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第8話 歩き始める俺、揺れ残る僕

 今日も早起きだった。

 時計を見ると6時半。

 寒い空気の中で目が覚めたにもかかわらず、意識は驚くほど澄んでいる。

 体のどこか奥深くに沈殿していた“重み”のようなものが薄れ、静かに世界へ戻る準備が整っている感覚がした。


 枕元のスマホに通知がきていた。

 気を紛らわせるために入れていただけのマッチングアプリ。

 正直、あまり期待もしていなかった。

 でもそこに「マッチしました」という表示があった。


 とりあえず挨拶を送る。


「マッチングありがとうございます。よろしくお願いします。」


 自分でも驚くほどの定型文だった。

 顔も性格も知らない相手に期待しないようにするための、守りの一言でもある。


 だが、返事はすぐ来た。

 こんな朝に人とやり取りをするのは初めてだ。

 彼女がいた頃でさえ、朝の時間には連絡を取り合わなかった。


 相手は俺の容姿を褒めてきた。

「また外側だけか」と一瞬よぎる。

 マッチングアプリの相手なんて、どうせ――。

 その先を言葉にする前に、相手の丁寧な文面が脳を引き留めた。


 少しだけ、興味をもった。


「もし良かったら、今度電話しませんか」


 強引すぎたかもしれない。

 そう思った瞬間、


「今できますよ!」


 という返事が来た。

 驚いた。

 でも、合わなかったらそれまでだと思い、通話を始めた。



 俺はもともと自分語りが多いほうだ。

 だから、嫌になるなら電話なんてすぐ切られるだろうと半分自暴自棄で喋ってみた。


 前までの“僕”なら、

 相手の話を引き出して、

 共感して、

 時間をかけて距離を縮める方向へ動くだろう。


 でも今の俺は違った。


 自分の輪郭を曖昧にしてまで相手に歩幅を合わせる必要はない。

 自分のペースで喋りたいことを喋る。

 それが不快なら自然と会話は終わる。

 それでいい。

 俺は、俺のまま始めた。


 だが相手は意外にも、

 俺の話をよく聞き、

 適度に自分の話も返してきた。


 心地よかった。

 それは「俺という人格」が肯定された瞬間のようだった。


 俺は昨夜まとめたばかりの概念を思い出す。


 「自律した好き」

 ――自律を前提とした上で初めて生じる、主観的な快楽や欲求のことだ。


 好きだから行動するのではない。

 やるべきことを果たしてなお、

 その後に残る“快さ”を好きと呼ぶ。

 その定義が今の俺の中では最も美しい。


 30分だけの予定だった会話は、気づけば8時15分まで続いていた。

 そして木曜日に会う約束までできた。


 俺は驚きと同時に、奇妙な実感を抱いた。


 ――人生を歩んでいる。


 今日ほど強くそう思った日は久しぶりだ。



 昨日のうちに大阪行きの準備は済ませていた。

 忘れ物を確認し、11時に家を出る。


 新幹線の中、少し寝て、少し考え、少し外を眺めた。

 移動という行為の中で、人間はなぜか未来のことを考える。

 もうじき大阪に着く。時計を見ると17時に近い。


 今日は本当に、俺として動いていた。


 大阪に着いてから、各所へのお土産を選び、友人と合流した。

 懐かしい話が尽きない。

 高校の頃の空気そのままで笑い合った。


 それが俺には嬉しかった。

 俺としての自分を見せたかったのかもしれない。

 あの頃の俺は、まぎれもなく俺だったからだ。


 カラオケに行き、ふざけて歌い、

 終電で友人の家へ。


 お互い疲れていたのか、布団に入った瞬間に眠りへ落ちた。



 今日という一日は、

 “俺”としての輪郭が明確で、

 “僕”の影がほとんど消えていた。


 それでも、不思議と不安ではない。

 俺と僕のどちらでもない、

 統合された自分として呼吸できていた気がする。


 朝の通話、

 大阪への旅、

 友との再会。


 そのどれもが、俺に「歩いている」という実感を与えてくれた。


 そして夜、眠りにつく直前、

 ようやく気づく。


 ――これは、自分の人生が再び動き始めた日だったのだ。

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