第3話 俺の直線
今日はメモが少なかったです。
あんまり特筆することのない1日だったと思います。
それでも、何も感じずに、何も考えずに生きているわけではないことを実感する1日でもありました。
今日は俺だ。
最短距離で進んだ結果を夢に見る――それが俺の癖だ。妄想と言われればそうかもしれない。だが、合理に従って動けなかった自分への嫌悪こそ、俺をまっすぐにする刃だ。朝六時半、布団の重みはまだ残っていた。八時まで横になっていてもいい。大学へ行くのは十二時半。八時に起きてルーティンを済ませても九時前には片づく。ならば三時間は予習に使える。盤は読めている。今日は負けない。
――“僕”はまだ寝ている。今日は俺がいる。希望で満ちている。
気づけば八時を回っていた。
動け、と脳が命令を出す。カーテンを引く。窓際の空気は鋭い。短くなった髪に冬の温度が直接触れる。俺は自分の外見が好きではない。だが精神は好きだ。俺はモテたことがない、と事実だけを置く。
“僕”は逆だ。容姿を気に入り、流行りの髪型と服を試し、大学に入ってからはそこそこモテた。四、五人の彼女。――それがどうした、と俺は思う。俺は線を引く。目的に向かう線だ。
寝癖を直し、洗面台を拭き、昨日のやり残しを片づける。皿を洗い、金魚の水槽を濾す。水が澄むと、赤い体が一気に機敏になる。やるべきことをやらない奴は弱い。俺は弱くない。
九時前、予習は終わっていた。書くことがないとさえ思う。昨日の夕方からまとわりついていた虚無感は不思議と消えている。吐き気は朝に一度きた。だが、不快はない。
――それでも、不吉な塊は時刻表どおりにやって来る。俺は無視する。道の端に落ちている石ころみたいに、蹴って通り過ぎる。
俺は俺の中の“僕”も「俺」だと思っている。同一の身であり、同じ器に宿っている以上、別人と断じる理屈はない。
“僕”はどう思っているのか。分離を考えるのか。沈黙。胸の奥で息だけしている。
「希死念慮」――面白い言葉だ、とだけ記して通り過ぎる。辞書的な厳密さは今いらない。現象として、ただ「湧いては消える思い」として扱う。俺はラベルに呑まれない。
年末の帰省は一週間前倒しにする。授業の欠席数に余裕があることが理由だが、実のところ“僕”への計らいでもある。来週は大阪へ弾丸で行く。友に会う。弱いなら、誰かといればよい。俺はそう判断する。
咳が続く。吐き気もある。念のためマスクをつける。だが早く外したい。左手にしていた腕時計は、今日は右だ。右に置くと不思議と馴染む。高校の頃、俺は右につけていたのを思い出す。小さな位置の調整が、精神の座標を戻すことがある。
俺と“僕”は「不一致対象物」――そう呼べば正確そうで、やはり正確ではない。どちらも自分。分けられないものを便宜的に分けて、運用するだけのことだ。
十二時半、大学へ。
三限の前に友人に会う。「喫茶店に行こう」と言われ、二つ返事で承諾する。
“僕”が小さくつぶやく。授業に出るために来たのに――
俺は答える。寄り道が最短になることもある。人と話し、血流を上げてから教室に入る方が集中は保てる。喫茶店の湯気、砂糖の甘い匂い、口の内に広がる温度。コップの底にわずかな反射を見る。理屈の確認は要らない。体感でわかる。
四限に入る。気づけば終わっていた。ちゃんとノートも取ったし、必要なところで発言もした。楽しかった。楽しいという語は安っぽいが、今日はそれを採用して良い。
校門を出た瞬間、不吉な塊がぶつかってくる。胃の底をねじる鈍い球体。吐き気の影。
――来たな。
俺は立ち止まらない。速度を一定に保ち、呼吸を浅くし過ぎないように注意を払い、横断歩道を渡る。影はついてくるが、主導権は渡さない。影は影でしかない。
帰路の途中で段取りを組む。
