第4話 俺の余白
今日は本当に何もなかったです笑
でも、友情という言葉をよく考えた1日ではありました。
友情とは何か、僕と俺は友情なのか
不思議と今日は落ち込まない日でした。
今日もいつもどおり早く目が覚めた。
違ったのは、そこから二度寝をしたことだ。
夢は覚えていない。しかし、目を閉じた裏側に、古びた木の匂いと夕方の光だけが残っているようだった。記憶か想像かも不確かだが、俺はそういう「根拠のない懐かしさ」を嫌わない。
感情が論理を裏切る稀な瞬間だからだ。
今日は何もない。
予定表は白紙に近く、世界が何も要求してこない日だった。
こういう日は、むしろ思考が深まる。刺激が少ない日のほうが、精神は余計な入力を遮断し、一次関数のようにまっすぐ沈んでいく。
やる気はない。
ゼミに顔を出せば「忙しいんでしょ?」と言われる。
――忙しくない。
外側からの印象と内側の実感が乖離しているのは、俺が“僕”を内包しているせいだろう。僕は予定を埋めることで不安を消す性質をもち、俺は予定を削ぎ落とすことで自由を確保する性質をもつ。
二つの動因が同じ身体の中でせめぎ合う。それが俺たちの日常の「ノイズ」だ。
四限の大学院の授業に出ても、帰っても、世界の構造は変わらない。
俺はそういう“世界への無関心”を、感情ではなく構造として理解している。
義務・必要・欲望、その三つのうち、今日の俺に働きかけてくるベクトルはどれも小さい。
ならば行く理由も行かない理由も、どちらも同じくらい正しい。
晩飯は決められない。
食欲が薄い。
冷蔵庫のレタス、米、卵はない――残っている素材を組み合わせるだけでいい。
料理は芸術ではなく、ただの「条件付き最適化」だ。
与えられた選択肢の中で最大効率を求める、それで十分だ。
不思議と孤独感はない。
昨日まで胸に残っていた“穴”は、今日は気にならない。
穴が塞がったのではなく、穴の位置に注意を向ける必要がなかっただけかもしれない。
人間の不安の大半は、対象の実在よりも“注意の向き”によって発生する――そういう合理的な理解もできる。
“僕”は今日は静かだ。
声を上げないし、顔を出さない。ただ、息をしているだけだ。
俺が前に立っている日は、“僕”は観測されない位置に退く。
それは否定でも排除でもない。
単純に「役割分担」だ。
昼過ぎ、暇つぶしにAIに友情について尋ねた。
返答はこうだった。
友情とは「相手によって自分が変わる自由」が許される関係。
自分がいていい。相手もいていい。
その二つが同時に成立する場所。
これを聞いて、俺は即座に構造を整理した。
友情とは、
①変容可能性(自分が揺らげる領域)
②存在許容性(相手がそこにいてよい領域)
③相互不拘束性(互いが互いを強制しない領域)
の三点によって成立する心的空間だ。
恋愛はどうか?と尋ねたら、AIはこう言った。
恋愛 = 友情 ×(独占性 + 深度 + 自己変容の強度)
これは言い得て妙だ。
友情は水平に広がり、恋愛は垂直に沈む。
俺が恋愛を窮屈と感じ、“僕”が恋愛に過剰な期待を抱く理由が、これで説明できる。
“僕”は垂直方向に依存し、俺は水平方向で安定する。
――そこでふと思う。
俺と“僕”の関係も、実は友情の構造に近いのではないか、と。
俺は“僕”を抑圧していない。
“僕”は俺を否定していない。
互いに役割が違い、同じ身体の中で補完し合っている。
哲学的に言えば、
俺と僕は同一実体に属する二つの「様態(modi)」だ。
ライプニッツ風にいえば、
同一モナドの内部で異なる表象を生きている状態だ。
そしてロッツェの言葉を借りれば、
二つの心的傾向が、同じ“妥当性の場”の中で彼岸と此岸を往復するような関係
なのだろう。
だから俺は、俺であるために“僕”を必要とするし、
“僕”は壊れないために俺を必要とする。
友情とは、
血縁でも恋でもなく、
「相手の存在を条件として、自分の精神が安定する関係」だ。
そう考えると――
俺と“僕”は、最も根源的な友情の形を既に生きている。
今日は何も起きなかった。
だが、この静けさの中でだけ考えられることがある。
友情とは、人間が自分の中に“もうひとつの椅子”を置くこと
なのかもしれない。
そこには、座りたい時に座れ、立ちたい時に立てる自由があり、
座る相手が誰であれ、肯定される余白がある。
――今日の俺の心には、その椅子がひとつ、静かに置かれていた。
今日のエピソードは内容がなさすぎて短くなりました。
俺は合理的で利益を常に考えて生きています。
そんなのつまらないと心のどこかで声がした気がします。
生きているのが辛いと思うより、つまらない程度で済んでいる方が断然いいと思う日でした。
今日も拙い文章に付き合っていただき、誠にありがとうございました。
また明日もお付き合いいただけると幸いです。




