えたのは。
まるで、紋章自身がほっとしたように。
◇ 第三幕 ◇
リントブルクに暮らして三ヶ月が過ぎた頃、異変が起きた。
まず、税が上がった。
辺境の小さな街に、王都から新しい徴税官が来て、従来の倍の税を要求した。
「レーゲンスブルク伯爵家の令達だ。王太子妃殿下のご意向である」
ベアトリクスの実家。
婚約が正式に成立し、レーゲンスブルク家は宮廷での発言力を急速に拡大していた。辺境の税収を自家の懐に流し込む仕組みを作ったのだろう。
街の商人たちが困窮し始めた。パン屋のおかみさんは「冬越しの小麦が足りない」と泣いた。
次に、薬草の仕入れが止まった。
山向こうの薬草園がレーゲンスブルク家に買い上げられ、辺境への出荷が禁じられた。
ラウラおばさんの薬師も、私の調合も、材料がなければ何もできない。
「あの伯爵家め……」ラウラおばさんが珍しく声を荒げた。
私は黙って薬棚を整理していた。
残りの在庫で、あとどれくらい持つか計算する。二ヶ月。冬の前に尽きる。
ヨハンが自警団の報告に来た。
「街道に関所が設けられた。レーゲンスブルク家の紋章つきだ。通行に許可証がいるようになった」
「……封鎖するつもりですか」
「分からない。でも、このままだと街が干上がる」
ヨハンの顔が険しかった。
元騎士としての本能が、戦闘の可能性を嗅ぎ取っているのだろう。
その夜、自室で右手を見つめた。
紋章が、静かに光っている。
使おうと思えば、使える。
レーゲンスブルク家の当主に「辺境から手を引け」と命令する。絶対に従う。一言で全てが解決する。
でも、それでいいのか?
レーゲンスブルク家の当主に使えば、当主一人は従う。しかし家は残る。仕組みは残る。当主が死んだら命令は終わる。根本的な解決にはならない。
なら、殿下に使うか?
「ベアトリクスと婚約を解消しろ」と命じれば、全てがひっくり返る。レーゲンスブルク家の権勢は消え、辺境の税も元に戻る。
でもそれは、私が殿下の人生を操ることだ。八年前に婚約した時から夢見ていたこと——殿下を支配すること——を、最悪の形で実現してしまう。
枕に顔を埋めた。
選べない。
使いたいのに、使えない。
翌週、予想もしなかった来客があった。
クラウス殿下の侍従長、ヴェーバー侯爵。
「フィーネ嬢。お元気そうで何よりです」
薬師の店先に、宮廷の高官が立っていた。異様な光景だった。
「単刀直入に申します」
ヴェーバー侯爵は、声を低くした。
「殿下は、ベアトリクス嬢に操られております」
「……はい?」
「レーゲンスブルク家は、古い魔術の家系です。ベアトリクス嬢は殿下に微弱な暗示魔術をかけている疑いがある。殿下の判断力が明らかに低下しています。婚約破棄も、彼女の影響下での決断だった可能性が高い」
心臓が、跳ねた。
「殿下の近臣は半数がレーゲンスブルク家に入れ替えられました。私も近く更迭される見込みです。通常の手段では、もう手遅れです」
侯爵は、私の右手を見た。
……知っているのだ。「星命の一言」の存在を。
「フィーネ嬢。お願いです。殿下に命令してください。『ベアトリクスの暗示から目を覚ませ』と。それだけで、全てが解決します」
右手が、震えた。
殿下を助けるために使う。
国を救うために使う。
正しい使い方だ。大義がある。誰もが納得する理由がある。
しかし。
「殿下を……助けるために?」
「はい。殿下はあなたの力を必要としています」
笑いが込み上げた。
必死に堪えたが、声が震えた。
「殿下が必要としているのは、私の力です。私を、ではない」
ヴェーバー侯爵は、答えなかった。
「……考えさせてください」
「お時間がありません。来月の戴冠式までに手を打たなければ――」
「考えさせてください」
侯爵を送り出した後、裏庭に出た。
冬の空気が肺を刺す。
殿下を助けに行く。一族の力で、国を救う。
それは美しい物語だ。
婚約破棄された令嬢が、それでも殿下を救う。感動的じゃないか。
でも。
使った後、私には何が残る?
