目撃してしまった裏切り
夜の街、薄暗いバーの一角。
静かに流れるジャズと、微かに香るウイスキーの匂い。カウンターの奥で、神崎先輩が煙草をくゆらせながら、柚希に問いかけた。
「最近、悠斗とはどうなの?」
柚希は、手元のカクテルのグラスをゆっくりと回しながら、小さくため息をついた。
「……あんまり、うまくいってないかな。」
氷がグラスの中で小さく音を立てる。
「だろうな。最近、あいつ、冷たくないか?」
「……そうかも。」
柚希の声には、わずかな迷いがあった。
悠斗は昔から優しい男だった。どんなに自分がわがままを言っても、困ったように笑いながら受け止めてくれた。
でも最近、どこか距離を感じる。まるで、悠斗の心がどこか別の場所にあるように。
「まあ、そもそもお前は悠斗と付き合ってても、俺とこうしてたわけだしな。」
神崎はそう言いながら、指で柚希の髪を弄ぶ。
「……それは……。」
柚希は言葉を濁した。
最初は、ほんの出来心だった。悠斗が忙しくなり、すれ違いが増えた頃。
神崎先輩は、いつも余裕のある大人びた態度で、柚希を誘ってきた。
「お前も楽しんでただろ? 悠斗には言えないようなこと、たくさんしてたじゃん。」
耳元で囁かれる言葉に、柚希は微かに肩を震わせる。
その言葉が、過去の記憶を引きずり出した。悠斗には言えないこと。確かにあった。
「……そんなこと、言わないでよ。」
声を絞り出すように呟く柚希。
「別に悪いことじゃないさ。お前も、悠斗といるよりこっちの方が楽しいんだろ?」
神崎はそう言って、柚希の手を握る。
彼の手は温かかった。でも、その温もりは、どこか嘘くさいものだった。本当はわかっている。このまま彼の手を取れば、戻れなくなることを。
「……。」
柚希は、一瞬だけ躊躇った。
でも、結局――その手を振り払うことはしなかった。
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ふと、通りを挟んだ先のバーの窓に、見覚えのある姿が映った。
(……柚希?)
心臓が跳ねる。
いや、跳ねたというより、締め付けられるような感覚だった。
目を凝らすと、柚希の隣には神崎先輩。彼はリラックスした様子で笑い、柚希は視線を逸らしながらも、どこか穏やかに話していた。
(ただ飲んでるだけ……なのか?)
自分にそう言い聞かせる。
たまたま会っただけかもしれない。ゼミでやる事の相談かもしれない。
けれど、俺の手はじっとりと汗をかいていた。
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次の瞬間、神崎が柚希の腰に手を回した。
それを見た瞬間、呼吸が止まった。柚希は驚いた様子もなく、むしろ当たり前のように、それを受け入れていた。
(……そんな、嘘だろ?)
時間が止まったようだった。
目の前の光景を、脳が理解するのを拒否していた。けれど、それは確かに「今」起こっていることだった。
そして、二人はゆっくりとバーを出た。
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俺は距離を取って、無意識のうちに彼らを追っていた。
(頼む……何でもいい、ただの冗談であってくれ。)
俺の中で、かすかな希望がしがみついていた。
ただの酔った勢いかもしれない。何かの誤解かもしれない。けれど、現実は残酷だった。
二人は街の大通りを抜け、しばらく歩いたあと、人通りの少ない路地へと入っていった。その先には、ネオンが光るホテルの看板。
神崎が柚希の頬を撫でる。彼女は、少し微笑んでから、その手を取った。
(頼む。引き返してくれ……。)
心の中で祈る。
でも、祈りは届かなかった。柚希は迷うことなく、神崎と共にホテルの自動ドアの前に立った。
俺の胸が締め付けられる。
(ウソだろ……?)
神崎と柚希が、開いたドアに当然のように吸い込まれていく。まるで、最初からそう決まっていたかのように。
そして、俺の目の前で、ドアが閉まった。
音がしないはずなのに、その瞬間、俺には何かが崩れる音がはっきりと聞こえた。
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全身の力が抜け、足元がふらつく。
「……なんで……。」
呟いた声が震えていた。
俺の知っている柚希じゃない。俺の好きだった柚希は、こんなことをするはずがない。でも、目の前の現実は否定できなかった。
(全部……終わったんだな。)
その場に立ち尽くしながら、俺はただ、虚空を見つめていた。
心の中に、ぽっかりと空いた穴を埋めるものは、もう何もなかった。
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