第19話 喪失の理由を知る日
今日も駄文にお付き合いください。
今日は朝5時ごろに目が覚めた。胃なのか、それとももう少し深い場所なのか判別できない痛みが鳩尾を貫いていた。朝の薬を飲んでしばらく待ったが痛みは引かず、痛み止めを飲んでようやく息がつけるほどに和らいだ。今日はバイトの予定がある。行かなければならない。しかし、鳩尾の痛みは横腹へも広がり、9時には何も食べていないのに激しく吐いた。内臓全体が裏返って飛び出すのではないかというほどに吐いた。これは無理だと悟った。
バイトを休めば身体は休まる。しかし精神は、また誰かを失望させてしまう恐怖で満たされる。自分が薄い紙のように脆く、誰かの期待の風圧ひとつで破れそうな気がする。今日の状態は、さすがに親に相談した。心配してくれたが、その優しさですら胸のなかの罪悪感には触れられない。
ベッドで横になり、気づけば14時になっていた。痛みも吐き気もある。それでも「動かなければ」という、ほとんど強迫観念のような衝動に突き動かされて体を起こした。洗い物をし、排水溝を掃除し、昼の薬を飲んだ。腹は減っていない。いや、減っているのかもしれない。ただ食べたところで吐く未来しか想像できず、食べるという選択肢が存在しなかった。
昨晩は激しい苛立ちに支配されていた。今はその苛立ちこそないが、自分の行為への罪悪感と、人に失望される恐怖は一切減っていない。静かに残り続ける残響のようだ。落ち着かない。もしバイトに行っていれば、余計なことを考えずにすんだだろう。休んだことで空いた時間が、かえって心の空白を拡大していく。
部屋は散らかっているが、生活に支障が出るほどではない。片付けるべきなのは書斎だ。そこには積まれた本と未処理の段ボールがある。視界に入るたび、片付けなければと思う。しかし、気力は湧かなかった。時間だけが毒のように溜まっていく。
父さんは「時間が余っているお前が羨ましい」と言った。仕事をして帰って風呂に入り、食事をして寝るだけで一日が終わってしまう、と。父さんの言葉は正しい。僕も一日中やることがあって、それをこなすだけで夜になる生活の方がきっと心は安定する。今は時間だけが余り、気持ちだけが不安定だ。大学生活が“人生の夏休み”と言われる理由がわかってしまう。夏休みは、心にとっては毒になることもある。
気分転換に、お土産でもらったドイツの紅茶を淹れた。海外の香りがした。どこか甘く、紅茶らしくないのに落ち着く香りだった。柑橘系の皮が混ざっているのだろう、軽くて飲みやすかった。罪悪感や不安が、いっとき霧のように薄れた。まるで彼女と一緒にいるときに感じる安心に似ていた。僕は最近、この安心感を自分だけで確立したいと思っている。人に依存しない幸福。身体が健康で、心がなぎのように静かな生活。それを求めているのだ。
なのに僕の精神は、常に揺れている。支えがどこにもないからだ。
自分ひとりで立っているように見えて、実際にはずっと傾いている柱みたいだ。
ふと、中学高校の頃を思い出す。朝7時半には学校にいて、授業がびっしりで、昼食を挟んでまた授業、放課後には部活があって、帰る頃には夜で、風呂に入ってご飯を食べ、課題をして、23時に寝る。その繰り返しだった。忙しい毎日だったはずなのに、今思えば何より健全で幸福だったのではないかと思えてくる。
冷めた紅茶は甘さが強くなっていた。その甘さを舌に感じた瞬間、恋愛はこういう甘さなのかもしれないと思った。熱が引いたあとに残るやわらかい甘み。今の僕は燃える恋ではなく、相手を愛しているのかどうか自問するくらいには冷めている。でもそのなかでふいに蘇る記憶が、異様に甘美だった。
体調が落ち着いたので、車の簡単な洗車をした。窓を軽く洗い、買い物に出かけた。冷蔵庫が空だったので必要なものを買い込んだ。家に戻り、片付け、米を洗って炊飯器のスイッチを押した。16時頃。もしバイトに行っていれば仕事をしている時間だ。だからまた罪悪感が襲ってくる。
明日は元バイト先の先輩とご飯に行く約束がある。朝の体調しだいだと事前に伝えておいた。母親には「随分疲れてるね」と言われた。そんなつもりはないが、他人から見える疲労というのは、往々にして自覚よりも正確だ。
書斎の積んであった本を少し片付けた。本棚はもう満杯だ。大学院に合格したら本棚を増設しよう。その想像がなぜか胸に痛みを作る。僕は稼いでいない。バイト代はたかが知れている。親の仕送りと支援で生きている。必要なときは買うが、普段は節制している。お金を使うことは精神を削る行為だとすら思う。
晩ご飯は鍋にした。締めのうどんを食べる頃、また不吉な塊のような不安が胸を突いた。
明日は念願のハンモックが届く予定だ。安くなっていたので思い切って買った。子供の頃からの夢だった。今、不安と恐怖に押しつぶされそうな自分には、明日届く“夢”が少しだけ未来の灯りに思えた。
寝る前にタバコを吸った。日課になってしまった悪癖だ。タバコがちょうど切れたので、これを機に帰省するまではやめようと決めた。父さんと一緒にいるとまた吸ってしまうかもしれないが、それでも今は一度止めたかった。
夜の紅茶を淹れた。昼とは別の茶葉だが、これも彼女からもらったドイツの紅茶だ。甘さが上品で、しつこくなく、静かに香る。飲んでいる間だけは、不安も恐怖も光に溶けたように消える。
紅茶を飲みながら、昨日と同じようにロマン・ロランの言葉を思い出す。自分を理解し、自分を愛すること。それが幸福だという言葉。では僕の不快感はどこから来るのか。僕は人を失いたくない。ものも捨てられない。壊れたものなら捨てられるが、使わなくなっただけでは捨てない。人も同じだ。だから失うことが怖い。だから獲得することさえ恐怖なのだ。
その構造が自分で理解できたとき、少しだけ自分に愛着が湧いた。子供の頃、お気に入りのゲームカセットを旅行中に無くして泣きじゃくった記憶が今でも胸に残っている。喪失への恐怖。それは確かにトラウマであり、今の僕の人間関係の扱い方にそのまま影を落としている。
僕は宝物を失いたくない。だから宝物を増やしたくない。その矛盾じみた防衛機制が、今の僕を形作っている。
そう気づいたとき、自分のことを愛らしいと思えた。
愚かで、幼くて、でも確かに大切な“僕”がそこにいた。
人から優しいと言われる理由もわかった。優しいのではなく、大切にしているのだ。宝物だから傷つけられたくない。失いたくない。それだけのことだ。
自分が壊れているように感じて死にたくなるのは、自分を捨てたい衝動なのだろう。それでも死ねないのは、僕の中の“俺”が壊れた“僕”をまだ捨てたくないと思っているからだ。僕は僕を見捨てていない。その事実が、今日の一番大きな気づきだった。
満足している。今日はこのまま眠ろう。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
自分は断捨離ができないんですよね笑
それなりに整理してるけど、使ってないものとかとても多いです。
そんな自分も愛らしく思います。
皆さんも自分を愛することによって幸福が感じられるかもしれません。
ぜひ、自分を見つめ直してreflectionして、自我を見つけて、幸福を感じてください。
今日も駄文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。




