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5分くらいで読める作品集

カミサマの子供達

かつて神童と呼ばれた少女が、大人になり、それでも諦めきれない夢――女流棋士を目指していく掌編。


#南雲様主催 『匿名短文元神童企画』の応募作を改稿したものです。

 思い出の中で、まだ8才の女の子だった私はこう問うた。


『ねえ、お母さん。この写真なぁに?』


 それは、10才くらいの少女が、なにかのトロフィーを掲げている写真。どこかのホールっぽい背景で、写真の下にはマジックで『全国小学生王将戦』と書かれていた。

 お母さんは、最初は気のない返事をしていたが、やがて台所から手を拭き拭きやってくる。


『ああ、それお母さんよ』

『将棋やってたの?』

『そうよぉ。ずいぶん前に、やめちゃったけど』


 思えば。

 これがあらゆることの分岐点だったのだ。

 将棋という夢を知り、今の地獄を知るための。



     ◆



 押し殺した息が、食いしばった歯の隙間から漏れ出した。

 盤面を注視する。

 緊張と重圧で、胃も脳も悲鳴をあげていた。スカートを握る左手は、もうずっと生地を掴んだまま。

 手の緩みが気の緩みに繋がるなんてことはないはずだけど、今は何も手放したくなかった。

 意地も、勝機も、チャンスも。


 ――いや、でも。


 いやな予感が過ぎる。

 ごくりと喉が勝手に動いた。


 ――チャンスなんて、本当にあるのかな。


 私は盤面から視線を引きはがし、対局相手を見つめた。

 研修会A2クラスの、遠野研修生。17才の男子高校生だ。

 一方私は、B2クラス。格上との対局ということになる。

 負けたくないという思いはあるけど、それは相手も同じだ。

 なにせ、互いに、後がない。

 将棋の世界でプロになる、そう思った時から、絶対的な関門が生まれる。


 年齢だ。


 男性の場合、満21才のまでに奨励会の初段に至らなければ、退会となる。遠野研修生がもし私に勝ってA2クラスから昇格すれば、奨励会からプロ棋士になる道が見える。研修会から奨励会への編入は18才が期限だから、向こうも崖っぷち。

 一方、私もほとんど同じだ。

 女性の場合は、B2クラスからB1へ昇格すると、女流棋士の資格を得られる。

 ただ年齢は21――もう、21になってしまった。

 大学3年、ここでプロになる見込みが立たなくとも、就職活動を始めなければならない。就職活動、そして働きながらでは、棋力の伸びはどうしても押さえられる。

 働きながらも棋力を伸ばす人もいないではないが――この対局で、チャンスが狭まることに変わりはなかった。


 遠野研修生が、持ち駒の『角』を切った。

 こっちは『銀』で逆王手をかけ、相手を揺さぶる。

 囲いの中に逃げていく王に、『歩』を進めつつ、私はもう一度息をつく。

 緊張がきれない。研修会の持ち時間は30分、なくなると60秒の早指しが始まる。どちらも持ち時間は2分を切り、これからは瞬時の読みをぶつけ合う、力戦が待っていた。

 体力。

 体力がほしい。


「残り、1分です」


 審判が、無情に時間を告げる。

 だけど手が出せない。だって、これ――間違えたら、終わる。

 思い出の中に逃げ出しそうになる。

 小さい頃、お母さんが将棋大会で入賞していたのを知った。お爺ちゃんに将棋盤を借りて、何度か勝って、褒めてもらえた。

 小学校では負けなしになった。

 神童だと思った。

 でも研修会ではなかなか勝てず、中学生、高校生と、棋力の頭打ちが続いた。プロになるという夢と、才能の頭打ちという現実で、心が削れた。

 今、蜘蛛の糸よりも細い可能性に、私はぶら下がっている。


 お願い、と気づけば呟いていた。

 カミサマ、かつて、神童だった私を……女流棋士に、プロにして。

 持ち駒で一番の大駒、『飛車』を敵の『王』の右に打ち付ける。首筋に刃を向けたようなものだ。

 遠野研修生が受けた。


 ――4三『王』


 下がる王を、『飛車』で追う。

 さらに逃げる相手を、持ち駒を消費して。


 ――7八『飛』打


 息が止まった。予想はしていたが、向こうも飛車を打ち、逆王手。

 攻守が入れ替わる。こちらの『玉』を逃がす。

 今、互いの命を握り合っている。

 写真の中にいたお母さんの笑顔と、将棋を教えてくれたお爺ちゃん、そして今までの勉強や勝負が走馬燈のように過ぎった。

 こんなに苦しいなんて、知らなかった。

 それでも、と思った。

 カミサマに祈るのを、やめる。

 自分でなんとかしよう。神童じゃなくて、私がカミサマになるんだ。


 ――4四『歩』打


 平凡な、ありきたりな駒。

 もはや私の一部となっている駒。

 祈るような気持ちで、相手の『王』の前に差し入れた。

 ぱちん、と弾けるような駒の音。私の大好きな音。

 世界が死んでしまったような静けさ。

 ふっと、対戦相手が身を縮めるように息をついた。


「……負けました」


 審判が宣言する。


「例会、第四対局、勝者は新田(あゆみ)研修生」


 私達は互いに礼をしあって、感想戦を始めた。


「……繋がりましたね」


 遠野研修生は、悔しがるように、祝うように、私へ微笑んだ。

 女流棋士への道が繋がったということだろう。

 私は、緩みかけた左手を、もう一度強く握った。


「まだまだ、繋がっただけ。一歩一歩、積み上げていくしかないですよ」


 激戦を受け止めた盤面で、『歩』の駒が陽光を照り返していた。

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