第11話 僕が呼ばれ、俺が戻る日
今日も朝はすこぶる眠たかった。
高校生の頃、何度アラームを止めても起きず、
母親に怒られながら布団から引きずり出された日々を思い出す。
あの頃の俺は、眠気よりも意地を優先していた。
今日はそうはいかなかった。
眠気の奥に、どこか遠い場所から“過去の自分”が微かに呼吸しているようだった。
今日は予定がある。
昨日のように「何もない日」ではない。
気持ちに少しだけ張りがあった。
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久々に歩いて大学に向かった。
冬の乾いた空気が喉を刺す。
2限のゼミに参加する。
卒論はほぼ完成している。
教授からは、
「全体としてとても良くできている。
ただ結論をもう少し厚くした方が良い。」
と穏やかに指摘された。
俺はその言葉を素直に受け取った。
この頃の俺は、批判も助言も目的に向かうための材料としか捉えない。
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3限。
やることは特にない。
友人(片思いの相手)の授業について行き、その教室で卒論の修正を続けた。
大人数の授業だから、ひとり紛れ込んでいても誰も気づかない。
その途中だった。
強烈な吐き気が突然襲ってきた。
胃の底から何度も波が押し寄せる。
今日、何も食べていないのに、胃液だけが出続ける。
ここで俺は耐えられなくなった。
――僕が出てきた。
辛い。
しんどい。
胸を握り潰されるような不安。
“えたいの知れない不吉な塊”が心臓と胃の隙間に沈んで、僕を支配する。
帰りたい。
横になりたい。
消えたい、とまでは言わないけれど、何もしたくない。
今日の備忘録を書いているのも僕だ。
気を紛らわせようとしても、苦しさは全く薄まらない。
隣にいる友人に話しかける時だけ、
不快感が一時的に消える。
これはきっと、その人だからというわけではない。
誰かと会話していると、孤独の圧が緩むのだ。
僕は孤独が苦手だ。
1人になると、身体の不調が心を支配する。
手が震える。
寒気がする。
これは病気なのか、不安なのか。
きっと後者だ。
僕はいつもこうだ。
弱い僕を支えてくれる人が欲しい。
最も良いのは、俺が僕を支えることだ。
そうすれば、この戦いは1人で完結する。
でも僕は外に求めてしまう。
受け入れてくれる誰かを、寄りかかれる誰かを。
相談したい。
でも拒絶が怖い。
否定が怖い。
だから、誰にも言えない。
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3限が終わる。
4限は大学院の授業だった。
遅れて教室に入り、鬱々としたまま椅子に座る。
内容はカントの自由論。
読んだ瞬間、不思議と頭が冴えた。
――気づけば俺が戻ってきた。
講義の論理の中に、自分の足場を見つけた瞬間だった。
自由の多義性、理性の自律、意志の構造。
難解な概念が、僕の不安を押し返す。
俺にとって、思想は力だ。
立ち上がるための剣であり、盾だ。
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17:00。
今日の予定のために移動を始める。
楽しみだった。
待ち合わせには早めに着いた。
待つことは苦ではなかった。
期待と緊張のちょうど中間にいるような、
あの奇妙に落ち着いた心の位置。
そして会い、ご飯を食べ、お酒を飲んだ。
最初は緊張していたが、
慣れてからは楽しくて仕方がなかった。
幸福という言葉が、胸の奥で小さく灯った。
食事の帰り道、ふと気づいた。
自分を認めてもらえることは、こんなにも嬉しいのか。
俺でも、僕でもなく、
“どちらでもない自分”が肯定される瞬間だった。
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家に帰りついたのは23:30。
疲れていたが、不思議と心地よかった。
重さはあったが、苦さはなかった。
明日からも、また頑張れるだろう。
そう思えた。




