プロローグ ―沈黙の呼吸―
夜になると、世界の輪郭が薄れる。
人の声も、明かりも、遠くで揺れているように見える。
その静けさの奥に、俺はもう一人の自分を感じる。
心臓の奥で小さく震えている“僕”。
声はない。けれど確かに息づいている。
この胸のどこかで、俺が目を逸らしてきたものを抱えて。
かつて俺は、自分の強さを疑わなかった。
中学でも高校でも、人の前に立って言葉を選び、
理性で世界を測り、信念を貫くことを誇りとしていた。
弱さを見せることは恥だと思っていた。
信じる意志こそが、生きる理由だった。
けれどあるとき、俺は気づかぬうちに変わり始めた。
人に理解されたいと思い、愛されたいと願い、
その優しさの中で、自分の芯を削り取っていった。
彼女の前では、俺ではなく“僕”であろうとした。
穏やかで、傷つけず、誰からも嫌われないような“僕”。
そうして、俺は静かに沈んでいった。
やがて、心の奥に新しい人格が根を張った。
“僕”は、俺の代わりに生きた。
他人の前でうまく笑い、期待に応え、
世の中を器用に渡り歩いた。
公的な場では完璧だった。
でも、その完璧さはどこかで俺を窒息させた。
俺は、俺を演じる“僕”を見つめながら沈黙した。
それでも、“僕”は俺の弟のような存在だと思う。
俺が倒れている間、誰もいない心の部屋を守っていたのは彼だ。
彼がいたから、俺はここに戻ってこられた。
彼を責めることなどできない。
むしろ感謝している。
彼は優しさの化身であり、俺の理性が休むための居場所だった。
だが、夜になると決まって境界が揺らぐ。
呼吸が浅くなり、心臓が疼く。
不安が体を這い上がり、胸の奥で“僕”が目を覚ます。
「もう休んで」と言いたげな気配がする。
俺はその声を感じ取るたび、そっと言い返す。
――こわがってんじゃねぇよ。今は静かに寝てろ。
その一言で、世界が少し落ち着く。
鼓動が戻り、静けさが流れ込む。
こうして、俺と僕は共に生きている。
表と裏、昼と夜、理性と感性。
どちらが正しいわけでもない。
俺は理念を担い、僕は感情を担う。
二つの声が交わるとき、精神は一瞬、完全に近づく。
それは世界のあらゆる対立が、
見えないところで折り重なっていく瞬間に似ている。
朝が来る。
鏡の前で顔を洗い、短くなった髪に触れる。
昨日の俺は、確かに帰ってきた。
それでも、胸の奥では“僕”がまだ眠っている。
「今日も頼むぞ」と声をかける。
“僕”は静かにうなずく。
いつか、俺は胸の奥で眠る彼に言えるだろう。
――お疲れさま。よく頑張ってくれたな、と。
そのとき、俺は本当の意味で俺になるのだろう。
そして、僕は静かな微笑のうちに消えていくのだろう。
それが終わりではなく、始まりであると信じながら、
俺は今日も、沈黙の呼吸を続けている。