力を失った「元婚約者」。殿下に感謝はされるかもしれない。でもそれだけだ。殿下はまた別の婚約者を見つけ、私はまた「ありがとう、友人として大切に思っている」と言われる。
八年前と同じだ。
私は便利な道具で、愛される人間ではない。
壁に背中をつけて、空を見上げた。
星は出ていない。曇り空だった。
――復讐に使う。
その選択肢が、初めてはっきりと形を持った。
ベアトリクスに「王宮から去れ」と命じる。
あるいは殿下に「婚約を破棄したことを一生後悔しろ」と命じる。
どちらも可能だ。
どちらも、きっと胸がすく。一瞬だけ。
でもその後に残るのは、空っぽの右手と、空っぽの自分だ。
復讐でもない。救済でもない。
なら、何のために使えばいい?
私はしゃがみこんで、顔を膝に埋めた。
答えが出ないまま、一週間が過ぎた。
◇ 第四幕 ◇
答えが出る前に、事態は動いた。
レーゲンスブルク家の騎士団が、リントブルクに来た。
三十名の武装した騎士と、指揮官のベアトリクスの兄、ディーター・レーゲンスブルク。
「リントブルクの住民に対し、特別税の未納分の即時納入を命じる。払えぬ者は財産を差し押さえ、なお不足する場合は労役に処す」
街の広場で、ディーターは宣言した。
住民たちの顔が青ざめた。
パン屋のおかみさんが赤ん坊を抱いて泣いていた。鍛冶屋の親父が拳を握りしめていた。
ヨハンが自警団を率いて前に出た。
「この税は不当だ。王国法に定められた辺境税の上限を超えている」
「黙れ。これはレーゲンスブルク家の令達だ。王太子妃殿下のご意向に逆らうのか」
「王太子の正式な勅令ではないだろう。伯爵家の私令に法的拘束力はない」
ディーターの顔が歪んだ。
「ならば、力で示してやろう」
騎士たちが剣を抜いた。
ヨハンが住民たちを背にして構えた。左腕に力が入らないのを、右腕一本でカバーしている。
自警団の若者たちが武器を取ったが、正規の騎士団相手では話にならない。
そこに——
「止めなさい」
声が、広場に響いた。
私ではない。
広場の入り口に、馬車が停まっていた。
降り立ったのは——クラウス殿下だった。
息が、止まった。
殿下は以前より痩せていた。目の下に隈がある。しかし、その目には意思の光があった。暗示かけられた人間の虚ろさは、なかった。
「ディーター・レーゲンスブルク。この私令に私の許可は出していない。即刻、剣を収めろ」
「殿下……! なぜここに」
「ヴェーバー侯爵から報告を受けた。辺境で何が起きているか、確認しに来た」
殿下の目が、人混みの中の私を見つけた。
一瞬だけ、目が揺れた。
ディーターが歯軋りした。
「殿下。これは王太子妃殿下のご意向で――」
「ベアトリクスの暗示は、三日前に解けた。大神殿の聖職者に解除してもらった」
広場に、どよめきが走った。
「ベアトリクス本人は拘束されている。暗示魔術の行使は王国法違反だ。レーゲンスブルク家は現在、宮廷から調査を受けている」
ディーターの顔から血の気が引いた。
「嘘だ……そんなことが……」
「嘘ではない。だからこそ、私自身がここに来た。辺境で行われた違法な徴収を止めるために」
殿下は毅然としていた。
あの夜、婚約を破棄した時のような迷いはなかった。
……暗示が解けたのだ。本来の殿下に戻ったのだ。
胸の奥が、ちりりと痛んだ。
ディーターが顔を歪ませた。
「……殿下がお一人で来たということは、王都の騎士団はまだ動いていないということだ」
ディーターの声が変わった。冷たく、計算高い声に。
「こちらには三十名の騎士がいる。殿下の護衛は何人だ?」
殿下の後ろにいた護衛は、四人だけだった。
「殿下を拘束し、暗示が解けていないと主張すれば、時間は稼げる。その間に本家と連絡を取れば――」
「反逆罪だぞ」
「証拠がなければ、ただの護衛だ」
ディーターが手を上げた。
騎士たちが、殿下を囲み始めた。
住民が悲鳴を上げた。ヨハンが剣を抜いた。
私は、右手の紋章が燃えるように熱くなるのを感じた。
今だ。
今なら使える。使う理由がある。
ディーターに「止まれ」と命じれば、全てが止まる。
殿下に「逃げろ」と命じれば、絶対に逃げられる。
ベアトリクスに「全てを告白しろ」と命じれば——いや、ベアトリクスはここにいない。
選べ。
今すぐ。
ディーターに復讐の一言を?
殿下を救う一言を?
住民を守る一言を?