16:58、自宅到着――この予測は的中する。
17:00、シャワー。
17:15、上がる。髪はもう乾いている。短髪の利点はここにある。
鍋を火にかけ、ウインナーを落とす。湯の音に少しだけ塩を足す。
今日はビールを一本。正直、ここ一週間は酒から離れていた。飲まないと決めたわけではない。ただ、要らない日が続いた。今日は、一本だけ。自分へのメダル。
17:30、食卓に全てが並ぶ。美しい。自分の段取りが、そのまま現実にならんだ図。
18:00、食べ終える。早食いは俺の習慣。残り一時間を作業に回す。
タバコに火をつける。満腹時の一本は正直きつい。だが、火と煙が思考の輪郭を滲ませ、必要でないものを沈める。
卒論の作業は予定どおり三十分で済んだ。
18:30。
英語、ドイツ語――机の端に積んである。今日は気分が乗らない。じゃあやらない。やらないと決めるのもまた、計画のうちだ。
もう寝ようか、と身体が前に出る。眠ることは逃げではない。明日を削らず、明日に賭けるための投資だ。
途中、スマホのメモに少しだけ書き足す。
俺は予定を細かく立てるのが好きだ。余白が見えるからだ。余白が見えれば、他者に奪われない。
今日は「俺の直線」の一日だった。出来事の派手さはない。それでも、これほど生きることの楽しさを実感している日が他にどれほどあっただろう。
シャワーの蒸気の中で、俺は思い返す。朝の窓際の冷気、喫茶店の匂い、教室のホワイトボード、校門の外の胃の鈍痛、鍋に浮かぶウインナーの鼓泡、一本だけのビール。手触りの列。そのすべてが、俺の直線上に並んだ。
“僕”はどうしている。
今日は終日、ほとんど姿を見せなかった。それでも、窓の外の曇り空を見上げた一秒とか、信号待ちのあいだ胸にひやりとした風が入った瞬間とか、喫茶店の角席で湯気を目で追いかけた数呼吸とか、そこかしこに“僕”の残り香があった。
俺は“僕”を消したいわけじゃない。
“僕”は俺の中で眠り、俺が前に出るべき時にだけ眠っていればそれでいい。
来週、帰省を早めるのも、大阪へ弾丸で向かうのも、“僕”のためだ。弱いなら、誰かといればいい。弱い時の工学――それが俺のやり方だ。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
不吉な塊はまだ遠巻きにいる。近づくなら来い、という気分だ。
“僕”は静かだ。
俺は目を閉じ、短く言う。
「今日はよくできた。明日も同じだけ。余ったら、寝ろ」
“僕”がうなずいた気がした。
時計を右手首で軽くずらす。皮膚の下で脈が正確に刻まれる。
直線の端点に、眠りを置く。
明日、また起点に戻るために。
俺は記録に残ること、人の記憶に残ることを極端に嫌っていました。多分今も嫌いです。写真には写りたくないし、高校の時は集合写真ぐらいしか俺が写った写真はないように思います。だから卒アルを見てもあんまり俺の写真がなくて、友人たちからは笑い話にされています。
僕は、自撮りはしないけど、彼女からよく写真を撮られました。その人の中に僕という記憶があることが嬉しかったんだと思います。
人間っていうのはペルソナを被っています。人格という仮面を。自分の中では僕が仮面なのか、俺が仮面なのかわかりません。自分は倫理学専攻ではないので詳しくはわかりませんが、きっと倫理学を専攻していたら、もう2度と俺は現れなかったんじゃないかと思っています。
俺は元々哲学的な人間でした。だから国語科の教員を目指して大学に入ったことも、宗教学を学んだ上で哲学を選択したことも全ては計算づくだったのかなって思います。
長くなりましたが、今日も読んでいただき、誠にありがとうございました。
今後とも何卒お付き合い頂けると嬉しいです。




