カミサマの子供達
かつて神童と呼ばれた少女が、大人になり、それでも諦めきれない夢――女流棋士を目指していく掌編。
#南雲様主催 『匿名短文元神童企画』の応募作を改稿したものです。
思い出の中で、まだ8才の女の子だった私はこう問うた。
『ねえ、お母さん。この写真なぁに?』
それは、10才くらいの少女が、なにかのトロフィーを掲げている写真。どこかのホールっぽい背景で、写真の下にはマジックで『全国小学生王将戦』と書かれていた。
お母さんは、最初は気のない返事をしていたが、やがて台所から手を拭き拭きやってくる。
『ああ、それお母さんよ』
『将棋やってたの?』
『そうよぉ。ずいぶん前に、やめちゃったけど』
思えば。
これがあらゆることの分岐点だったのだ。
将棋という夢を知り、今の地獄を知るための。
◆
押し殺した息が、食いしばった歯の隙間から漏れ出した。
盤面を注視する。
緊張と重圧で、胃も脳も悲鳴をあげていた。スカートを握る左手は、もうずっと生地を掴んだまま。
手の緩みが気の緩みに繋がるなんてことはないはずだけど、今は何も手放したくなかった。
意地も、勝機も、チャンスも。
――いや、でも。
いやな予感が過ぎる。
ごくりと喉が勝手に動いた。
――チャンスなんて、本当にあるのかな。
私は盤面から視線を引きはがし、対局相手を見つめた。
研修会A2クラスの、遠野研修生。17才の男子高校生だ。
一方私は、B2クラス。格上との対局ということになる。
負けたくないという思いはあるけど、それは相手も同じだ。
なにせ、互いに、後がない。
将棋の世界でプロになる、そう思った時から、絶対的な関門が生まれる。
年齢だ。
男性の場合、満21才のまでに奨励会の初段に至らなければ、退会となる。遠野研修生がもし私に勝ってA2クラスから昇格すれば、奨励会からプロ棋士になる道が見える。研修会から奨励会への編入は18才が期限だから、向こうも崖っぷち。
一方、私もほとんど同じだ。
女性の場合は、B2クラスからB1へ昇格すると、女流棋士の資格を得られる。
ただ年齢は21――もう、21になってしまった。
大学3年、ここでプロになる見込みが立たなくとも、就職活動を始めなければならない。就職活動、そして働きながらでは、棋力の伸びはどうしても押さえられる。
働きながらも棋力を伸ばす人もいないではないが――この対局で、チャンスが狭まることに変わりはなかった。
遠野研修生が、持ち駒の『角』を切った。
こっちは『銀』で逆王手をかけ、相手を揺さぶる。
囲いの中に逃げていく王に、『歩』を進めつつ、私はもう一度息をつく。
緊張がきれない。研修会の持ち時間は30分、なくなると60秒の早指しが始まる。どちらも持ち時間は2分を切り、これからは瞬時の読みをぶつけ合う、力戦が待っていた。
体力。
体力がほしい。
「残り、1分です」
審判が、無情に時間を告げる。
だけど手が出せない。だって、これ――間違えたら、終わる。
思い出の中に逃げ出しそうになる。
小さい頃、お母さんが将棋大会で入賞していたのを知った。お爺ちゃんに将棋盤を借りて、何度か勝って、褒めてもらえた。
小学校では負けなしになった。
神童だと思った。
でも研修会ではなかなか勝てず、中学生、高校生と、棋力の頭打ちが続いた。プロになるという夢と、才能の頭打ちという現実で、心が削れた。
今、蜘蛛の糸よりも細い可能性に、私はぶら下がっている。
お願い、と気づけば呟いていた。
カミサマ、かつて、神童だった私を……女流棋士に、プロにして。
持ち駒で一番の大駒、『飛車』を敵の『王』の右に打ち付ける。首筋に刃を向けたようなものだ。
遠野研修生が受けた。
――4三『王』
下がる王を、『飛車』で追う。
さらに逃げる相手を、持ち駒を消費して。
――7八『飛』打
息が止まった。予想はしていたが、向こうも飛車を打ち、逆王手。
攻守が入れ替わる。こちらの『玉』を逃がす。
今、互いの命を握り合っている。
写真の中にいたお母さんの笑顔と、将棋を教えてくれたお爺ちゃん、そして今までの勉強や勝負が走馬燈のように過ぎった。
こんなに苦しいなんて、知らなかった。
それでも、と思った。
カミサマに祈るのを、やめる。
自分でなんとかしよう。神童じゃなくて、私がカミサマになるんだ。
――4四『歩』打
平凡な、ありきたりな駒。
もはや私の一部となっている駒。
祈るような気持ちで、相手の『王』の前に差し入れた。
ぱちん、と弾けるような駒の音。私の大好きな音。
世界が死んでしまったような静けさ。
ふっと、対戦相手が身を縮めるように息をついた。
「……負けました」
審判が宣言する。
「例会、第四対局、勝者は新田歩研修生」
私達は互いに礼をしあって、感想戦を始めた。
「……繋がりましたね」
遠野研修生は、悔しがるように、祝うように、私へ微笑んだ。
女流棋士への道が繋がったということだろう。
私は、緩みかけた左手を、もう一度強く握った。
「まだまだ、繋がっただけ。一歩一歩、積み上げていくしかないですよ」
激戦を受け止めた盤面で、『歩』の駒が陽光を照り返していた。