右手を上げた。
ディーターが、私を見た。
殿下が、私を見た。
「フィーネ……!」
殿下が叫んだ。
「その力で! 頼む、フィーネ!」
分かっている。殿下は知っていたのだ。私の力を。侯爵から聞いたのだろう。
だから今、私に頼んでいる。
殿下のために使う。
国のために使う。
正しい選択だ。
――でも、殿下。
八年間、私はあなたのために温めてきた。
「一生私を守って」。
あなたの幸せのために使うと決めていた。
あなたはそれを知らずに私を捨てた。
そして今、危機になったら「使ってくれ」と叫ぶ。
私の力は、あなたのためにあるのではない。
右手の紋章が、最大の光を放った。
私はディーターに歩み寄った。
広場が静まり返った。
命令を下す。一生に一度の、たった一言を。
復讐のためでも。
殿下のためでも。
国のためでもない。
私は、真っ直ぐディーターの目を見て、口を開いた。
「――本当のことを、全て話しなさい」
星命の一言が、発動した。
右手から光が弾けた。
穏やかな光ではない。星が生まれる瞬間のような、激しく、容赦のない輝き。
光がディーターの体を貫いた。
彼の目が見開かれた。
最初、何が起きたか分かっていないようだった。それから理解が追いつき、恐怖が顔に広がった。
ディーターは抗おうとした。
唇を噛んだ。歯を食いしばった。両手で自分の口を押さえた。
首の筋が浮き上がり、額に血管が走った。あらゆる筋肉を総動員して、自分の口を閉じようとしている。
しかし、逆らうことは不可能だ。
彼の手が、自分の意思に反して口から離れた。
指が痙攣するように震えている。自分の体なのに、自分の体ではない。その恐怖が、瞳の奥で渦巻いていた。
――これが、「星命の一言」の力。
私はこの力を十八年間、体の中に飼っていた。
これほどのものを。
ディーターの口が、勝手に開いた。
最初の一言は、掠れた悲鳴のようだった。
「俺は……ッ」
止めたい。彼自身がそう叫んでいるのが分かる。
でも、言葉は止まらない。
「俺は……レーゲンスブルク家の当主に命じられて……辺境の税収を、私的に横領する仕組みを……作った」
広場がざわめいた。
居並ぶ住民の顔に、驚愕が広がっていく。
「やめ……やめろ……俺の口を……」
ディーターの目から涙が溢れた。
体は真実を語り、心はそれを止めようとしている。引き裂かれた人間の姿が、そこにあった。
「ベアトリクスの暗示魔術は……家に伝わる禁術で……父が使い方を教えた。ベアトリクスは……最初拒んだ。跪いて……父に『これだけはやめてください』と……泣いて頼んだ」
ディーターの声が震えた。
「でも父は……ベアトリクスの額を杖で打って……『お前は道具だ。道具が泣くな』と……」
殿下の顔が、蒼白になった。
ベアトリクスが自分の意思で暗示をかけたのではなかった。
「婚約破棄も……計画通りだった。ヴァルトシュタイン家の令嬢が邪魔だった。あの家には……我々でも把握できない秘術があると聞いていた。だから……先に排除した」
私の心臓が、跳ねた。
排除。私が婚約を破棄されたのは、殿下の心変わりではなかった。計画だった。最初から、全部。
殿下が一歩よろめいた。
自分の婚約破棄すら他人に操られた結果だったと知って、顔が歪んだ。
「辺境への増税は……王国財政のためではない。レーゲンスブルク家の借金の返済に……充てるためだ。三年前の魔術研究に失敗して……莫大な負債がある。それを……辺境の民の血税で穴埋めしていた」
パン屋のおかみさんが、声を殺して泣いた。
小麦が足りなかったのは、天災ではなく人災だった。
「もう……やめてくれ……頼む……」
ディーターが膝をついた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。
それでも口は止まらない。彼の喉が、彼の意思とは無関係に、真実を絞り出し続ける。
「俺たちは……この辺境の街を……最終的には……領地ごと買い上げる予定だった。住民を追い出して……魔術研究の実験場に……」
広場が完全に静まり返った。
怒りを通り越した沈黙だった。
やがて、ディーターの口から最後の言葉が漏れた。
「……全部、父の命令だ。でも……従ったのは、俺だ。俺の意思で……従うことを……選んだ」
それが最後だった。
全ての真実を吐き出したディーターは、広場の石畳に崩れ伏して、子供のように泣いた。
三十名の騎士たちは、指揮官の告白を聞いて、一人、また一人と剣を収めていった。
最後の一人が鞘に刃を戻す乾いた音が、広場に響いた。
右手の紋章が、消えた。
十八年間宿っていた光が、音もなく消えた。
手の甲がただの肌になる。
使った。
一生に一度の力を、使い切った。
殿下が、私の前に歩いてきた。
「フィーネ。……なぜ、私にではなく」
「殿下に何を命じるのです?」
「『目を覚ませ』でも、『助けろ』でも。何でもよかった」
「殿下は、もう目を覚ましていたでしょう。大神殿の力で」
「でも、ディーターを止めるだけなら——」
「止めただけでは、同じことが繰り返されます。必要だったのは真実です。全ての人が聞こえる場所で、全ての真実が語られること。それが一番確実で、一番公正な使い方でした」
殿下は長い間、私を見ていた。
「……君は、私を恨んでいないのか」
「恨みました。今でも少し恨んでいます」
正直に答えた。
「私はあの力を、殿下の幸せのために使おうと思っていました。結婚式の夜に、『一生私を守って』と言うつもりでした」
殿下の息が止まった。
「でも、復讐に使うのは勿体なかった。殿下を操るのも、本意ではなかった。だから——一番多くの人が救われる使い方を選びました」
「フィーネ……」
「殿下。これが最後の会話です」
私は微笑んだ。
「私の力は、もうありません。ただの薬師です。どうか、ご自分の力で国を治めてください」
◇ 第五幕 ◇
それから、半年が経った。
レーゲンスブルク家は取り潰された。ディーターの告白が公の場で行われたため、隠蔽は不可能だった。
ベアトリクスは禁術の使用で有罪となったが、父に強制されていたことが斟酌され、修道院での謹慎に減刑された。
殿下は独身に戻り、国政の立て直しに奔走していると聞いた。
リントブルクは静かな日常に戻った。
税は元に戻り、薬草の仕入れルートも回復した。パン屋のおかみさんは「冬越しの小麦が足りた」と笑い、鍛冶屋の親父は「次の馬蹄はサービスだ」と言ってくれた。
私は相変わらず、ラウラおばさんの薬師で調合を続けている。
右手の甲に紋章はない。
不思議なもので、紋章がなくなったら右手が軽くなった。十八年間、ずっと力を握りしめていたのだと気づいた。ずっと、何かに備えていた。何かのために温存していた。
今は、ただの手だ。
薬草を摘む手。軟膏を練る手。
ヨハンの湿布を作る手。
ある春の午後、ヨハンが湿布を取りに来た。
「左腕、だいぶ良くなりました?」
「おかげさまで。剣はまだ無理だけど、日常生活には困らなくなった」
「よかった」
湿布を渡す時、指が触れた。
右手。紋章のない、ただの手。
ヨハンが、少しだけ目を丸くした。
「フィーネさん」
「はい」
「手、柔らかくなりましたね」
「……え?」
「前はいつも、右手だけ強く握ってた。何か大事なものを守ってるみたいに。最近は開いてる」
気づいてたのだ。この人は。
「……守るものが、なくなったんです」
「捨てたの?」
「使い切りました」
「後悔してる?」
少し考えた。
「……してない、と思います。ちゃんと使えた気がするから」
ヨハンは笑った。
「じゃあ、空いたその手で、今度うちの庭の薬草園、手伝ってもらえませんか。一人じゃ広すぎて」
不器用な誘い方だった。
庭の手伝いなのか、それとも別の意味なのか、本人も分かっていないような顔だった。
私は笑った。
「いいですよ」
右手を差し出した。
手の甲には何もない。星の光も、絶対の力も、もう何もない。
ヨハンは一瞬だけ目を丸くして、それから、笑った。
彼の右手が、私の右手を握った。
左腕がうまく動かないから右手だけ。不器用に、でもしっかりと。
温かい。
紋章が宿っていた頃には感じなかった温もりだった。
力が詰まっていた手は、いつも少しだけ冷たかった。握りしめすぎて、血が通わなかったのかもしれない。
今は違う。
空っぽの手は、ちゃんと温かい。
「……フィーネさん」
「はい」
「手、あったかいですね」
「ヨハンさんもです」
窓の外で、春の風が薬草園を揺らしている。
リントブルクの小さな春。
一度きりの命令は、もうない。
でも、空いた手で握り返せるものがある。
それだけで十分だと、紋章のない右手が教えてくれた。
(了)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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『幼馴染の騎士団長に並びたくて、感情を一個ずつ魔力に変換していったら、王国を救っちゃいました。』
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感情を一つずつ燃やして強くなった魔術師が、最後に残った恋心を差し出す話です。
よろしければ覗いていただけると嬉しいです。




